玉稿激論集

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真理、倫理、論理ー我が集大成ー

(1)畳みきれない風呂敷を広げる序文

一見関係のない物事の間につながりを見出せると、それを成し得た自分の視点の独自性を、話すなり書くなりして誰かに伝えたいと思うのは、自然な欲求だろう。例えば、元阪神タイガース金本知憲が連続フルイニング出場(毎日休まず試合に出続けるってことね)の記録が途切れたとき、朝日新聞の『天声人語』では、コロンブスが新大陸を「発見」した1492年と、ギネスにも認定された金本の記録である1492試合を結びつけて、見事なコラムが書かれていた。曰く、両者とも不断の努力によって前人未踏の領域に到達したと。着想を得たとき、執筆者は小躍りしたことだろう。

 

ただ、金本とコロンブスのように全く無関係なものの方が、結びつけて語るのが実は容易なのではあるまいか。読む側は視点の独自性に目を奪われるあまり、多少のこじつけには寛容になるからだ。その最たる例は駄洒落だ。駄洒落は音が類似している語を並べただけのものであるから、「当然、意味上のつながりを欠いている(永井均、『マンガは哲学する』、岩波現代文庫195〜196ページ)」。それでも上手い駄洒落を聞くと、我々は思わずくすっと笑ってしまう。乱暴な言い方をさせてもらうなら、面白ければなんでもいいのである。

一方、何となく関係がありそうなものを結びつけて語るとなると、一気にハードルが上がる。視点の斬新さなどない文章に対しては、読む側も論理が一貫しているかをちゃんと意識するし、論理的に筋の通った文章を書くのは最も骨の折れる仕事の一つだからだ。でも、それこそが今から私がやろうとしていることなのだ。

 

ここ数年来、ぼんやりと考えていることがある。日常生活で感じたことや、本・ネットから得た情報を奇貨として、考えを深め整理しようと試みるも、なかなかうまくまとまらない。まとまらないのは、論を構築する大工(私)の腕が悪いからだけでなく、設計図(まあ、それを描いたのも私なのですが)に欠陥があって、そもそもまとまるはずのない論を無理矢理組み立てようとしているからかもしれない。後者の場合、すなわち設計図が破綻していた場合、何となく関係がありそうなものを結びつけて「論理的に筋の通った文章を書く」などといった私の野望は、脆く崩れ去ることとなる。でも、何事もやってみないとわからない。

以下で私は、自分の思考の断片を余すところなく、できることなら縦横無尽に語っていきたい。そして散りばめられた思考の「瓦」や「石垣」から、城を築きたい。堅固な城でなくていい。砂上の楼閣でいい。いや、もはや建造物でなくてもいい。

訳のわからぬことを言い始めたので、そろそろ本題に入ろう。

 

(2)政教分離の話から

政教分離の原則」とは、読んで字の如く、国家は宗教に関わってはならないという考えであり、日本国憲法第20条第3項においても、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と定められている。では、何が「宗教的活動」に該当するとされてきたのかについては、判例を参照する必要がある。本節では、議論の都合上、津地鎮祭事件の判例を見ていこう。

 

この裁判では、津市が体育館の建設工事を始める際に、市民の税金を支出して地鎮祭(安全祈願の儀式)をとり行ったことが、上述の憲法第20条第3項が禁じている「宗教的活動」にあたるとの主張がなされた。しかし、最高裁は同条同項が規定する「宗教的活動」を次のように規定した。すなわち、

 

憲法20条3項にいう宗教的活動とは、…当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進または圧迫、干渉等になるような行為をいう」(最大判昭52・7・13)。

 

そのうえで、

 

「本件起工式は、工事の無事安全を願うといった、社会の一般的慣習に従った儀礼を行うというもっぱら世俗的なものにすぎないと認められ、…宗教的活動にはあたらない」(同上)

 

と判示して、原告の主張を退けた。

 

この判決が出されるにあたっては、数人の裁判官から反対意見が提示された。中でも藤林益三の反対意見はなかなかに激烈で(津地鎮祭訴訟 上告審←ここから閲覧できます)、法律家が書いた文章とは思えない趣きがある。藤林は地鎮祭を「宗教的」ではなく「世俗的」とした判決に異を唱え、

 

「工事の無事安全に関する配慮が必要なだけならば、現在の進歩した建築技術のもとで、十分な管理がなされる限り、科学的にはこれにつけ加えるべきものはない。しかるに、工事の無事安全等に関し人力以上のものを希求するから、そこに人為以外の何ものかにたよることになるのである。これを宗教的なものといわないで、何を宗教的というべきであろうか」

 

と喝破する。熱量のこもった書きぶりであり、若干自分に酔っている感さえ漂う。嫌いではない。でも、そんなことより、藤林の反対意見を読んで私の目を引いたのは、彼の判断の前提となっている冒頭の次の主張だ。

 

「国家の存立は、真理に基づかねばならず、真理は擁護せられなければならない。しかしながら、何が真理であるかを決定するものは国家ではなく、また国民でもない。いかに民主主義の時代にあつても、国民の投票による多数決をもつて真理が決定せられるとは誰も考えないであろう。真理を決定するものは、真理それ自体であり、それは歴史を通して、すなわち人類の長い経験を通して証明せられる。真理は、自証性をもつ。しかし、自ら真理であると主張するだけでは、その真理性は確立せられない。それは、歴史を通してはじめて人類の確認するところとなるのである」

 

色々と突っ込みどころの多い文章である。藤林は一体何を根拠に、「真理は、自証性をもつ」などといっているのだろう。これほど強い主張をするのであれば、何らかの根拠を提示すべきであるにもかかわらず、彼はそれをしていない。おそらく彼にとっては当たり前のことだからだろう。しかし、彼の主張は本当に「当たり前のこと」なのだろうか。本当に真理は多数決では決せられないのか。

 

(3)1+1=2である理由

前節で長々と裁判の経過を辿ったのは、実は最後の問いを導き出すためだった。遠回りの感は否めないが、必要な道だった。何せ、「縦横無尽に」論じると決めたのだから。

 

本節では、真理がどのように決せられるのかを、ウィトゲンシュタイン野矢茂樹を参照しながら考え、前節の最後に出た問いにアプローチしたい。

 

ウィトゲンシュタインが『哲学探究』において提示したパラドクスで、野矢茂樹により「規則のパラドクス」と呼ばれているものがある。それは次のようなパラドクスだ。

 

「規則は行為の仕方を決定できない。なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させることができるからである」(ウィトゲンシュタイン、『哲学探究』、第201節)

 

哲学探究』でウィトゲンシュタインが挙げている例では、「+2」という規則を教えられた生徒が「2、4、6、8、10…」と続けていく。ところが、何を思ったのか、千を超えたところからこの生徒は「1000、1004、1008…」と続けてしまう。「どうして急にやり方を変えるんだ」と言う教師に対して、彼は「えっ、「+2」というのはこういうことじゃなかったんですか?」と応じるわけだ(野矢茂樹、『心と他者』、中公文庫、249ページ)。

 

私が「+2」という規則を教えられたとすると、私は上述の生徒とは違い、千を超えたところからであっても、「ちゃんと」、「1000、1002、1004…」と続ける。では、私とあの生徒の違いはどこにあるのだろうか。「+2」という規則を教えられたときに、私は「1000の次は1002だな」と考え、件の生徒は「1000の次は1004だな」などと考えたわけではない。私にしても彼にしても、千を超えたときどうするかについては考えることなく「+2」の計算を始め、「…、994、996、998、1000」と順調に歩を進めてきた。そして私は千の次の数を「1002」と書き、彼は「1004」と書いた。私以外のほぼ全ての人も、千の次の数を「1002」と書くだろう。では、「1004」と書いた彼は間違っているのだろうか。これは一言では答えられぬ問いだ。

 

日常生活で、「そういうことなんだったら、そう書いておいてくれたらよかったのに」と思うことが私にはしばしばあるが、「間違い」を指摘された彼も同じようなことを思うのではないだろうか。すなわち、「1000の次が1002になるのなら、最初から『+2(1000以降は1002、1004、1006、…と続けよ)』と書いておいてくれよ」と。でも、仮に彼の言うように規則を書き換えたとしても、問題は解決しない。なぜなら、規則を書き換えたところで、彼が今度は二千を超えた時点(別に二千でなくて、任意の時点でよい)から突如「2000、2004、2008、…」と書き進める可能性を排除できないからだ。我々がそこで再び彼に待ったをかけても、「じゃあ最初から『+2(1000以降は…、2000以降は…と続けよ)』と書いておいてくれよ」と応じられるだろう。以下同じことの繰り返しだ。

 

「+2」という規則は様々な解釈の可能性に開かれており、そこにどんな注釈を加えても、規則から逸脱した(当の本人は「逸脱」しているつもりなど毛頭ないのだが)行動をとる者を想定できる。おそらく、規則「+2」に対する私の行為の仕方は、圧倒的多数の支持を得、例に挙げた生徒の行為の仕方は、皆に非難されるだろう。いや、もしかしたら彼は非難されることを見越して、自らの「本音」を隠して生きていくかもしれない。いつの間にかこの世界において、彼が思い描くのとは違う「規則『+2』に対する行為の仕方」が、成立してしまっている以上、自ら「逸脱」の烙印を求める道理などないからだ。でも、実は、この世界でスタンダードとなっている「規則『+2』に対する行為の仕方」は、無限の解釈の可能性に開かれたこの規則の中で、どういうわけか圧倒的多数の支持を集めているだけのものなのだ。

 

だから、私が少数派になる可能性ももちろんある。「1000、1002、1004、…」と書き進めていると、多くの人から奇異の目で見られたとき、その世界では、規則「+2」は、千を超えたら「1000、1004、1008…」とするのが、そのスタンダードな従い方であるのかもしれない。私は、「誤った者として道を正され、説得ないし再教育を施される。そしてさらに…ことの軽重に応じた処置がとられることになるだろう。軽い場合には無視され、重い場合には、私は異常として隔離ないし排除されるのである(同上262ページ)」。

 

書いていたら、ガリレイのことが頭をもたげたので、少し触れておこう。ガリレイはほとんどの人が天動説を唱えるなか、「それでも地球は回っている」と地動説を唱え、迫害を受けたのだが、結局彼の考えが正しかったのは、歴史が証明している。前節で紹介した藤林の、「多数決をもつて真理が決定せられるとは誰も考えない」、真理は「歴史を通してはじめて人類の確認するところとなるのである」という考えは、このような科学的事実にはある程度当てはまるだろう。だが、我々がどうすべきかを定める規則なり規範なりからすると、彼の主張はやはり的外れなのではないだろうか。

 

1+1のような単純極まりない計算式を前にしてさえ、「えっ、3ですよね」とか、「今日は雪が降っているから4です」などとのたまう輩が存在する可能性はある。しかし、どういうわけか、この世界は1+1=2と考える人が圧倒的多数を占めており、3とか4と答える者を少数の異常者とみなす。そうすると、1+1=2という「真理」は、実は多数決によって決せられたといえるのではなかろうか。そんな直観に反する疑問を抱かざるを得ない。

 

規則や規範について話していると、頭の片隅の記憶が疼きだす。やはり倫理についても触れておかねばなるまい。

 

(4)倫理がなしえぬこと

「どうして倫理学に興味をもってくれたのですか」

研究室を選択する際に行われたオリエンテーションのときにそう問われ、「倫理とかを勉強しておかないと、将来道を踏み外してしまいかねないので」と答えた私に対して、教官は「倫理学を勉強した人間が道徳的になるわけではないという研究結果は出ていますけどね」と応じた。果たして彼の言は正しかった。確かに私は倫理学を学ぶ前より、不道徳な考えを肯定できるようになっている。

 

「よい行為とは何か」を探求するのが倫理学であると、いつぞやの講義で聞いた。私もそう思うし、この見解に真っ向から異を唱える人は少ないだろう。一般的に「よい行為」「悪い行為」とされていることはたくさんあるが、倫理学においてはそこに疑いの目を向けて、深くその行為について考えることが求められるのだ。例えば、「自分がされて嫌なことは他人にすべきでないというのは本当か」であったり、「嘘をつくのは悪いことか」といったことが問われる。

 

中でも根源的な問いだと私が感じるのは、「なぜ悪いことをしてはいけないのか」という問いだ。「なぜ道徳的であるべきか」とも言い換えられるこの問いは、倫理や道徳の由来を明らかにすることを目指す。様々な論者が多様な見解を披露している。曰く、「義務だから」とか、「最大多数の最大幸福の実現のため」とか、「回り回って自分の利益になるから」とか、「そもそも私が道徳的であるべき理由などない」とか、千差万別だ。「皆がそう言っているから」を第一の理由とする論者を私は寡聞にして知らないが、それはとりあえず措いておこう。ここでの私の関心は、「悪いことをしてはいけない」ー例えば「人を殺してはいけない」ーという倫理が成立している場合においてさえ、なお残るそこからの「逸脱」の可能性についてである。

 

「人を殺してはいけない」。これは、我々のほとんどが認めている、この世界のいわば「ルール」である。この世界では、どれだけ嫌いな人や憎い人がいたとしても、その人を殺してはならないことになっており、もし殺してしまったら然るべき罰を受けることになる。それでもいい、死刑になってもいいし、後ろ指をさされてもいいし、良心が痛んでもいい、それでも俺は人を殺すと主張し、殺人を実行しようとする者がいたとしたら、もはや誰も彼を止められないだろう。でも、少なくとも彼は「人を殺してはいけない」というルールを我々と同じように解釈している(その上で人を殺す選択をしている)だけまだましである。ここで、もっと深刻な問題となるのは、「人を殺してはいけない」というルールから、前節で例に挙げられた生徒が規則「+2」に対してそうしたように、我々が思いも寄らぬ結論を導き出す者である。「太陽が眩しかったから人を殺した」と言う者のように。「だったら『人を殺してはいけない(太陽が眩しいときも)』って書いておいてくれよ」と彼は口を尖らせる。彼の言っていることは我々からしたら訳がわからぬが、彼は彼なりの論理に従って行為しただけなのだ。

このような我々とは全く異なる論理に基づいて行為する者を前にしたとき、倫理に一体何ができるだろうか。「よい行為」と「悪い行為」を完璧に峻別した「倫理」なるルールブックがあるとしても、そこから逸脱(これまた当の本人は「逸脱」しているつもりは露ほどもないのだが)した行動をとる者が存在しうる。私は強烈なもどかしさを覚える。彼のような異常者こそ、倫理によって行動を制御すべきなのにそれは叶わない。このとき、倫理はあまりにも無力だ。

 

ここで、今一度規則のパラドクスを振り返っておこう。

 

「規則は行為の仕方を決定できない。なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させることができるからである」

 

倫理もまた、「規則」に含まれるだろう。ここに至るまで何度か「逸脱」という語を使ってきたが、そもそもどのように行為しても規則なり倫理なりに一致するのだから、そこに逸脱の余地などないのだった。かと言って、今更「逸脱」以外の語も思い浮かばないので、もうそのままにしておく。一応鍵括弧をつけているから、ご容赦願いたい。

「いかなる行為の仕方もその規則と一致させることができる」のは、ここまで見てきた通りだが、「行為の仕方」がまるで違う「異端者」に閉ざされているものがある。我々とのコミュニケーションの可能性だ。

 

「話せばわかる」と諭してくる犬養毅を、クーデターを起こした軍人は「問答無用」と撃ち殺した。おそらく、軍人からすると、犬養は話の通じない他者だったのだろう。意思疎通できぬ他者ーそれを極限まで突き詰めると、上で述べた訳のわからぬ論理で人を殺す異常者に行き着く。彼とうまくコミュニケーションをとれる自信が私にはない。私も彼も日本語を使うが、会話は全く噛み合わないだろう。私は彼とのコミュニケーションを諦め、自分と同じような論理に基づいて行為する集団ーこの世界でなぜか圧倒的多数を占めている「我々」と呼ばれる集団ーに立ち帰る。そしていざとなれば彼を社会から隔離・排除することに加担するかもしれない。

 

前節及び本節では、かなり極端な事例を扱ってきた。私はここらで場面を日常に移したくなってきている。

 

(5)誤読しえぬもの

仕事でわからないことを優しい先輩に質問すると、大抵の場合納得のいく答えを得られる。納得がいかない場合、私は「でもそんなことどこに書いてあるんですか」と質問を重ねる。先輩はファイルに綴じた分厚い書類を開きながら、「ここにこうやって書いてあんねん」と仕事のイロハが記されたマニュアルの文言を指し示してくれる。世界は素晴らしい。

しかし、ごくたまにそれでも納得できず、しどろもどろに質問しようとしていると、「で、結局何がわからへんの?」と逆質問される。優しいはずの先輩の眉間に一筋の皺が入るのが見え、私は自分の理解の悪さに辟易する。

「いや、おっしゃることはなんとなくは理解できるんですけど、マニュアルにも…とは書いてないじゃないですか」

「そんなことわざわざ書いてへんよ、だって大前提やん」

「はあ、そうですか」

私は引き下がざるを得ない。これ以上人を煩わせるのは本意ではない。でも、頭はもやもやしたままだ。大前提だとしても、いや、大前提だからこそ、明記しておくべきではないか。

 

先日こんな話を聞いた。

同僚が客から電話で相談を受けてあれこれ説明していると、その様子を見ていたお世辞にも優しいとはいえない先輩から電話が終わった後、「さっき…とお客さんに説明してるのを聞いてましたけど、そんなことどこに書いてあるんですか?何か根拠があるんですか?」と詰められたらしい。意地の悪さが清々しい。そんな風に思っていたのなら、電話の途中に伝えてくれればいいのに。詳しい話を聞くと、確かに同僚の対応にも責められるべき点はあったが、件の先輩が思うような対応がベストなのかも疑問だった。マニュアルには、同僚がやったようにせよとも、先輩が言ったようにせよとも書いていない。というか、そこでは大まかな前提が示され、いくつかの事例が挙げられているだけであり、同僚が体験したのと全く同じシチュエーションは想定されていない。では、起こりうる全ての事象を網羅したマニュアルを作成したら、問題は解決するのだろうか。答えはノーである。再び私の頭の中に規則のパラドクスが顔を覗かせている。「いかなる行為の仕方」も規則と一致させることができる以上、完璧なマニュアルも我々の行為を決定せず、同僚と先輩の対立はいつか再び起こるだろう。2人のうちどちらかが間違っているのではない。そもそもマニュアルは誤読不能であり、いかようにも解釈されるのだ。

 

そうは言っても、私の周りでは、

「この場合はこういう手続きをすべきでしょ」

「いや、でも外を見て下さいよ、きれいな虹がかかっているじゃないですか…」

といったやり取りは、これまでされてこなかったし、これからもされないだろう。対立があった場合に、どうにか妥協点を探れる他者の方がそうでない他者よりも私の周りには圧倒的に多い。マニュアルから導出される我々の行為の仕方も、概ね一致している。

でも、「言葉が通じない」他者は私の前にいつでも現前しうる。このとき、私もその他者にとって「言葉が通じない」他者であろう。我々はどうすべきだろうか。まさか殺し合うわけにもいくまい。ただ互いに沈黙して袂を分かつのみだ。

 

(6)結語

住み慣れた街だと普段通る道は大体決まっているので、散歩すると新鮮な発見がある。「ああ、この道はここに繋がっていたのか」と。頭の中も同様だ。日常でなんとなく感じていた引っかかりを掘り下げると、意外な考えに結びついたり、懐かしい記憶が呼び起こされたりする。ただ、それを誰かに伝えるとなると、常に困難が伴う。道端のガラクタを処分したり、砂利道を舗装してアスファルトを流し込んだりしなければならない。

道を一本開通させるだけでも難しいのだから、城を築くのは至難の業だった。冒頭では砂上の楼閣でもいいと述べたが、工事をしていると欲をかいて、どうしても堅牢な城を志してしまう。おかげで大工たちにはブラック労働を強いることになった。ここに感謝と謝罪の意を表明する。

城の耐震強度は、地震が起こらないとわからない。少々の地震では揺るがなくても、地殻変動が起こるほどの衝撃には流石に耐えきれないかもしれない。いや、もしかしたら風が吹いただけで脆く崩れ去ってしまうかもしれない。それでもいい。むしろ、そういう事態をー自分の考えがまるっきりひっくり返るような事態をー私は密かに待ち望んでいる。焼け野原からでも、大工たちは何度でも立ちあがる。