玉稿激論集

玉稿をやっています。

シャングリラ2(fiction)

(1)

子どもの頃から勉強が大嫌いだった。特に算数。どこでつまずいたかははっきりしている。分数の足し算だ。わたしはいまだに1/2+2/3とかの計算ができない。どうやっても3/5以外の答えが思い浮かばないのだが、おそらく間違っているのだろう。分数の計算みたいな誰もがたやすくできることでつまずいてしまうと、そこから先の勉強にまるっきりついて行けなくなった。皆ができることができないことに劣等感も多少はあったけど、小学校ぐらいの頃は勉強をしないというのがある種のステータスにもなっていたから、授業中もある種の優越感を味わいながら寝ていた。

 

今思うと家庭環境にも問題はあった。お父さんには生まれてから一度も会ったことはないし、お母さんもわたしと同じで勉強が大の苦手だったから、わたしに勉強を教えることができなかった。そもそもお母さんは仕事や男遊びで家にいないことが多く、わたしはいつも狭い部屋で放課後の長い時間を一人で過ごしていた。幸せでありふれた一般の家庭と比べると、確かに不幸な家庭だったと思う。

 

義務教育とかいうので中学校は卒業できた。でも、わたしの学力で入れる高校というのはなく、周りの同級生が高校に行くなか、わたしと仲の良い友人の何人かは宙ぶらりんな生活を始めた。友人の中には援助交際をしたり、風俗で働いたりして荒稼ぎする子もいたけど、わたしにはそんな仕事で大金を得てまで買いたいものもなく、相変わらず家でダラダラ漫画を読んだりゲームをする日々を過ごしていた。お母さんが交通事故で死ぬまでは。

 

バイト先で出会った先輩と同棲するようになって、妊娠した。17歳のときだった。彼は「結婚はできない。堕してくれ」と頼んできたけど、どうしても生みたかった。自分の中に新しい命があるのにどうしてそれを殺すことができる。どんなに小さくてもそれは「ラン」とか「イデンシ」とかいう味気ないものではなく、わたしの子どもなのだ。生まれてくる前からわたしは名前を決めていた。大好きな漫画の主人公と同じ名前。彼のように頭のいい子になって、わたしみたいに勉強で苦労してほしくない。

ライトは祝福されて生まれてきた。

 

(2)

結局ライトの父親とはうまくいかなくなり、別れた。最後まで籍は入れていなかったから正しい呼び方ではないと思うけど、周りが「モトダン」って言うのを、いちいち否定することなく流していたら、いつの間にかわたしもそう呼ぶようになっていた。

 

「実はモトダンとの間に子どもがいて…」

と言ったとき、トモヤくんは少しもいやな顔をしなかった。

トモヤくんとは友達の紹介で知り合った。彼女を欲しがっているということだったし、わたしもライトと2人きりの生活に心細さを感じ始めていた頃だったから、会って話してみることにした。口数は少ないが優しそうな人だった。

「今度ライトくんにも会わせてくださいよ」

そう言う彼とまた会いたかった。

4回目のデートのとき、トモヤくんから交際を申し込まれ、自然な流れでわたしたちは付き合うことになった。その後はライトも交えて何回も3人でデートした。ライトはトモヤくんによく懐くし、トモヤくんもライトのことを可愛がってくれる。トモヤくんとなら幸せになれる。そう思った。

 

就職を機にトモヤくんは会社の近くに引っ越し、3人で暮らせる部屋を借りてくれた。トモヤくんの会社の給料はお世辞にも高いとはいえず、生活は決して楽ではなかったけど、毎日3人で夜ご飯を食べられるのが幸せだった。トモヤくんは毎日ビールを1本だけ飲む。普通のときは発泡酒。少しいいことがあったらスーパードライ。わたしが昼から煮込んだおでんの大根を頬張るライトとトモヤくん。わたしたちは紛れもなく家族だった。

 

ただ、自分から結婚してほしいとは言い出せなかった。女から結婚を迫るみたいな話はあまり聞いたことがないし、トモヤくんに変なプレッシャーをかけたくなかったからだ。でもやっぱり結婚したかった。彼のことが好きだったいうのももちろんあるけど、もう一つ理由があった。ライトのことだ。

ライトはもうじき5歳になる。普通なら保育園に行く年齢だ。でもわたしが収入の安定しないシングルマザーのせいで、これまでずっと保育園に行かせてやれなかった。もしトモヤくんと結婚したら、ライトに外の世界を見せてあげることができる。そんなことを考えていた。

トモヤくんが結婚を考えるようになってくれた直接のきっかけは、わたしの妊娠というありふれたものだった。わたしとトモヤくん、そしてライトは抱き合って喜んだ。幸せな未来しか見えていなかった。

 

(3)

身体の調子が優れないから、産婦人科で診察してもらった。診断結果を伝えに来た女医さんが神妙な面持ちをしていたことまでは覚えているのだけど、そこから先の記憶は曖昧だ。あまりに辛いことが起きると、記憶の断片が失われるというのは本当だった。どうしてよりによってわたしが。ちゃんと健康にも気を使って生活していたし、食事も身体にいいものを毎日食べていた。無数の「どうして」が頭の中で渦巻く。

なんで妊娠するのは女なんだろうとふと思った。妊娠するのが女である以上、死産するのももちろん女だ。男は妊娠もしないし、死産もしない。ただ種をばら撒くだけ。そんな当たり前のことがどうしようもなく不公平に思えた。トモヤくんは中絶のための手術代を出してくれたし、一緒に悲しんでもくれた。でもそれだけだ。わたしが感じている「ほんとうの」悲しみや喪失感や罪悪感は、男のトモヤくんには絶対にわかりっこない。わかってもらいたくもない。

子どもができたとき、「これでトモヤくんはわたしから逃げられない」という気持ちが心に浮かんできたから、なんとなく後ろ暗くなってすぐかき消した。でも、今になってみると、それぐらいのこと思ってもよかったじゃんって思う。そんな思いをかき消していい人間であろうとしても、こうやって死産するんだったら、かき消すだけ無駄だ。

もう何もかもどうでもよくなっている。トモヤくんとのことや、ライトのこれからのこと。考えなきゃいけないことはたくさんあるけれど、今は何も考えたくない。

 

別れを切り出してきたのはトモヤくんからだった。わたしからしたら些細なことでいつものように喧嘩になって、「もう我慢できへん。出て行ってくれ」と言われた。800円の買い物をお釣りのでない千円分の商品券でしただけだ。まあ、うまくいっているときからわたしはこういうミスが多くて、そのたびにトモヤくんを苛立たせていた。それが一線を超えてもう耐えられないと本気で思ったのか、単に別れるきっかけを探していたのかはわからない。算数ができない人間には本当に苦労が多い。

出て行けと言われたんだからもう出て行くしかない。ここはトモヤくんの家だし。でも、一体これからどこに行けばいいんだろう。わたし一人だったらなんとでもなるけど、ライトがいる。わたしの宝物。わたしに出て行けということは、ライトも出て行けということだ。トモヤくんはひどい。ライトが君に何をした。この言い分がわがままで身勝手で独りよがりなことは、わたしが一番わかっている。トモヤくんとはいい思い出もたくさんあるし、感謝していることももちろんある。でも、彼がライトを路頭に迷わせたというただ一つのことだけで、彼を一生恨める気がした。

部屋を出るとき、トモヤくんはわたしには何も言わず、ライトにだけ「またな」と声をかけた。ライトは黙ってただうなずいていた。

マンションを出たわたしはライトの手をしっかりと握る。何があってもこの手を離さない。そう誓った。