玉稿激論集

玉稿をやっています。

中国の人、韓国の人

仕事の関係で、中韓の人と接する機会が多い時期があって(なんか世界を股にかけているビジネスマンっぽいな)、色々面白いなと思うことがあったので、そのことについて書いてみる。

 

まず断っておくけれど、ここでは中国人とか韓国人という書き方はしないようにする。なぜか。「中国人」「韓国人」と書いた方が、「中国の人」「韓国の人」と書くより断然収まりがいいのに。そもそも僕は漢字と仮名が混ざった単語を好まない。例えば、「信ぴょう性」とか「払しょく」とか書かれているのを見ると、変な気持ち悪さを感じる(やっぱり気持ち悪いな。信憑性。払拭。これですっきり)。それでも「〇〇人」なる書き方を採用しないのは、それが異質なものを受け入れ理解しようとする態度とは、どこか非常に微妙かつ決定的な点で相容れないと思われるからだ。「〇〇人は〜」という文脈において語られる言葉が、ポジティブな響きをもつことは滅多にないように。だから、僕は漢字と仮名が混ざった語を使うことに若干の引っかかりを感じながらも、「中国の人」「韓国の人」と書く。「日本人」はそのままでいいかな。自分らのことだし。まあ、つらつら書いてきたけど、基準は曖昧だ。

 

異国の人の話をするときには、本題に入る前に様々なエクスキューズをしておかないといけないイメージがある。例えば、「私の書くことで差別が助長されるとしたら、それは全く私の本意ではない」のように。でも、やめておく。どんなことをどんな意図で書いても、そこから差別的なニュアンスを感じとられる可能性をゼロにすることはほぼ不可能であるからだ。ヌルいことを書くぐらいなら、思っているありのままを書いて批判される方がましだ(息巻き)。まあ、そもそもの思っていることがヌルい可能性があるんですけど。

 

前置きが長くなってしまった。おそらく本題より長いだろう。

 

日本人と似ているところがあると感じるのは、圧倒的に韓国の人だ。良くも悪くもコードを共有しており、だからこそ我々と同じようなことで、喜んだりイライラしたりするイメージがある。ただ、日本人よりもさらにせっかち(関西弁で言うところの「イラチ」)な人が多い印象だ。対応に手間取っていたら、指で机をトントンするし(もちろん、しない人の方が多いよ)。まあ、僕の仕事が遅かっただけのことかもしれないけど。

 

僕は中国語も韓国語もほとんど話せないけど、中国語に比べると、韓国語が通じた経験の方がはるかに多い。中国語は発音が難しく、簡単な言葉さえほとんど通じないのに対して、韓国語は簡単な言葉だったら、案外通じるのだ。簡単なコミュニケーションがとれることで、他者がもつ「異質さ」はいくぶんか目減りするだろう。そんなわけで、韓国の人は自分たちと似ているように感じるのかもしれない。

 

対して、中国の人は、日本人とは全然違う。あまりにも違う。中国からの観光客のマナーの悪さを批判する言説が散見される現代だが、マナーが「悪い」というよりもむしろ、マナーが「違う」という方が正確だと思う。「郷に入れば郷に従え」というのはわかるけれど、3、4日だけ観光することが、「郷に入る」ことになるのかは、疑問だ。

 

先日昼休みにファストフード店で順番待ちをしながら、スマホで情報収集をしていたら、後ろから肩をトントンと叩かれた。振り返ると、中国の人が僕に注文する順番が回ってきたことを身振り手振りで伝えてくれていた。異国の地においてさえ、こういう行動がとれるざっくばらんさが僕は嫌いではない。それがときには「無神経」とか「デリカシーがない」と批判される行動であったとしても。

 

こんなこともよくある。中国のお客さんに聞きたいことがあるときは、中国語の通訳さんを呼ぶ。途端に、通訳さんもお客さんもヒートアップして、激しい口論が始まる。でも、両者が伝えたいことを伝え終わると、あっという間に仲直りし、お互いに笑顔で「謝謝」と言い合っている。おそらく、僕から見たら喧嘩のように写ることも、彼らからすれば何でもないことなのだろう。こういう他者との衝突を厭わない態度には、ある種の清々しささえ感じてしまう。何せこっちは、他者とぶつかることをどうにかして避けたいと思っているのだから。

 

中国語のコミュニケーションを手伝ってくれるのは、通訳さんだけではない。僕が中国のお客さんとの意思疎通に難儀していると、横から日本語も中国語も話せる中国の人が入ってくることがままある。「あなたはこの方とどういう関係なんですか」と尋ねると、「何の関係もないですけど、私中国語話せるので」と言い、通訳を買って出てくれるわけだ。こういうことを彼らは特にいいことをやっているとも思わず、当たり前のこととしてやっているように見受けられる。いい奴だなあと思う。

 

ここまで、二つの国の人たちの印象をつらつらと書いてきた。ここからは、もう少し踏み込んで、僕の中にある異国の人に対する差別感情と向き合ってみたい。決して楽しくない、むしろ苦しい作業だけれど、いい機会だから。

 

SNSなどで、人種差別的な主張を目にすると、自分はこんなことを口にしないし、そもそも思いもしない人間だと思う。ただ、ふとした瞬間に、自分が本当にそう思っているのか、それとも無理矢理そう思おうとしているのかわからなくなることがある。そういうとき、ひどく困惑してしまう。もちろん、思いを心に留めておくことと、それを口に出したり、文字にしたりすることの間には、千里の隔たりがあるだろう。でも、自分の中に邪悪な根があるという事実が、僕を大きく揺さぶるのだ。

 

例えば、好きな有名人の話をしているとき、居合わせた人に「その人って在日の韓国人だよね」と言われたことがある。そのとき感じた「知りたくなかった」という気持ち。その後「〇〇 国籍」で検索したこと。別に懺悔するつもりはないが、Wikipediaの生い立ちの欄をスクロールしながら、ふと自問する。一体俺はこの人に日本国籍であってほしいのだろうかと。この問いに「ノー」と答えたいところなのだが、おそらく僕は深いところでこの問いに対して「イエス」と答えてしまうような人間なのだ。

 

一方で、差別をする人間にはなりたくないという思いは、平均以上に強いという自覚もある。それは別に「差別はよくないことだ」というコンセンサスが成立した社会の方が生きやすいからなどといった、大それた理由からではない。単純に、差別は愚かしいことだと思うからだ。

 

でも、その愚かしい一面がときに影を覗かせる。外国のお客さんと喧嘩をして腹を立てたときや、片言の日本語しか話せない店員さんを微笑ましいと思うと同時に、一抹の憐みを覚えるときに。

 

こういうものとどう折り合いをつけていけばよいのだろうか。答えは簡単に出ないし、これからも考えていかねばならない。