玉稿激論集

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死んだ人々の話ー笠岡編ー

村上春樹の『ノルウェイの森』の最初の方で、主人公「僕」の親友が死んだとき、「僕」はこんなことを思う。

 

死は生の対極にあるものではなく、その延長線上にあるのだ。

 

俺はそんな風には考えない。

 

やっぱり死んだら何もかも終わってしまうんよ。

 

死後にも残る魂なんてないよ。

 

前に婆さんと会ったときに、婆さんは「魂はあるんよ」と言って、譲らなかったけど、まあそれは別のお話。

 

でも婆さんを見てると、信心深い人っていうのは、それはそれで幸せかもしれんなと思ったりもするよ。

 

墓参り行って、般若心経を唱えた後、墓石に向かって「お父さん」と語りかけている姿とかを見ると特にね。

 

今回は死んだ爺さんの話をしようと思う。

 

やっぱりさあ、ミスチルのTommorow never knowsじゃないけどさ、人間って忘れてしまう生き物じゃけ、生前どれだけ好きだった人のことの記憶も、時を経るにつれて薄れていってしまうんよね。

 

だったら、色々覚えとるうちに、書き残しておくしかないよな。

 

いつものように、エッセイチックに。

 

ちなみに、この話に出てくる爺さんは、父方の祖父ね。

 

んじゃ、レッツらゴー。

 

祖父が死んだときのことはよく覚えている。

 

それは僕が人生において、初めて体験した、人の死だった。

 

当時僕は11歳で、人が死ぬなんてことが現実に起こるということが、うまく飲み込めていなかった。

 

だから、最初、皆が祖父の手をとって泣いている理由がわからなかった。

 

でも、確かに何かただならぬものは感じた。

 

祖父の顔は寝顔とは全く違っていた。それはまさに抜け殻のように見えた。生命がどっこいしょとそこから抜け出てしまったかのように、祖父は口をあんぐりと開けたまま、事切れていた。

 

僕は泣くことしかできなかった。

 

「びっくりしたよな」

 

目を真っ赤にした父が慰めてくれたのを、覚えている。父は祖父がもう先は長くないことを予期していたはずだが、僕や兄にはそのことを伝えていなかった。父なりの心づかいだろう。

 

僕らが病院に着いたとき、祖父はもう亡くなっていた。親の死に目に会えなかった父の胸中はいかほどのものだったのだろう。

 

やけに湿っぽい話になってしまった。

 

僕はこんなことがしたかったわけじゃない。

 

さあさあ、祖父との楽しかった思い出を振り返っていこうではないか。

 

父や叔父には厳しいところもあったという祖父だが、孫である僕や兄を怒ったことは、一度もなかったと記憶している。

 

ただ、祖父は本当に負けず嫌いだった。

 

孫とオセロや将棋をするときも、いつも本気だった。オセロの盤面はほぼ一色になり、僕の陣地の王将は常に窮地に立たされていた。ファミコンマリオゴルフでも、いつも負けていた。

 

「あの人は手加減できん人だったんよ」

 

父は苦笑する。僕の記憶の中の祖父同様、父の髪の毛は真っ白だ。血は争えないのだとしたら、いずれ僕もそうなるのだろうか。スターウォーズで、クワイ=ガン・ジンが幼きアナキン・スカイウォーカーに、暗黒面に堕ちたダース・ベーダーの影を見たように、父も僕のなかに白髪の中年男の影を見ているのかもしれない。

 

死の数ヶ月前、僕らは祖父を見舞うために病院に赴いた。

 

今思えば、そのときの祖父はだいぶ弱っていたのだが、僕はそんなこと思いもしなかったから、いつもと変わらない感じで祖父と接していた。でも、しきりと祖父が「声が出んのんじゃ」と絞り出すように言っていたことは、よく覚えている。

 

看護師が祖父のために昼食を持ってきた。多分そうめんだったと思う。

 

「じいちゃんも早く元気にならんといけんのんじゃけ、ちゃんと全部食べんと」

 

僕は何気なくそう言った。祖父はしゃがれた声で笑いながら、出されたそうめんを完食した。

 

祖父に別れを告げて、病院を出た後、両親が口を揃えて言った。

 

「じいちゃんがご飯全部食べるなんて、いつぶりかねえ。最近はめっきり食欲もなくなってたのにね」

 

「やっぱり孫の力ってのは、すごいな」

 

「今度から毎日、お前がお見舞いに行ってやってくれよな。そしたら、毎日じいちゃんも出されたもん全部食べるんじゃないかな」

 

でも、その願いは叶わなかった。僕の記憶が正しければ、それが祖父に会った最後だったと思う。

 

やっぱり湿っぽい話になってしまった。

 

死んだ人の話をすると、どうしてもこうなってしまう。

 

こうなったら、とことん湿っぽくするのもありかもしれない。

 

僕たちは、自分が死んだ後どうなるかを知ることができない。知る主体そのものが消滅することこそが、死であるからだ。

 

でも、と僕は思う。

 

親しい人や、お世話になった人が亡くなってしまったとき、僕は自分の心にぽっかりと穴が開いてしまったような感じがする。そしてこの空白はもはや、どうやっても埋め合わせることができない。つまり、親しい人の死は自分の一部の死と言うこともできるのではないだろうか。

 

残された者は、死者の不在をどうにか自分の中に落とし込んで、生きていくほかない。

 

今回、こうやって祖父のことを書いてみたのだけど、一つ大きなことに気がついた。

 

それは僕の中の祖父の記憶が、どんどん薄れていっているということだ。

 

色々と記憶を探ったのだが、あまり多くのことを思い出すことができなかった。祖父との思い出はたくさんあるはずなのに。記憶というのは、なんとも残酷なものだ。

 

最後に、今思い出した祖父とのエピソードを一つ。

 

今も僕は身長が低い方だけど、子供の頃の僕はもちろん今よりもずっと小さかった。兄や周りの親戚がどんどん背を高くしていくなかで、ずっと小さいままでいる僕がかわいかったのだろう、祖父は僕によく、目を細めながら、

 

「大きくなるなよ」

 

と言っていた。

 

祖父の言に逆らうように、それから僕も成長期を迎え、普通に大きくなってしまった。

 

成長した僕を、祖父もどこかから見守ってくれているだろうか。

 

そんなことはない。

 

だって、不滅の魂なんてどこにもないんだから。

 

無宗教者でいるのもなかなかしんどい。