玉稿激論集

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死んだ人々の話ー高知編ー

俺は独創性に乏しいから、こんな風に親族の話をするっていうのも、勿論誰かのニ番煎じなわけよ。

 

誰の二番煎じかっていうのは、あんまり面白い話になりそうにないけ、やめとくわ。 

 

やっぱり、俺のなかで、面白いっていうのは、めっちゃ大事なことなんよ。

 

どうせ何かを書くなら、面白いものを書きたいよね。

 

読んでいて思わず、声を出して笑ってしまうような面白いものをさ。

 

疾走感に溢れる文体でね笑。

 

俺のじいちゃんはもう二人とも亡くなったんだけどさ、母方のじいちゃんってのが、これまた面白い人だったわけよ。

 

自分でハードルを上げといて、上げたハードルの下をくぐるスタイルね。

 

そんなじいちゃんの子供の頃のエピソードを一つ。

 

僕の祖父は高知の山奥のど田舎、もとい山紫水明の地で生まれ育った。

 

テレビなんかもちろんない時代だったし、ラジオの電波もそんな山奥までは届かなかったのだろう、終戦したということは、人づてに知ったそうだ。

 

ただ、そこで、ちょっとした事件が起きた。

 

祖父は、祖父の父が知人から、日本が無条件降伏したとの知らせを受けている場面に立ち会ったのだが、当時小学生だった祖父は「無条件降伏」という言葉の意味がまるっきりわからなかった。

 

そこで、祖父は何を思ったのか、

 

「むじょーけんこーふく!!」「むじょーけんこーふく!!」

 

と叫んで、踊りまわったらしい。

 

祖父の父から大目玉を喰らったことは、言うまでもない。

 

こんな感じで、幼い頃から、大物ぶり(?)を発揮していた祖父は、後に高知の造船業界のドンとなる。

 

なんか、中学ぐらいのときにさあ、作文の課題で、身近な人から戦争のときの話を聞いて、書けみたいなやつがあってさあ、俺は今の話を書いて提出したわけよ。

 

先生のコメントには、「そりゃ怒られるわ、大物だね、祖父」的なことが書いてあったと思う。

 

んで、まあせっかくだし、この作文を、じいちゃんとばあちゃんに見せたんよ。

 

そしたら、二人とも思いのほか喜んでくれてさ、別に俺としてはそんなに思い入れのある作文でもなかったから、二人にその作文をあげたんよ。

 

部屋のよく見えるところに、飾ってくれとったわ。ほんまにいい人たちだよな。  

 

で、話はめっちゃ飛んで、そのじいちゃんが亡くなってしまうんよね。

 

マジで悲しかったよな。

 

でもこれはガチで聞いてほしいんじゃけど、じいちゃんが眠ってる棺桶の中に、お供え物の花とかと並んで、あの例の作文が入っとったんだって。

 

俺は思ったよ。

 

「いやいや、焼けてまうやないかいっ」

 

てね。

 

もちろんそんなことは口には出さんけどね。

 

俺もその程度の教育は受けとるよ。

 

そんなわけで、今回は母方のじいちゃんの話をしてみようと思う。

 

人の死について、俺がどう考えているかとかは、前回の記事で書いたから、あんまり同じような話はせんように気をつける。まあ、でも、どうなることやら。

 

ぼくのなつやすみ」というゲームをプレイしたことはないのだけど、おそらくあのゲームの中で繰り広げられるような夏休みを過ごした経験なら、僕にもある。

 

朝、蝉の声で目を覚まし、仕事に行く前の祖父と虫捕りに出かける。

 

近所の山には、蝉やトンボが飛び回っており、脇を流れる小川には、サワガニがたくさん。

 

虫捕りもサワガニを捕まえるのも、僕や兄より祖父が断然うまい。僕が虫捕り網を振り回しても、何も捕まらないのに、祖父がひょいと虫捕り網を振ると、そこにはけたたましく鳴く蝉がいる。

 

朝っぱらから遊び回った僕らは、家に戻って、朝食をとり、会社に行く祖父を見送る。

 

遊び疲れた僕と兄は、ベランダに吊るされた風鈴の音色を聞きながら、床に寝そべり、一寝入りしたら、また外に遊びに行く。今度は母も一緒だ。

 

日が暮れると、祖父が仕事から帰ってくる。仕事で疲れていることなどお構いなしに、僕らは祖父に飛びつく。祖父は嫌な顔一つせず、にこにこしながら、僕らの話を聞いてくれる。

 

今回はそんな祖父の話だ。

 

ここに一枚の写真がある(実際は手元にはないけど。これやってみたかったんよね)。

 

写真の中には、筋骨隆々の若者が写っている。若い頃の祖父だ。なかなかの男前である。

 

高知の山奥で生まれ育った祖父は、自然を相手に遊び回っていた。特にトレーニングなんかをしなくても、勝手に筋肉が付いたと生前言っていた。

 

腕っぷしも強かったが、勉強の方でもなかなか優秀だったらしく、高校を卒業するときには、大阪の大企業に推薦状を書かれるほどだった。

 

「そのときはまだ、親のそばにいたかったんだろうなあ」

 

祖父は薦めを断った。先生はひどく残念がっていたらしい。

 

卒業後は地元の造船会社に入った。その後、会社が倒産してしまい、祖父が中心となって、新しい造船会社を作り上げるのだが、そのあたりの話は僕も全然詳しくないから、また色々調べたうえで、改めて書いてみたいと思う。おそらく、様々なドラマがあるはずだ。

 

立ち上げた会社は、造船業界のバブルと相まって、急成長を遂げる。

 

「当時、給料は手渡しだったからねえ。ボーナスが出たら、お父さんがこんなぶ厚い封筒を持って帰ってきて、机の上にドンと置くのよ。私とお母さんは『ありがとうございます』って言ったものよね」

 

母は述懐する。祖母が母に対して、ときには厳しい一面があった一方で、祖父は本当に優しかった。そんな祖父が母は大好きだった。

 

「高校の頃にスクーターが欲しくなってねえ、でも部活ばっかりでバイトなんかもちろんしとらんかったけぇ、買えんわけよ」

 

母の学校帰りに、祖父は現れた。母の欲しかったスクーターに乗って。そういうことをするのが似合う、粋な人だった。

 

「青が欲しかったんだけど、お父さんは緑のスクーターに乗っててね。正直『え、これ?』って思ったけど、気持ちが嬉しかったよ。お父さんにとって青は緑だったみたい」

 

母は苦笑する。

 

また、祖父は家庭に仕事を持ち込むことなどもなかったという。でも、と母は続ける。

 

「朝、起きたらお父さんが枕元でタバコを吸っててね、そのときの表情が忘れられないのよ。子供心に『ああ、お父さんも仕事で色々あるんだなあ』って分かったよね」

 

僕は祖父のそんな表情を見たことがない。

 

冗談を言うのが、好きな人だった。

 

幼い頃の僕は、長嶋茂雄に野球を教えたのも、タイガーウッズにゴルフを教えたのも、祖父だと信じていた。

 

そんな祖父に一度ふざけて聞いてみた事がある。造船業界に身を置いていたときに、談合をしたことはなかったのかと。

 

祖父はニヤリと笑って、

 

「談合?してた、してた。談合っていう言い方はあかんよ。共同作業よ、共同作業」

 

と言っていた。

 

あれが冗談なのかどうか、今となってはわからない。

 

ずいぶんと長い話になってしまった。

 

終わらせるために、湿っぽい話でもしてみようか。

 

生前祖父は、母や祖母から、

 

「お父さんは百まで生きるでしょう」

 

と言われていた。なんの根拠もなかったと思うけど。

 

でも、実際は百歳よりもだいぶ手前で亡くなってしまった。

 

死の数ヶ月前に、僕らの家族と祖父母で、高知の家で焼肉を食べたときの祖父は、元気だったときと比べて、だいぶ小さくなっていた。

 

僕は悲しかった。

 

また世界から、僕の大切な人がいなくなってしまう。食卓を見回すと、祖父のほかに、祖母と両親と兄がいる。皆僕より年上だ。

 

皆僕より先に死んでしまうのだろうか。兄はどうかわからないけど、それ以外の人たちはおそらくそうだろう。

 

彼らがいなくなったら、どうなるのだろうか。僕はその不在に耐えて、生きていくことができるのだろうか。

 

まあ、どうにかはなるし、どうにかしかならない話だ。

 

祖父の骨は、高知の母の実家にほど近い寺に納められている。

 

僕ら家族は高知を訪れるたびに、そこに赴く。

 

両親は骨壺をなでながら、「お父さん」と声をかける。

 

彼らはそこに祖父の何かを感じているのだろうか。わからない。

 

僕は何を感じることもできない。何も言わずに突っ立っている。

 

祖父はもうどこにもいない。

 

最後に一つだけ。

 

今回書いていて、また一つ大きな発見があった。

 

それは、僕が知らず知らずのうちに、話を脚色しているということだ。

 

人の記憶というのは、曖昧だし、頻繁に書き換えられる。

 

さらに言うと、僕は自分にとって都合の悪いことや、苦い記憶は意識的に書いていない。

 

書きながら、「ああ、こうやって歴史は、改竄されるのだなあ」ということが分かったのは、新鮮な経験だった。大げさな言い方かもしれないけど。

 

僕みたいに歴史を語ろうとする者は脚色欲と戦わなければならない。

 

司馬遷の気持ちが少しわかった気がする。

 

うん、あんまり面白くないな。