玉稿激論集

玉稿をやっています。

カズオになくて賢太にあるもの

定期的にブログを更新しようと思っていても、なかなかうまくいかない。記事にできそうなネタが思い浮かぶと、一応下書きをしてみるものの、公開に至るものは一部に過ぎず、ほとんどは塩漬け状態のまま放置されている。週に1回ぐらいは怒りに任せて書き殴りたいのだが、そんなに腹の立つこともないので、難儀している。

 

やはり感情(特に怒り)が乗っているときは、フリック入力する指が滑らかに動く。出来はともかくとして、書いているときは楽しい。

 

読むにしても、書き手なり主人公なりの感情が発露しているものが好みだ。好きな小説を聞かれたとして、思い浮かぶのは一人称の作品ばかりだし、他人におすすめの作品を聞くときも「一人称で」などと注文をつけたりする。まあ、そっちの方が絞られるから、聞かれた相手も答えやすいだろう。

 

疫病の流行を受けて立ち読みが禁じられている近所のブックオフで、ノーベル賞作家カズオ・イシグロの『遠い山なみの光』を購入したのも、パラパラとページをめくって一人称小説であることを確認してからのことだった。存外読みやすかったし、そこそこ感動もしたが、致命的な欠陥があった。

 

控え目に言って、あまり面白くなかったのだ。

 

池澤夏樹による解説を読んで、その原因ー面白くなかった原因というか、僕の好みではなかった原因ーがわかった。以下引用する。

 

「作家には、作中で自分を消すことができる者とそれができない者がある。三島由紀夫は登場人物を人形のように扱う。全員が彼の手中にあることをしつこく強調する。会話の途中にわりこんでコメントを加えたいという欲求を抑えることができない。司馬遼太郎はコメントどころか、登場人物たちの会話を遮って延々と大演説を振るう。長大なエッセーの中で小説はほとんど窒息している。…カズオ・イシグロは見事に自分を消している。映画でいえば、静かなカメラワークを指示する監督の姿勢に近い。この小説を読みながら小津安二郎の映画を想起するのはさほどむずかしいことではない」(『遠い山なみの光』、早川書房、272、273ページ)

 

池澤と違って、「自分を消す」作家は私の好みではない。読んでいて面白くない。歩いた街並みや、山頂から見下ろした景色ばかり丁寧に描写されても困る。そんなに絶景が見たいのなら、わざわざ本など読まずに、旅行に行くなりGoogleで画像検索をする。残念ながら私には読解力が欠如しているから、風景の描写から登場人物の心情を想像することなどできない。悲しいことがあったからといって、作中で雨など降らせないでほしい。いつまでも黙って向かい合ったまま茶をしばいていないで、思うことがあるのなら罵り合いや殴り合いを始めてほしい。私は行間など読めないし、読む気もない。どれだけ目を凝らして行間を見つめてもそこには何も書かれていないからだ。

 

上述のブックオフには、財政が逼迫していることもあり行く機会が増えた。田舎なので蔵書数は少なく、売られている西村賢太作品の約半数(といっても3点)を私が買い占める格好となってしまった。

 

カズオ・イシグロとは対照的に、西村賢太の作品は、私小説ということもあって、彼の考えていること、感じていることがありのままに描かれている印象を受ける。クズさや格好悪さや不様さまでもがさらけ出されている。単純に好みの問題でしかないが、私は西村賢太の方がカズオ・イシグロより面白いと思うし、私の「好みの問題」こそが全てなのではないかという気さえしている。ボクサーで例えるなら、カズオ・イシグロの戦法は相手との距離を保ちながらジャブを細かく当てるアウトボクシングで、西村賢太の戦法はパンチをもらうことを厭わず相手との間合いを詰め、大きく振りかぶったパンチを繰り出すゴリゴリのインファイトだ。その衒いのなさというか、スカしていない感じが読んでいて気持ちがいい。

 

私としても、スカさずに、矢吹丈のように両手をだらんとぶら下げたノーガードのスタイルで間合いを詰めていきたいところだ。でも、それはなかなかに難しい。どこまでいっても文章が上達した実感はほとんど得られない一方で、記事数を重ねていくとどうしても、「うまいこと書きたい」という邪な思いが芽生えてしまい、なんとなればそれは対象から距離をとる態度として結実しがちであるからだ。かと言って、インファイトをすることは、殴られることやパンチを空振りして不様な姿を晒すことを意味するから、どうにも踏ん切りがつかない。

 

ここに来てとんだ袋小路だ。

 

前に行っても崖、後ろに下がっても崖だ。あんじょう、性根入れて歩くしかない。