玉稿激論集

玉稿をやっています。

理解できぬものを求めて

100年ぐらいかけてやっとのこと、『青色本』(ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン著、大森荘蔵訳、筑摩書房)を読了した。いやー、訳わからんかった。意味のわからない文字列を最初から最後まで目で辿っただけのことを「読了」というのかについては、措いておく。今は、しばしばそうするように、自分で自分を褒めてやりたい。

 

古典とか名作とか呼ばれるものを多少なりとも読むようになったのは、大学に入ってからだ。それまでの僕にはおよそ読書の習慣などなく、もちろん「世界の名著」的なものを読んだ経験も皆無で、日本の近代文学にしても、国語の教科書に載っている『走れメロス』『羅生門』『山月記』ぐらいしか知らなかった。ウイニングイレブンウィトゲンシュタインじゃなくてね)に飽きたら、たまに伊坂幸太郎東野圭吾を読んで、大どんでん返しに心を躍らせる、極めて健全な高校生だったのだ。それが何の因果か文学部に入ると、義務感のようなものに駆られたこともあって、また、文学部生としての謎の矜恃も手伝って、難解な哲学書とか古典作品に手を出したりするようになってしまったのである。これがそもそもの間違いの始まりだったのかもしれない。

 

難解極まりない文章を読むのは苦行だったが、自腹を切って買ったものをそのままおいておくことは生来の貧乏性が許さなかったので、どうにか読破してきた。読み終わってもすっきりせず、頭に霧がかかった。「よくわからんなあ」と思いながら本棚にしまう。それでも何回かに一回はそっち系統の本を買うようになった。なぜ僕は自ら苦行を選択するような愚行を犯してしまったのだろうか。勤勉な学生だったから?違う。

 

本の内容がどれだけ難しいものであっても、ごくたまに腑に落ちる箇所に行き当たることがあった。さらに稀に、その箇所が刺さる。瞬間心臓を掴まれたような気分になる。本を読んでいてそんな風に感じたことがそれまでにあっただろうか。当たり前だと思っていたことがひっくり返り、世界の見え方が一変するほどの驚き。日常生活において後ろ暗いものとして抑え込んでいた感情が肯定されたことによる安堵。理解できぬものの中に潜む幾筋かの光明が、自らの血肉なっていくような実感。それらの積み重ねが今日この日の僕を作り上げたというのは、少し言い過ぎだとしても、逆にいうと少ししか言い過ぎではないだろう。大学に入ってから読んだ本が自分の脳内に多大なる影響を与えたのは、紛れもない事実だ。僕はこんな人間ではなかった。気づけば、伊坂幸太郎東野圭吾を読まなくなっていた。展開が早く、構成がしっかり練られている彼らの小説は確かに面白い。内容が淀みなく頭に入り、すいすいと読み進められる。伏線がきちんと回収されて、物語の幕が閉じる。そこにわかりにくさなどない。ゆえに、どこか物足りない。いつの間にか僕は、わかりにくいもの、理解できぬものを求めるようになっている。でも、これがいい変化なのかと問われると、甚だ疑問だ。

 

さえない日々を送っていると、「一体どこで自分は道を誤ったのだろう」と考えることがある。原因を探り、自分の現状を何かのせいにしたくなる。上で「間違いの始まり」などと書いたのも、そういった気持ちの表れだ。本を読んで身につまされたのか知らないけど、お前の現在地は「ここ」じゃないか。物事が何一つとしていい方向に動いていないのは、むしろお前がそんな本を読んで、小難しいことを考え、頭の中で理屈ばかりこねくり回しているからではないのか。内側からそんな声が響く。反論するのはなかなか骨が折れる。

 

「何が正しくて、何が間違っていたかなんて結局のところわからない」などと言うつもりはない。どんなことにも「正解」はあるはずだし、あってほしいと願うからだ。

 

考え方を変えてみるのもありかもしれない。

 

これからは、自分のこれまで選んできた道、そしてこれから自分が選ぶ道を「正解」と呼ぶようにしよう。「選んだ道を正解にするよう努める」のではない。そんな大変なことはしたくない。むしろ選んだ道がそのまま正解になる、間違えようがない、ぐらいの心持ちで生きていきたい。リャン面待ち、いや国士無双十三面待ちの人生。悪くないだろう。

 

大学に入る前までの僕では、こんな考えに至ることはなかった。それだけは確実だ。