玉稿激論集

玉稿をやっています。

生き恥を晒す生き方(あとがき)

ワンピース33巻で「生き恥をさらすくらいなら死ぬ方がいい」「右に同じ」と、ゾロとサンジが息巻くと、ロビンは「男ってこういう生き物よ…」と嘆息する。ジェンダーレス(!?)の現代の価値観には甚だそぐわない会話だ。まあ、僕としては、死ぬくらいなら生き恥をさらす方がいいと思っているから、調子こいた名前のブログで、ふざけた小話を書いた次第だ。命に危険など迫っていないにもかかわらず、積極的に生き恥をさらしてしまった。死んだ方がいいのかもしれない。

小説には大抵の場合、別の作家による解説が加えられているが、著者本人があとがきを付している作品というのは、それほど多くないように思う。そんな中、村上龍はほとんど(全部?)の作品であとがきを残している。

村上龍は好きな作家の一人で、これまでそれなりの数の彼の著作を読んできたのだが、中にはストーリーそのものよりもあとがきの方が印象に残っているものがあるほど、あとがきがいちいちかっこいい。小説家としての矜恃・使命、そしてこの国の社会を思うが故の諦観がそこには表れている。

僕はというと、特に何かの使命感に駆られて書いたわけでもなければ、憂国の気分をそこに込めていたわけでもない。ただ自分のごちゃごちゃした思いを、まず無数の点として散りばめ、その中のいくつかをどうにか線として結びつけたかったのだ。きれいな直線は引けず、不格好なぐにゃぐにゃ線になってしまったけれど、完全に失敗したとまでは言い切れない程度の仕上がりにはなったのではなかろうか。

 

最近折に触れて思い出す言葉がある。M・ウエルベックの『服従』の冒頭でのこんな一節だ。

「ただ文学だけが、他の人間の魂と触れ合えたという感覚を与えてくれるのだ。その魂のすべて、その弱さと栄光、その限界、矮小さ、固定観念や信念。魂が感動し、関心を抱き、興奮しまたは嫌悪を催したすべてのものと共に。文学だけが、死者の魂ともっとも完全な、直接的でかつ深淵なコンタクトを許してくれる。そして、それは友人との会話においてもありえない性質のものだ、友情がどれだけ深く長続きするものであっても、現実の会話の中では、まっさらな紙を前にして見知らぬ差出人に語りかけるように余すところなく自分をさらけ出すことはないのだから」(河出文庫服従』11ページ)

話を聞いてくれる人に対して、息つく間もなく話してしまうことがたまにある。そんなとき、もうすべてのことを話してしまいたい欲求に駆られている自分がいる。でも結局そんなことは不可能だ。自分の中には、その時点ではどう言い繋いでもしっくりこない思いがある。内面を隅々まで覗き込んで、その思いを言語化したくなる。僕が文章を書く理由の一つだ。 

少なくない数の小説が、読者の共感を集めるのは、我々が言語化したくてもできない思いの中には、普遍性を備えているものがあるからだろう。桜井和寿的に言うならば、「誰も皆問題を抱えている」(『HANABI』)のだ。そして、僕はというと、ウィトゲンシュタイン的に「問題はその本質において最終的に解決された」(岩波文庫論理哲学論考』11ページ)という瞬間を求めている。

 

まだまだまだ道半ばだ。

 

ブログでせこせこ書き、それを「生き恥」などと称して予防線を張っているうちは楽なものだ。でも、そこに僕が探し求めている「解決」などないだろう。