玉稿激論集

玉稿をやっています。

ぐちゃぐちゃな思い

アンナ・カレーニナ』の冒頭には、「幸せな家庭というのはワンパターンだけど、不幸な家庭は多種多様だ」みたいなことが書いている。確か。

 

以下フィクション。フィクション大魔王。

 

会社の同期やら後輩と話していると、自分がワンパターンな幸せな家庭に育ったことが、僥倖(©️藤井聡太)に思えることがある。

 

彼らとパーソナルなこと話しているときに、「僕の家親父(おふくろ)がいないんすよ」と言われると、「やっぱりそうだよな」と思うことがしばしばある。片親の人というのは、独特の雰囲気をまとっている。平々凡々な家庭で育った僕よりしっかりしているし、僕にはない影がある。そして僕はなぜかその影を見抜くのが得意なのだ。まあ、後付けじゃんと言われたら、それまでだけど。

 

そんな話を聞いたとき、なるべく「なんでご両親は離婚したん?」と尋ねるようにしている。だって気になるじゃん。ほとんどの人が嫌な顔をせず、事情を教えてくれる。「結構聞くねー」と苦笑する人もいるけど。「親父がおかんに暴力してたんすよ」「暴力ってグー?パー?」「両方す」「じゃあなんでお父さんについていったん?」「おかんは大学卒業させたるって言ってくれてて」「じゃあなおさらやん」「でもおかん過労死するなって思ったんで」「ええ奴やな」「そうなんすよね」「おとんはおかんに慰謝料を数百万払ったんすよ」「へえ」「でも、おかんは新しくできた彼氏にそれを全部騙し取られたんすよ」「あれまあ笑」

 

そういう複雑な家庭環境で育った人というのは、たいてい高卒か専門卒だ、どういうわけか。同期であっても後輩であっても、彼らは僕よりずっとしっかりしているし、僕より全然仕事ができる。「〇〇(僕)は記憶力だけはいいよなあ」と同期は笑う。僕は彼より脱出ゲームアプリで早く脱出できたことがない。「え、まだそこなん?笑」と煽ってくる。「うるせえ、専門卒笑」「は、なんやって笑」「ごめん、間違えた。〇命館卒だったけ?〇志社卒だっけ?」「立〇舎や笑」ちなみに、僕の名誉のために言うと、僕は彼らに「みんはや」では一度も負けたことがない。まあ、あれは知識ゲーだからね。。

 

彼らといると、平々凡々な幸せな家庭で育ったことにある種のコンプレックスを感じる。幸せな日常というのは、凪みたいなもので、荒波が立つ海と比べてどうにも刺激が少ない。もちろん荒波にもまれた連中は「凪の方がいいに決まっている」と思うだろう。でも、ビニールハウスで育った僕には、彼らのもつ何かが欠落している。この「何か」を一言で言い表すことはできない。買いたいものがあるわけでもないのに、僕はせこせこ貯金をしているが、同期は貯金なんかほとんどせずシャコタンレクサスを買っている。僕が二の足を踏むことを、多くの場合、彼らは躊躇わずにする。そう、僕は本当に二の足しか踏んでいない。この前も夜走っていて、ふくらはぎがつるのが怖いから、走るのをやめて歩いた。歩いていてもふくらはぎがつるのが怖くなって、しまいには次の一歩が踏み出せなくなり、束の間歩道に立ち尽くしていた。何の話をしているんだか。いや、でも彼らは、今でも何も恐れず全力疾走ができるのだ。多分。あらゆる意味で。

 

彼らは往々にしていい奴で、ときに少しだけ凶暴だ。「お前学生のころ、いじめる側だっただろ」と僕は言う。「俺は違うけど、あいつはどうかな」なんて、YAZAWAのような返しをされる。彼らはヤンキーとはまた違う。マイルドヤンキーなんてダサい言葉で呼ぶのは失礼だし、もってのほかだ。一つ確かなのは、僕とは育ってきた世界が大きく異なるということだ。その違いが心地良くもあり、ときに寂しくもある。

 

僕はもちろん自分のことをヤンキーだなんて思ったことなどない。じゃあ何なのか。エリートだとも全く思わない。まあ、ヤンキーの対義語がエリートというわけではないと思うけど。

 

今の仕事を辞めたくて仕方ないなんてことはないけど、ふと「なんで俺はこんなところに来たのだろう」と不思議に思うことがある。「俺はここでくすぶっていていいのか」と。高台の上にある実家から遠い空を見て、早くここを抜け出してやると思っていた学生時代。頭が悪いなりに頑張って、名門といわれる大学に入ることもできた。そして、確かに今、遠いところには来た。でも、ここがあの頃思い描いていた場所とはどうしても思えないのだ。そもそも僕は何を思い描いていたのだろうか。明確なビジョンがなかったことは確かだ。僕はエリートになりたかったのだろうか。わからない。でも、エリートと呼ばれる人を見て、劣等感を覚えるのは事実だ。

 

この前、会社(地方局)に本部の社員が視察にやってきた。「事務室に入ってきたら、仕事を中断して立ってお迎えしましょう」もちろん言われた通りにする。わざとだるそうにするみたいなことをする年齢もとうに過ぎた。視察に来た偉い人の後ろには、見たところ僕と同年代の男がパリッとしたスーツを着て控えている。埃っぽい制服に身を包んだ僕は、えもいわれぬ感情を抱く。違う。「えもいわれぬ」なんて嘘だ。これは敗北感というのだ。自分が敗れた、もしくは放棄した戦いに勝った男の姿をそこに見る。おそらく、スーツの男は僕に対して何らの優越感も抱いていないだろう。大抵の場合、勝者は自分の勝利に無自覚だからだ。

 

でも、ブルーカラーからホワイトカラーになったとして、それで幸せになれるのだろうか。まあ、幸せというのも曖昧な概念だ。仏教には、「悟りを迷うのが凡夫で、迷いを悟るのが仏」という教えがあるらしい。同様に考えると、幸せが何かを迷っているうちはまだまだなのだ。もし、迷うことの中にさえ幸せを感じることができたら、少しは生きやすくなるのかもしれない。

 

バガボンド の好きなシーンで、武蔵が「俺はもう殺し合いの螺旋からは降りた」みたいなことを言う。かっこいいと思った。僕も降りたいと思ったし、もう降りているとも思った。でも、僕と武蔵はまるで違う。武蔵が強さを極めている一方で、僕は何も極めていない。何も極めていない奴の「降り」なんて、ただの敗走だ。

 

一方でこうも思う。本当に自分は螺旋から「降りた」のかと。敗北感を覚えるということは、どこかでまだ執着を捨て切れていないことの表れではないのか。それがいいことかどうかはわからないけど。

 

わからない。本当に何もわからない。