玉稿激論集

玉稿をやっています。

シャングリラ3(fiction )

(1)

風呂に入らずに寝ると、翌朝絶対に後悔する。昨晩洗い流されるはずだった汚れが身体にまとわりついている感じとともに目覚める。ただ、すぐ風呂に入るというのも億劫なので、眠くもないのに俺は目を閉じた。こうしていれば睡魔は再び寄ってくる。

ようやく風呂に入る気になったときには、すでに10時を回っていた。シャワーで済まそうとの考えも一瞬脳裏をよぎったが、身体が芯まで冷え切っている感じがしたので、湯船に湯を張ることにした。水が出る蛇口と湯が出る蛇口の両方を目一杯開く。体感で2分半数えた後、水が出る蛇口だけを閉じ、俺は脱衣所のない独房のような部屋で服を脱いで風呂場に向かった。開きっぱなしの蛇口は依然として熱湯を放出し続けている。俺は片足を湯船に突っ込み、ちょうどいい塩梅になっているのを確認して、蛇口を閉めた。湯は、寝そべったらどうにか肩まで浸かれるぐらいには溜まっていた。

冷えた身体に開いた毛穴という毛穴から温かい湯が浸透してくるのを味わい、束の間俺は多幸感に包まれる。囚人は3日に1回しか風呂に入れないというのを聞いたことがあるが、確かに現世で罪を犯した者が毎日この多幸感を味わっていいはずもなく、3日に1回ぐらいがちょうどいいなどとぼんやり考えているうち、早くものぼせ気味になってきたので、俺は肩まで浸かるのをやめ、半身浴に切り替えた。

寒い部屋で一晩寝た身体はなかなか温まらない。いや、正確に言うと、どれぐらいの間湯船に身を浸せば身体が温まったことになるのかがわからなかった。すでにぽかぽかしてはいるのだが、溝落ちの深くには決して消えない「冷え」の源があって、それは湯が伝える熱気に包まれるのを頑なに拒んでいるようだった。

便所と風呂の間にカーテンをかけ、風呂の栓を抜くと同時にシャワーで髪やら身体やらを洗い始める。まとわりついているのは汚れだけではない。暗い過去や先日の不快極まりない出来事。自分の不甲斐なさ。将来への不安。それらもまとめて洗い落とす。昔バラエティ番組で、好きな芸人が「自分は風呂に入る度に一回芸人を辞めている」と言っていた。その意味がわかった気がした。

 

(2)

後輩が今晩部屋を訪れることになり、鍋をすることで我々は一致を見たが、考えてみると、いや、みなくとも俺は鍋などもっていなかった。鍋のための食材ももちろんない。冷蔵庫に入っているのは水と米と数種の調味料だけ。それなのになぜ俺は自ら鍋をすることを提案したのだろう。久しぶりの知人の来訪に浮き足立っているのだろうか。鍋を買ったら後輩が喜ぶから?わからない。

 

振り返ると、昔から他人が喜ぶことをしたいという欲求は強かったように思う。それ自体はもちろん悪いことではない。ただ俺の場合ー他の人々もそうなのかもしれないがーその行為の目的は徹頭徹尾、自分が満足することだった。自分のしたことで他人が喜ぶーあるいは喜んでいるふりをするーのを見ると、自分を満たしている空白の一部が埋まる気がした。透明人間になる薬の効果が切れ、自分が世界に徐々に現れていく感じ。その体感は自分に何を与えても決して味わうことはできない。というのも、そもそも俺には欲しいものなどなかったからだ。

子供の頃から「何か欲しいものある?」と聞かれても、うまく答えることができなかった。一瞬いいなと思うものがあっても、心の奥底を覗くと、空洞が広がっており、思いは気づかぬうちに霧消していた。自分の欲するものがわからない俺は、必然的に欲しいものを手に入れられなかった。

以前知人がとある映画の主人公を「容れ物のようだ」と評して批判したことがある。確かに、「自分」をもっておらず、状況次第では慈悲にあふれ、雨が降り出すと泣き叫び、子どもと一緒に原っぱに遊びに行くと、笑顔を振りまく彼女の姿は、俺からしても違和感があった。ただ、俺はその様を表する言葉を持ち合わせていなかった。まさに「容れ物」という表現がぴったりだった。

その言葉は空っぽになったペットボトルを思わせた。床に投げるとカランコロンと転がる、可塑性をもった物体。水を入れると「水の入ったペットボトル」になるし、コーラを入れると「コーラの入ったペットボトル」になる。何者でもない故に何者にでもなることができる。無限の可能性をもつなどといえば聞こえはいいが、それ自体では無個性な存在。それを知人は「容れ物」と評したのだろう。仮に最初から砂糖や塩が入っていれば、何を加えようとも砂糖味や塩味になる。ここで砂糖や塩で例えられるものは、人間でいうと個性であり、我々の個性を形成するのは、各人の思いだったり、欲望だ。そうすると、それらを持たない俺もまた「容れ物」なのではないだろうか。ふとそんな不安に駆られることがあった。

 

部屋の掃除を終えた後、服を着替え、ランニングをすることにした。これは唐突な思いつきだった。先ほど風呂に入ったとき、鏡を見ると薄汚い肥満男が写っていた。瞬間これが俺であるはずがないと思う。しかし、俺が右手を上げると同時に、鏡の中のデブは左手を上げ、左目を閉じると、右目を閉じたため、おそらく俺自身が薄汚い肥満男なのだろうと結論づけた次第だ。

別に1日走っただけで痩せることはないし、痩せたところで何かいいことが起きるわけでもないが、薄汚い肥満男であるよりは、健康的に痩せた男である方が、未来が明るくなるように思われた。俺は重たい身体を揺らしながら走る。久しぶりの運動の割には、存外速く走れるのが嬉しかった。

道路は珍しく渋滞しており、歩道からは車内の様子が見渡せた。気難しい顔でハンドルを握っているサラリーマンや後部座席の子どもをあやす母親。泣き叫びながら運転手の男を叩き続けている女もいる。交差しない無数の人生と無数の宇宙がそこにあるなどと偉そうなことを考えていた罰は、すぐに当たった。

国道沿いにある繊維工場を右に曲がった瞬間、右ふくらはぎが自分の意志とは全く無関係な痙攣を起こした。激痛が走り、俺はその場で立ち尽くす。どこかで足を伸ばさねばならない。ふくらはぎの内側にある筋肉を思い切りつねり上げられているような痛み。それは時間の経過とともに薄れていくが、完全に消え去ることはなかった。折り悪く雨が降るなかを、俺は半ば片足を引きずりながら歩いて帰った。

 

足を痛めたことで、鍋を買いに行くというミッションは当初より一気に難易度が上がった。今日1日は、まともに歩くことは叶わないだろう。しかも約束の時間は迫ってきている。人生がうまくいかない。俺はいらいらしながら家具店に向かった。

味気ない一本道を歩く。人が歩いたところが道になるケースもあるが、この街はその逆で、支配者がまず道をつくり、そこを人に歩かせている。人が歩くことによりできた道ではないから、どことなく無機質で、歩きにくかった。道は適度に曲がりくねっている方がいい。そう思った。

20分程歩くと、目的地の家具店に着いた。だだっ広い店内。神に挑むことを途中で諦めたような高い天井。ここから最適な鍋を探し出すのは至難の業ではないかという暗い予感は、まんまと的中した。鍋が売られている一角には、大小様々な土鍋が陳列していたが、俺が求めているのはこういう鍋ではない。こんな鍋でしゃぶしゃぶをするとなると、ミニコンロなどない俺の部屋では、冷める度に台所で加熱し直さなければならない。プラグをコンセントに差し込むことで加熱を継続することができるタイプの鍋が、俺には必要だった。が、なかなか見つけられない。待ち合わせ時間は刻一刻迫ってきている。しかも、食材と酒を買うというタスクがまだ残っている。俺は再びいらいらしてきた。

目当ての鍋を探し当てたのは、店に入って30分ほどたった頃だった。それを持ってレジに向かっていると、パウダービーズが詰まった大きなクッションが目に入る。なんでも「人をダメにする」がコンセプトで、売れ筋の商品らしかった。そこで、後輩が座る椅子が部屋にないことに思い当たる。俺は踵を返し、折り畳み式の座椅子も小脇に抱えた。なんでこんなことまでしているのだろうか。わからなかった。会計は1万円を超えていた。

 

帰り道は苦行だった。重い荷物に、痛む足。冬が迫っているのに、額には汗が滲む。俺はぜいぜい息を吐きながら、往路の約倍の時間をかけて、ようやくマンションにまでたどり着いた。

久しぶりに重たいものを持った腕は、悲鳴を上げていた。腱鞘炎の一歩手前とでもいうべきか。なんでこんな痛みを感じなければならないのかわからず、三度いらいらしてくる。部屋に上がり込むなり、座椅子を床に、鍋をベッドの上に放り出した。鈍い音が鳴り響く。俺は何も持たず、手ぶらで、立ち尽くしている。