玉稿激論集

玉稿をやっています。

シャングリラ2(fiction)

(1)

子どもの頃から勉強が大嫌いだった。特に算数。どこでつまずいたかははっきりしている。分数の足し算だ。わたしはいまだに1/2+2/3とかの計算ができない。どうやっても3/5以外の答えが思い浮かばないのだが、おそらく間違っているのだろう。分数の計算みたいな誰もがたやすくできることでつまずいてしまうと、そこから先の勉強にまるっきりついて行けなくなった。皆ができることができないことに劣等感も多少はあったけど、小学校ぐらいの頃は勉強をしないというのがある種のステータスにもなっていたから、授業中もある種の優越感を味わいながら寝ていた。

 

今思うと家庭環境にも問題はあった。お父さんには生まれてから一度も会ったことはないし、お母さんもわたしと同じで勉強が大の苦手だったから、わたしに勉強を教えることができなかった。そもそもお母さんは仕事や男遊びで家にいないことが多く、わたしはいつも狭い部屋で放課後の長い時間を一人で過ごしていた。幸せでありふれた一般の家庭と比べると、確かに不幸な家庭だったと思う。

 

義務教育とかいうので中学校は卒業できた。でも、わたしの学力で入れる高校というのはなく、周りの同級生が高校に行くなか、わたしと仲の良い友人の何人かは宙ぶらりんな生活を始めた。友人の中には援助交際をしたり、風俗で働いたりして荒稼ぎする子もいたけど、わたしにはそんな仕事で大金を得てまで買いたいものもなく、相変わらず家でダラダラ漫画を読んだりゲームをする日々を過ごしていた。お母さんが交通事故で死ぬまでは。

 

バイト先で出会った先輩と同棲するようになって、妊娠した。17歳のときだった。彼は「結婚はできない。堕してくれ」と頼んできたけど、どうしても生みたかった。自分の中に新しい命があるのにどうしてそれを殺すことができる。どんなに小さくてもそれは「ラン」とか「イデンシ」とかいう味気ないものではなく、わたしの子どもなのだ。生まれてくる前からわたしは名前を決めていた。大好きな漫画の主人公と同じ名前。彼のように頭のいい子になって、わたしみたいに勉強で苦労してほしくない。

ライトは祝福されて生まれてきた。

 

(2)

結局ライトの父親とはうまくいかなくなり、別れた。最後まで籍は入れていなかったから正しい呼び方ではないと思うけど、周りが「モトダン」って言うのを、いちいち否定することなく流していたら、いつの間にかわたしもそう呼ぶようになっていた。

 

「実はモトダンとの間に子どもがいて…」

と言ったとき、トモヤくんは少しもいやな顔をしなかった。

トモヤくんとは友達の紹介で知り合った。彼女を欲しがっているということだったし、わたしもライトと2人きりの生活に心細さを感じ始めていた頃だったから、会って話してみることにした。口数は少ないが優しそうな人だった。

「今度ライトくんにも会わせてくださいよ」

そう言う彼とまた会いたかった。

4回目のデートのとき、トモヤくんから交際を申し込まれ、自然な流れでわたしたちは付き合うことになった。その後はライトも交えて何回も3人でデートした。ライトはトモヤくんによく懐くし、トモヤくんもライトのことを可愛がってくれる。トモヤくんとなら幸せになれる。そう思った。

 

就職を機にトモヤくんは会社の近くに引っ越し、3人で暮らせる部屋を借りてくれた。トモヤくんの会社の給料はお世辞にも高いとはいえず、生活は決して楽ではなかったけど、毎日3人で夜ご飯を食べられるのが幸せだった。トモヤくんは毎日ビールを1本だけ飲む。普通のときは発泡酒。少しいいことがあったらスーパードライ。わたしが昼から煮込んだおでんの大根を頬張るライトとトモヤくん。わたしたちは紛れもなく家族だった。

 

ただ、自分から結婚してほしいとは言い出せなかった。女から結婚を迫るみたいな話はあまり聞いたことがないし、トモヤくんに変なプレッシャーをかけたくなかったからだ。でもやっぱり結婚したかった。彼のことが好きだったいうのももちろんあるけど、もう一つ理由があった。ライトのことだ。

ライトはもうじき5歳になる。普通なら保育園に行く年齢だ。でもわたしが収入の安定しないシングルマザーのせいで、これまでずっと保育園に行かせてやれなかった。もしトモヤくんと結婚したら、ライトに外の世界を見せてあげることができる。そんなことを考えていた。

トモヤくんが結婚を考えるようになってくれた直接のきっかけは、わたしの妊娠というありふれたものだった。わたしとトモヤくん、そしてライトは抱き合って喜んだ。幸せな未来しか見えていなかった。

 

(3)

身体の調子が優れないから、産婦人科で診察してもらった。診断結果を伝えに来た女医さんが神妙な面持ちをしていたことまでは覚えているのだけど、そこから先の記憶は曖昧だ。あまりに辛いことが起きると、記憶の断片が失われるというのは本当だった。どうしてよりによってわたしが。ちゃんと健康にも気を使って生活していたし、食事も身体にいいものを毎日食べていた。無数の「どうして」が頭の中で渦巻く。

なんで妊娠するのは女なんだろうとふと思った。妊娠するのが女である以上、死産するのももちろん女だ。男は妊娠もしないし、死産もしない。ただ種をばら撒くだけ。そんな当たり前のことがどうしようもなく不公平に思えた。トモヤくんは中絶のための手術代を出してくれたし、一緒に悲しんでもくれた。でもそれだけだ。わたしが感じている「ほんとうの」悲しみや喪失感や罪悪感は、男のトモヤくんには絶対にわかりっこない。わかってもらいたくもない。

子どもができたとき、「これでトモヤくんはわたしから逃げられない」という気持ちが心に浮かんできたから、なんとなく後ろ暗くなってすぐかき消した。でも、今になってみると、それぐらいのこと思ってもよかったじゃんって思う。そんな思いをかき消していい人間であろうとしても、こうやって死産するんだったら、かき消すだけ無駄だ。

もう何もかもどうでもよくなっている。トモヤくんとのことや、ライトのこれからのこと。考えなきゃいけないことはたくさんあるけれど、今は何も考えたくない。

 

別れを切り出してきたのはトモヤくんからだった。わたしからしたら些細なことでいつものように喧嘩になって、「もう我慢できへん。出て行ってくれ」と言われた。800円の買い物をお釣りのでない千円分の商品券でしただけだ。まあ、うまくいっているときからわたしはこういうミスが多くて、そのたびにトモヤくんを苛立たせていた。それが一線を超えてもう耐えられないと本気で思ったのか、単に別れるきっかけを探していたのかはわからない。算数ができない人間には本当に苦労が多い。

出て行けと言われたんだからもう出て行くしかない。ここはトモヤくんの家だし。でも、一体これからどこに行けばいいんだろう。わたし一人だったらなんとでもなるけど、ライトがいる。わたしの宝物。わたしに出て行けということは、ライトも出て行けということだ。トモヤくんはひどい。ライトが君に何をした。この言い分がわがままで身勝手で独りよがりなことは、わたしが一番わかっている。トモヤくんとはいい思い出もたくさんあるし、感謝していることももちろんある。でも、彼がライトを路頭に迷わせたというただ一つのことだけで、彼を一生恨める気がした。

部屋を出るとき、トモヤくんはわたしには何も言わず、ライトにだけ「またな」と声をかけた。ライトは黙ってただうなずいていた。

マンションを出たわたしはライトの手をしっかりと握る。何があってもこの手を離さない。そう誓った。

シャングリラ(fiction)

(1)

「次いつ宅飲みするんすか?」

「まあ、いつでもいいっすよ。でも部屋が散らかってるんでね、掃除をしないといけないのが面倒ですわ」

夜勤終わりの後輩に聞かれ、俺はそう答える。古びた事務所の中。床は黒ずみ、椅子はガタ付き、そこら中に書類が散らかっている。眠い、朝だから。

 

「そんなこと言っておきながら、僕が行くってなったら、楽しみになって、部屋もめっちゃきれいにするんじゃないですか」

見透かしたような切れ長の目で彼は言う。まあ、当たらずとも遠からずというところだ。一人で暮らしている分には、部屋を掃除する必要というのはほとんど生じない。布団の上でほとんどの用を済ますことができる以上、埃もさほど舞わないし、舞ったとしても気にしなければいいだけの話だ。誰かが来訪する段になって、虚心に眺め渡すと、たいそう散らかっている(汚れているのではなく)ことに気がつき、掃除に取りかかる。別に知人の来訪を楽しみにしているわけではない。部屋を訪れた彼らに引かれたくないから、一応片付けておく。それだけのことだ。

 

「ちょっとおもろい話があるんすよ、〇〇さんの家行ったとき話しますね」と言う後輩は、また何か女関係でやらかしたのだろう。彼は社内で気に入った女子社員がいると、先輩後輩問わず積極的にアプローチする。俺の見る限り、あまりうまくいっている様子はないが、決してへこたれない。次から次へと声をかけている。俺たちが列をなしている客に向かっていつも言い放つ台詞「Next !(次の方!)」をそのまま座右の銘にしているかのようだ。そんな自分とはまるっきり異なった性格の後輩と、俺は不思議と気が合った。彼がなぜ俺を慕っているのかはわからないが。

 

「なんかいい知らせがあるんすか?」

「いや、悪い知らせです」

「どうせ自分がまいた種でしょ」

そう言うと、後輩は苦笑いしたように見えた。

そうして後輩は退勤時間を迎え、俺は始業時間を迎えた。

 

(2)

その日は仕事が休みで、俺はいつもの休日と同じように怠惰な朝を過ごそうとしていた。遅くに起きて、テレビを見ながらまずいコーヒーを飲む。テレビのつまらなさに気づいたら、YouTubeを見る。眠くなったら再び布団に潜り、気がついたら午後3時になっていて落胆するいつも通りの休日。そんな休日を過ごせるという、全く淡くない筋金入りの期待は、昼過ぎに入った一本の電話により脆く崩れ去った。

 

「今、仕事終わったんですけど、宅飲みするの今日の夜でいいすか」

タクノミ?宅飲み?ああ、そんな話もしてたなとそこで思い出す。今日飲みたくて仕方がないというわけではないが、断る理由も見当たらない。俺は了承を伝えて、電話を切った。今夜は鍋を食おうと思った。そのために鍋を買おうと思った。

 

予定が入ると、人生は音を立てて動き出す。俺は布団から起き上がり、ベランダの窓を開けた。冷たい空気が部屋に流れ込み、それと同時に数日間部屋に溜まっていた淀みがのろのろと外を吐き出されていく。部屋に吹き込む気持ちのいい風が床の埃を舞い上げるなか、俺は久しぶりに掃除機をかけた。

 

散らかった部屋には不要なものが溢れていた。何ヶ月も前の公共料金の請求書から、就職試験のときに使用していた参考書まで。それらを全て処分すると、部屋はなんとも無機質な空間となって、俺の前に現前した。座禅を習慣としている知人が以前この部屋を訪れたとき、「こんな部屋ではいい"座り"はできない」などと言っていた意味が、今になって少しわかったような気がする。当時は部屋をきれいにしなければ悟らないのなら、悟らなくていいと思っていたし、今にしたって悟りの境地に至りたいという願望はないが、座禅を組んで無みたいなものと向き合うのなら、目の前の風景はできるだけ整頓されていた方がいい。まあ、俺には関係のない話だが。

 

(3)

スーパーで鍋の具材を買って帰ると、後輩はすでに一人で部屋に座って缶ビールを飲んでいた。「遅くなるかもしれないから、郵便受けに鍵を入れといた。俺がいなかったら勝手に入っといてください」と言ったのは自分だから、驚きはしない。でも、なぜか「ほんまに勝手に入ってるやん」と思う。俺が逆の立場なら入るだろうか。多分入らない。まして勝手に酒を飲むなどしない。「育ちの違い」の一言では片付けられない大きな隔絶がここにはある。そんなことを考えながら、俺は冷凍庫で冷やしたグラスを後輩に差し出した。ビールは缶で飲むよりグラスに入れた方がうまいからだ。グラスが冷えていると、なおよい。

 

「実は僕、女と同棲してたんすよね、もう別れたんですけど…」と後輩が話し始めたのは、我々の会話が途切れたためだけではなかった。そもそもの事の成り行きからして、彼はこの話をするために今ここにいるのだった。

 

後輩には入社する前から同棲していた恋人がいた。一歳年上の中卒の女。女は別れた旦那との間にできた子を連れていた。後輩は女との快楽のために二十歳そこらで血の繋がっていない子どもから「パパ」と呼ばれる人生を選んでしまう。当初はうまくいっていた。血の繋がりはないとはいえ、毎日一緒に過ごしていたら、愛情は湧く。おもちゃを買ってやったりしたし、手を繋いで遊園地にも行った。決して派手ではないけれど、慎ましやかな幸せがそこにはあった。

もちろんそんな日々は長続きしない。恋人が別れた旦那に多額の借金をしていたことがわかると、後輩はそれを肩代わりし、毎月の少ない給料を返済に充てた。こうなると次第に、子育てのためとはいえ働きに出ない彼女に苛立つようになってくる。大体、連れ子はもう保育園に入る年齢なのだ。

後輩が乗り込んだトロッコはしかし、暴走を止めない。彼女は後輩の子どもを身ごもっていた。

 

「じゃあ結婚することを考えてたんですか」

俺はくたくたになった白菜を頬張りながら聞く。

「そりゃ、考えますよね、さすがに子どもできてるし。でも彼女、死産しちゃったんですよ」

「え」

部屋の空気が固まる。純度100パーセントの沈黙が流れる。俺はかけるべき適切な言葉を探す。頭の中にはない。部屋の隅にも言葉は転がっていない。なにせ、この部屋は掃除したばかりなのだから。

俺は数秒の沈黙の後、「いろいろ大変でしたね」とだけ言った。

 

毒にも薬にもならない言葉だと思うが、不用意な一言で相手を傷つけたくなかった。本当は「荷物は少ない方が生きやすいんじゃないですか」と言いたかった。どこかの歌手も「手ぶらで歩いてみりゃ楽かもしんないな」と歌っているじゃないか。若く、金もない君が借金を抱えた女や血の繋がっていない連れ子に加えて、小さな命まで背負って生きていくことはない。そんな必要はどこにもない。偉そうにも、年上というだけで、俺はそんなことを考えていた。

 

後輩と同棲していた女に対しては、あまりいい気はしなかった。別れた旦那との間の子を連れた中卒の女。多額の借金も抱え、ついには後輩との間に子を身ごもった、数え役満の女。現実には存在するとは思っていなかったそんな女が後輩の人生に現れ、彼に消せない負い目を残して去って行ったことを思うと、無性に腹が立った。

 

「〇〇さんこの前僕が悪い知らせがあるって言ったら、『どうせ自分がまいた種やろ』って言ったじゃないですか。僕あのときうまいこと言うなあって思ったんですよね。まさに自分のまいた種で起こったことじゃないですか。もしかして知ってました、この話?」

俺の感情をよそに後輩はヘラヘラしている。安心した。安心ついでに後輩に彼女と別れた時期を尋ねると、思いのほか最近だった。ということは彼が職場の女子社員に熱心に声をかけ、食事にこぎつけた頃、まだ彼は中卒の女と付き合っていたことになる。そのことを指摘すると、後輩は「まあ、いろいろ目移りするじゃないですか」とおどけ、俺は爆笑した。後輩がわかりやすいクズであることが嬉しかった。

 

別れ際、申し訳程度に鍋の食材や酒の代金を払おうとする後輩の申し出を俺は言下に断った。遠路はるばるやって来て面白い話を聞かせてもらった上に、金まで要求できないだろう。それに、彼も来る途中につまみをコンビニで買ってきてくれていた。結局手をつけなかったから、明日以降の俺の晩酌に供されることになる。つまみの他は何も持って来ていなかった後輩は、手ぶらで夜の闇に消えていった。

銃が教えてくれたこと

ついに24シリーズを全部見終わった。1シーズン24話(シーズン9と10は12話)が10シーズンとスピンオフの映画が1本あったから、全部で217話。いやー、面白かった。控え目に言って、全シーズンの全話に満足している。これからどうやって暇を潰そうか。

 

連邦捜査官(federal agent)のジャック・バウアーが一日中休まず働いて、アメリカをテロリストから守る話。それが24だ。とにかく展開が早く、何がどうなっているのか一瞬わからなくなることもあるが、それだけテンポがいいからこそ、飽き性の自分でも退屈せず見ることができたのだと思う。

 

2001年9月11日の同時多発テロは、世界を大きく変えてしまった。恐怖に慄く人々は、現実から目を逸らして、ファンタジーに救いを求めたし、テロリストの蛮行に怒る人々は、現実を直視して、戦いに備えた。ハリーポッターの映画の一作目が公開されたのは、2001年の12月で、24のシーズン1が放送されたのは、同年11月というのは、象徴的だ。映像作品の分野においても、空想と現実が真っ二つに分かれたのだ。

 

みたいな話を漫画家の山田玲司がしていたから、文章に厚みをもたせるために書いておいた。僕の意見ではない。大体、極東に住む僕にとっては、24もほとんどファンタジーだ。24で起こるようなことは、本邦ではまず起こらない。そのことが僕を安心させてくれる。

 

以前は暗い夜道を歩いているときに、背後からガタイのいい男が近づいてくると、若干の恐怖を感じていた。いきなり殴りかかられたりしたらどうしようかと。でも、最近は「24じゃあるまいし」と自分の中の不安を一笑に付せるようになった。要人でもない僕を拉致するほど世間も暇ではない。それにこの国は平和だ。多分今のところは。 

 

この国と彼の国の違いとして、彼の国が銃社会であることは、いくら強調しても強調しすぎではないだろう。小耳に挟んだことだが、日本の警官は、退職するまで一度も現場で発砲しない者が大多数を占めるらしい。一方、アメリカでは事情は異なる。銃を乱射した犯人が駆けつけた警官により射殺されたなんてニュースは、日本で暮らしている我々にだってしばしば伝わる。そう、彼の国の警官は発砲するのだ。さもなければ自分が撃たれるのだから。

 

「銃を抜いたからには命を懸けろよ」「そいつは脅しの道具じゃねェ」というのは、ワンピースの第1巻でシャンクスが放つセリフだが、24の世界の住人は、シャンクスほど肝が据わっているわけもなく、誰かを脅すときに銃を構えることがままある。でも、彼らだって何の覚悟もなしに相手に銃を向けることはない(「命を懸けているのか」と言われれば微妙なところだけど)。何せ指に力を込めるだけで人を殺せる代物を手にしているのだから。

 

銃は本当に強い。ゆえに、それを向ける者と向けられる者の間には、明確な力関係が生まれる。どんなに屈強な男でも、銃を構えた子どもの前では無力だ。

 

もし銃を向けられたら、どうしたらいいだろうか。死にたくないのなら、一にも二にも相手の指示に黙って従わねばならない。手の平を見せて抵抗する意志がないことを示して跪き、手を頭の上で組む。自分も銃を持っているのなら、ゆっくりとそれを床に置き、相手がいる方向へ蹴る。まあ、これぐらいは誰でもできるだろう。より大事なのは、相手の顔から目を逸らさないことだ。決して取り乱すことなく、自分を殺そうとしている者の顔を(できれば目を)じっと見据える。彼が本当に君を殺す気なら、耐えきれず君に後ろを向くよう命じるだろうが、この命令には従ってはならない。「撃つなら私の目を見て撃て」。今度はこっちが命令する番だ。この命令を忠実に実行できる者は少ない。目は口ほどに、いや口以上に物を言うからだ、「撃つな、殺すな」と。

 

24を見ていて意外だったのは、死にたくないのは無辜の市民もテロリストも同じだということだ。死を恐れていないように見えるテロリストも銃を向けられると、その目で生への渇望を訴える。それは別に、彼らなりの「大義」を達せずに死ぬことがやりきれないからだけではない。何よりもただ単純に死にたくないからだ。引き金に指をかけた者の意志に生死が左右されるときになってはじめて、月並みな表現しかできないところの「命のありがたみ」がわかる。なんとも皮肉なことだが。

 

しかし、どれだけ命乞いをしても、引き金を引く者はいる。特に注意すべきは素人だ。銃を使い慣れていない一般人が怒りに我を失い、情報を握っているテロリストの一味を撃ち殺し、ジャックの仕事が増えるのは24の鉄板の流れだ。風物詩といってもいい。24において銃があることで解決した厄介事と、銃があることで生じた厄介事のどちらが多いのかについては、識者の見解を待つほかないが、一視聴者の僕が何度も「銃さえなければ」という感想を抱いたのは事実だ。銃があるとマジで思ったようにいかない。人間の行動には不確定要素があまりにも多いのに対し、弾丸はほぼ確実に貫かれる者の命を絶つ。そして、このアンバランスがジャックを、事件を、歴史を、突き動かす。

 

たった数ミリの鉄の塊に撃ち抜かれるだけで、その活動を永久に停止してしまうような「乗り物」。それが我々の身体だ。あまりにも脆い。銃が発明された世界線で生きているにもかかわらず、平和ボケしている僕はこの至極当然なことを忘れていた。

 

なんかやっぱり夜道には気をつけた方がいい気がしてきたな。

帰れぬ者たちー『服従』の主人公と宮迫とー

期間限定で配属されていた部署から元の部署に戻ってきたとき、とある先輩に「久しぶりの現場はどう?」と尋ねられた。

 

「いやー、やっぱり自分のいるべき場所はここだったんだなって思います」

 

そう答えた。適当に。いや、テキトーに。

 

「ここがまさに自分の居場所だ」と言えるような場所をもっている人が一体どれくらいいるだろうか。我々の多くはどこに行っても、ジグソーパズルのピースのようにぴったりとその場所にはまることができないのではなかろうか。上昇志向が強いわけでもないのに、常に「ここではないどこか」を探している。家で一人で過ごしていると、次第にやることがなくなり、物足りなさや正体不明の焦燥感に駆られる一方で、仲の良い友人と楽しく遊んでいるときには、ふとした瞬間に、猛烈な「帰りたさ」を感じたりする。でも、家に帰ったところで次第にやることがなくなり…と同じことの繰り返しだ。

 

一体我々はどこに帰ればいいのだろうか。どこに行けばいいのだろうか。両親の住む実家に?僕の場合は違う。だからこそ、育った町から遠く離れた大学に進学したし、就職のタイミングで親元に戻ることもなかった。もちろん久しぶりに帰省すると落ち着くし、楽しい時間を過ごせる。でも、パズルのピースははまらない。

 

行き場を失い彷徨っている者たちの物語は、そんな中途半端に根無草状態である我々に深く突き刺さる。YouTuberになった宮迫博之の人生はその好例だ。

 

世間を騒がせた闇営業騒動をきっかけに、テレビから姿を消した宮迫は、YouTubeを新たな活動の場とした。チャンネルを開設した当初から、彼の目標ははっきりしている。テレビの世界に、というかアメトーーク に、復帰することだ。彼はアメトーーク を「実家」と表現し、「やっぱり実家には帰りたいよね」とこぼす。でも、今のところ、宮迫がアメトーーク に復帰する気配はないし、これからもないと思う。勝手な想像だけど。

 

YouTubeでも宮迫は楽しくやっているように見えるが、やはりどこかに影がある。無理もないだろう。彼はカジサックのように一大決心をしてYouTuberになったわけではない。テレビから干されたという止むに止まれぬ事情があったから、「仕方なく」、本来なるはずではなかった(言うなれば見下していた)YouTuberになったのだ。

 

宮迫がYouTubeを全力でやっているというのは、紛れもない事実だろう。チャンネル登録者数だって120万人を超えている。でも、どれだけYouTube上の支持者が増えても、そこは彼の「ホーム」とはならない。そもそもの始めたきっかけからして、YouTubeは宮迫にとってテレビに戻るための踏み台を備えた仮の住まいでしかないからだ。

 

では、宮迫がアメトーーク に復帰できたらそれで何もかも元通りになるのかといえば、そう単純ではない。

 

万が一、再びアメトーーク のステージに立ったとしても、宮迫は以前のような輝きを放つことはできないだろう。件の闇営業騒動をゲストの芸人が面白おかしくイジる。それに対して宮迫が気の利いた返しをする。その様子を違法転載されたYouTubeで見ながら、僕は笑うだろう。でも同時に僕は思う。「何かが違う」と。宮迫も思っているはずだ。「何かが違う」と。一度自分を見捨てた「実家」は、もう以前の温かな「実家」とは違う。そこはどこか決定的な点で大きく変わってしまっている。宮迫自身にしたってそうだ。身から出た錆のせいで、彼は大きな負い目を背負って生きていくことになった。そんな彼が以前のように上から目線でゲストの芸人たちをイジることなどできないだろうし、もし仮にできたとしても、その様を僕たちは以前のように虚心に笑うことはできない。

 

騒動以降の宮迫は、どこにいても「ここではないどこか」を探し求めているように見える。言うなれば、放浪者、ボヘミアンだ。そしてその姿にこそ、現代を生きる我々の多くは強い共感を覚える。

 

ウエルベックの近著『服従』の主人公「ぼく」(名前は確かフランソワだった)も、彷徨う我々を写し出す鏡だ。中年の大学教授である彼は若くて美しい恋人といても、どこか満たされない。彼女が去ってからの状況はさらに悲惨だ。彼は文字通り孤独になる。スーパーで惣菜を買ってきてレンジで温め、酒と一緒に食べる。もちろん一人で。彼には話し相手となる知人はいるけれど、友人はいない。旅行にも一人で行く。

 

作品では、激動のフランス大統領選挙が描かれ、登場人物たちにより難解な政治論議がなされるが、フランソワが特定の政党を支持している様子はない。投票に行っている描写もなかった。多分行ってないのだろう。まあ、当然といえば当然のことだ。孤独を抱えた者にとって、右派がどうとか、左派がどうとか、はたまた中道がどうとかなど些末な事柄であるからだ。彼にとっての急務は、その孤独を癒してくれる誰かや何かを見つけ出すことである。でも、フランソワはそれを見つけられない。金で買った女は刹那的な快楽しかもたらしてくれないし、旅先の教会での信仰生活からも満足を得られない。

 

さらに悪いことに、作中で彼は両親まで失う。中年男が疎遠になった両親と死別するということ自体は、この世界において頻繁に起こることだ。しかし、どれだけありふれた出来事だとしても、一人の人間にとってそれが重大な事件であることに変わりはないと思う。

 

幸い僕の両親はまだ元気にしているけど(多分)、彼らがほぼ確実に僕より先に亡くなることをふとした瞬間に思うと、落ち着かない気持ちになる。でもだからといって、何ができる。将来感じるであろう悲しみから目を逸らして、日々の生活を続けるしかないのだ、結局のところ。

 

孤独な無神論者フランソワが、イスラームへの改宗を決めるのは、無理からぬことだ。改宗して復職したら、3人の妻をめとることができると言われたのだから。仕事を辞めた彼は復職を勧めてくる学長に、「イスラームの女性は顔をベールで覆っている。それは女性を選ぶ際に問題となる」という主旨の不安をオブラートに包んだうえで明かす。その人間味に我々は深く感じ入る。

 

改宗して3人の若くて美しい妻をめとった先に、フランソワは心の安息地を見つけられるのだろうか。わからない。わからないが、敗色濃厚な気がする。

会社という宇宙、人間という宇宙

コピー機から出てきた給与明細を持って自席に戻ると、なぜかノートパソコンの画面が閉じられていた。

 

「〇〇さん、パソコンに明細がでかでかと写っていたから、画面を閉じておきましたよ」と先輩職員が言う。俺は感謝を述べたあと、「まあ、誰に見られても問題ないですよ。どうせ低額所得者だし」と自虐する。「いっそのこと乱視になったら、明細のゼロが1、2個増えて見えるから幸せになれるかもしれないですね」とも言った。先輩はからからと笑う。年功序列が色濃く残る弊社では、先輩は俺の倍以上稼いでいるはずだ。泣く子が俺の給与明細を見たら、黙るどころかさらに泣き喚くだろう。他にも色々例え様はある。バイト頑張った大学生とか。

 

ここ数年、年末年始も実家に帰省することなく、せこせこ働いている。祝日扱いになるその期間に働くと、幾ばくか給料が増えるからだ。「貧乏サラリーマンの稼ぎどきやねん」と言うと、親族も納得してくれる。

 

薄給だけど、生計は維持できているし、辞めたくて仕方ないというわけでもないから、出勤を続けている。今のところそこまできつくないし。

 

会社に入って以来、「働いたわー」と感じたことは一度もない。俺は「働く」とか「労働」という言葉から、いわゆるオフィスワークを思い浮かべることができない。どういうわけか、エクアドルあたりでラテン系の男共が、炎天下の中バナナが大量に入った木箱を肩に乗せてせっせと運んでいる映像がイメージされる。これはおそらく、自分の労働の原体験が関係している。大学のとき、某飲食店で肉体労働をしていたせいか、重たいものを運んだり、額に汗したりしないと、働いた気がしないのだ。

 

毎日時間が来たから行く。それだけの話だ。「出勤」という言葉を使うのもおこがましい。どちらかというと、「登校」の方が近い。

 

「登校」すると、本当に色々な人がいる。いや、ほんとに。こんな国だから、人種こそ同じだけれど、様々なバックグラウンドを持った人がいる。何らかを患っている人も何人かいる。色んな人がいる状況は、人と話すのが好きな僕にとってはありがたい。同僚や先輩と様々なたわいのない話ができる。その中で、その人の意外な一面だったり、自分との共通点がわかったりするのは面白い。

 

でも、そんな風に楽しく話している同僚や先輩が、ときに怪訝な言動をとることがある。僕からしたらあり得ないことを彼らが平然とやってのけるのを見ると、そのあまりにも大きな隔たりに名状し難い気持ちになる。

 

例えば、会社や自分が属している部署を「うち」とか言う人を見ると、ひやっとする。何が「うち」だよと思う。些末なことかもしれないが、自分がロイヤリティーを抱いていない組織を「うち」と形容する人とはどこか決定的な点で分かり合えないように感じる。というか、僕は今まで属してきた組織を「うち」と表したことがあっただろうか。思い出せない。

 

上司にわざわざ自分から話しかけ、世間話をする人も、どうかしている。僕は上司とコミュニケーションをとるとき、どうしても萎縮してしまう。なぜ少なくない数の人々は、自分のことを評価し、叱る可能性もある人とあんなに楽しくおしゃべりできるのだろう。わからない。

 

当然のことだが、社内には、評判のいい人もいれば、評判の悪い人もいる。僕としてはいい人だと思っている人を、仲のいい同期が悪く言うことだってある(その逆ももちろんある)。改めてその人の言動を眺めてみると、同期の気持ちがわかることがある。「そんな言い方せんでもいいじゃん」と思う言い方で、同期らに向かって話していたりする。そのことをもって別に嫌いになったりはしない。ただもやもやする。

 

というか、我々は「あの人ほんまはええ人やで」と安易に口にしがちだ。でもその「ほんま」とは何なのか。嫌いな人がいるとして、その人の「ほんま」の部分を知ったら、その人のことが好きになるという事態を僕はうまく想像することができない。ひとりひとりの人間にはあまりにも多くの側面があり、そのことを思うと、気怠さや疲労感に襲われる。みんな本当にわかりにくい。

 

最近話題がとっ散らかってしまいがちだ。給料の話をしていたかと思うと、いつの間にか働くとは何ぞやみたいな話をし、その後には社内の愚痴めいたことを書いている。全くつながりがないわけではない。でも、はてなブログ特有の(?)段落と段落の間の広い行間に助けられている感は否めない。

 

ここのところ、記事を更新していなかった。何も書くことが思い浮かばなかったからではない。日々色々思うことはあったが、それをうまいこと整理することができなかったのだ。先日走ったら思考がまとまると書いた。でも、今回はどれだけ走っても駄目だった。僕の思考はたゆたいながら、確実に沈んでいる。

 

誰よりも速く

(1)よくわからない導入から本題へ

 

もんがまえの漢字は、うまいことできていると思う。

 

門という字は、神社の鳥居のように見える。内部と外部の境界線。その門から映し出される世界を、もんがまえの漢字は巧みに表現している。

 

陽が昇るときや沈むとき、門の向こうの地平線に太陽が見える。それをそのまま表したのが、「間」だ。門と彼方の地平線のあいだを移ろう夕日(もしくは朝日)がありありと想像できる、絵画のような漢字だ。

 

門の外側に誰かがいるのかどうかはわからないけれど、気配だけが感じられる。かすかに何かの物音が聞こえる。その様子を古の先人は「闇」と書き表した。

 

みたいなテキトーな話をしている者に対して、「じゃあこのもんがまえの漢字はどうなんだよ」と、もんがまえの漢字を羅列して尋ねたくなる向きもあるだろう。しかし、我々がぱっと思いつくもんがまえの漢字というのは存外少なく、「閃はどう説明するん?」ぐらいの質問が関の山になる(まあ、「問」も「関」も「もんがまえ」なのだが)。

 

学者が画期的なアイデアを思いつくのは屋外と相場が決まっている。ニュートンがずっと部屋に閉じこもっていたら、木からリンゴが落ちるのを見て、万有引力の法則を発見することはなかっただろうし、西田幾太郎だって後に「哲学の道」と名付けられたエリアを散策するなかで、巨大な思想体系を構築していったはずだ、多分。

 

外に出たことで頭の中が整理された経験は僕にもある。些末なことで頭がパンクしそうなとき、外を出歩くと不思議と打開策が思い浮かんだりする。そう、人は門の外においてこそ、妙案をひらめくのだ。その様子を古の先人は「閃」と書き表したわけだ。

 

帰宅後に走る生活を続けている。走っていて、歴史に残る物理法則や哲学理論をひらめくことはないけれど、自分の考えがうまい具合にまとまることがある。頭の中のいくつかのほつれが点となり、それらが線で結ばれていく感じ。なんだか嬉しくなる。

 

走ることの効用はそれだけではない。

 

日々を徒然なるままに過ごしていたとしても、生きている以上何も思わないことはない。他人の何気ない一言に意外と傷ついたり、自分のふとした言動が誰かを不快にしたかななどと思い悩むことがたまにある。そういうことを思い始めると何も手につかなくなる、なんてことはないけど、どこかに「引っかかり」は感じている。

 

走っているとどういうわけか、この「引っかかり」にいい意味で諦めがつく。「まあ、いっか」「まあ、仕方ないよな」と思える。家でだらだらしているときには抱けなかった感情だ。他人の何気ない言動にいちいち落ち込んでいたらきりがないことに気づく。自分の言動にしたってそうだ。日常生活において、平均的には他人に気を使っている自覚はあるけれど、別に必要以上にそうしているわけではない。そんな自分の言動を不快に感じたり、怪訝に思う人がいた場合に、もはや僕にできることはほとんど残されていないのではないだろうか。言うなれば、ベストを尽くしたのだから、後は野となれ山となれだ。

 

アンタッチャブルザキヤマは、ロンハーの隠し撮り企画で「悩むことはあるか」と問われて、「ない」と答えたあと、理由をこんな風に語っていた。「何か失敗したときに、あの時こうすればよかったなというのが思い浮かんだのなら、次からはそうすればいいし、解決策が思い浮かばなかったなら、もうこれは自分にはできないことなんだって諦めるしかないじゃん」。天才芸人は何とも平明な結論に至っている。そして僕はなぜか、走ることによって、このことを文字通り身をもって感じられるのだ。

 

(2)尾崎豊とスピードの追求

 

調子に乗ってペースを上げすぎた結果、ふくらはぎが爆発して激痛を味わったあの日以来、のろのろと走るように心がけている。他人に追い抜かれることもしばしばだ。別に何も思わなかった、ここ最近までは。

 

「思わなかった」と過去形を用いたのには、理由がある。走ることが習慣化してくると、どうしても速さを求める気持ちが生じてしまう。自分を追い抜いていくランナーに追いすがりたいと思う。もっとスピードを上げられるという自信も少しはある。ふくらはぎが爆発しないよう細心の注意を払いながら、僕は少しペースを上げてみる。視界を通り過ぎていく風景のスピードがわずかに速まった気がする。

 

「速さ」とか「スピード」について思いを巡らせていると、やはり尾崎豊のことを考えてしまう。

 

尾崎豊ほど、その人生において速さを強く意識した人もなかなかいないだろう。彼はライブのエンディングでFreeze moonを歌い切った後、「もっと速く、もっともっと輝くまで、俺たちは走り続けていかなければ」と客席に向かって叫ぶ。僕はその映像を見るたびに思ったものだ。「なんでそんなに速く走りたかったのだろう、別にそんなに急がなくてもよかったじゃないか」と。でも、全速力で人生を駆け抜け終わらせたことが、尾崎豊の魅力の一つであるように感じてしまう自分もいる。

 

尾崎豊が夭折したこと自体は、本当に残念で嘆かわしいことだが、彼が老いて50代を迎えている姿などは全く想像がつかないのもまた事実だ。「もしこうだったら」という可能世界の存在を許さない、それ自体で完全かつ完璧に完結した生涯。その輝きのなんと眩しいことか。

 

(3)まとめ的な

 

「もっと速く走りたい」と思う。できることなら誰も追いつけないぐらいのスピードで。まあ、これはもちろん生き急ぎたいといった類の話ではない。日々のランニングにおいての話だ。冴えない毎日を送っているけれど、生き急ぐほど人生は悪いものではない。

 

いつの間にか、尾崎豊が亡くなったときの年齢を超えていた。ロックスターの中には、彼と同じくらいの年齢でこの世を去った者が他にも数人いると聞く。ロックスターじゃない僕は明日も明後日も生き続けなければならない。もっと輝くまで。

 

立川断酒

ここのところ、アルコールを摂取する機会を減らしている。「酒なんかいつでもやめられる」と息巻いている自分が、実際にアルコールを抜いたときにどうなるのか知りたかったからだ。あと、世論が高まってきたというのもある。

 

久方ぶりにいつものセブンで酒を買わなかった夜、俺はコンビニの冷蔵庫の前でしばし立ち尽くしていた。いつも買う星マークのデザインのビール。世界一スタイリッシュで優れた意匠。◯番搾りとは大違いだ。その缶の裏側には「◯番搾り麦汁だけで作ったから◯番搾り。おいしいに決まってます」などと御託が並べてある。マジでうるせえ。まあうまいからいいか。

 

酒を買わないと決めているその日の俺の心には、複雑な思いが去来する。いや、複雑ではない。シンプルに「飲みてえ」という思い。別に三井寿が「安西先生、バスケがしたいです…」と泣き崩れたときほど切実ではない。ただ、空っぽなはずの自分の内側から、じんわりとその思いは湧き上がってくる。重症だろうか。俺は鯖の塩焼きと野菜スティックとレジ袋だけを買ってコンビニを出た。

 

これまでほとんど毎日酒を飲んできたのには、もちろん理由がある。酒は飯とよく合うからだ。唐揚げにしろ、焼肉にしろ、寿司にしろ、おいしいものには糖質が含まれている。つまり甘い。だから苦味を含んだビールや日本酒がよく合うのだ。まあ、要するに、甘いスイーツとブラックコーヒーがよく合うのと理屈は同じだ。ちなみに、余談だけど、俺は飯のときはテレビを消す。見るとしても野球中継ぐらいだ。テレビは往々にして飯が不味くなる情報や映像を垂れ流す。俺はなんというか、そういうところに案外敏感なのだ。飯を食っているときに野生動物の映像など見たくないし、塩辛いものを食っているときにケーキが目に入るのもできることなら避けたいのだ。本当に余談だな。

 

家で酒を飲むうえで、自分なりに決めているルールがある。酒を備蓄しないことだ。要するに、スーパーでビールの6本セットを買わないということだ。なぜか。

 

俺の中で、悪事に手を染めたくないという強い思いと、自分がいつかまかり間違って悪事に手を染めてしまうのではないかという恐怖が、同居している。スーパーに手ぶらで買い物に行くのもそのことが関係していると思う。エコバックを持たないのは、面倒だからというのももちろんあるけれど、自分がうっかりとち狂って万引きをしてしまう可能性を限りなくゼロに近づけたいからだ。酒をその日に飲む分しか買わないのも、朝起きて冷蔵庫にビールが冷えていたら、出勤前に飲んでしまう可能性が生じるからだ。別に会社まで車で行くわけじゃないし、ビールを一本飲んだところで、仕事に支障は出ないと思うが、一般社会のルールに照らし合わせると、始業前に酒を飲むのがあまり良いことではないことぐらい、俺にだってわかる。

 

1日酒を断ってみると、その次の日も酒を断ちたくなる。これは、酒を飲まない方が体の調子がいいからなどといった健全な理由のためではない。俺には何でも連続しているものに価値を置く傾向があるのだ。イチローメジャーリーグ で10年連続で200本安打を達成し、新記録を打ち立てたときは歓喜したし、記録が途切れたときは落胆した。天皇家が2000年以上にわたって血統を継承してしているという嘘か本当かわからない話を聞かされると、天皇家が今後も存続してほしいという気持ちがいくばくか湧いた。それと同じことだ。だから、逆にいうと、酒を飲み始めると、知らぬ間に連続飲酒の記録を作ろうとしてしまうのかもしれない。義務感に駆られた飲酒。なんとも愚かしい話だ。

 

ただ、俺には自分が人生を破滅させるまで酒を飲むことはないという確信がある。理由は単純で、そんな度胸がないからだ。坂上忍メッセンジャー黒田と対談したときに、「どれだけ酒を飲んでも、死んだ親父みたいにクズになりきれない。その意味で自分は親父を超えられない」みたいなことを言っていたように、クズになるのもたやすいことではないのだ。クズになりきることと、チキンレースでアクセルを全開にすることはよく似ている。俺たちはたいてい、チキンレースになると、先にブレーキを踏む。そうすることで命拾いする。でも、ごく稀にブレーキをかけず、アクセルを踏み切ることが奏功する場合がある。闇に降り立った天才アカギが、ブレーキをかけなかったことで逆に助かり、キューバ危機のときのケネディ大統領がソ連とのチキンレースで日和らなかったことで、世界が核戦争に突入するのを防いだように。

 

歴史に名を残している文豪の中には、酒で身を滅ぼした人もそこそこいると思う。リミッターを外して自分にブレーキをかけず酒を飲みまくることが、歴史に名を残す文豪になることの必要条件なのか十分条件なのかはわからないし、酒が彼らの創造性の源になっていたのかも不明だ。でも、これだけは言える。彼らと違って才能がない者には、自ら破滅への道を選択する資格などないと。優れた創造性を発揮もせず、人様に迷惑だけかける権利など誰にもないのだ。

 

だから何の才能もない俺には破滅への道を選択する資格はない、みたいな自虐をするのは、もう飽きた。ブログの中まで予防線を張り巡らせる必要はないだろう。これはもちろん、酒で人生を破滅させます宣言では決してない。ただ、俺のことを1番知っている俺が、俺のことを、もしあるとするならば俺の才能を、他の誰よりも信じて応援しなければならないのだ。俺は俺に何度でも言う。頑張れ俺、加油俺と。