玉稿激論集

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不謹慎を語るー震災を振り返りつつー

東日本大震災から10年が経った。あの日の僕はまだ高校生で、定期テストの最終日のために自習室で勉強していた。休憩がてら教室に向かうと、「東北ででっかい地震があったらしいで」と級友が教えてくれたので、自習室に戻って、携帯電話のワンセグ(響きすら懐かしいな)のスイッチを入れた。

 

なんかよくわからない光景が目に飛び込んできた。人力ではびくともしない車や船やコンテナが波にのまれ、流されている。海水が流れ込むはずのない市街地に海水が流れ込み、渦を巻いている。大変なことになったなと思いながら僕は、携帯電話をポケットにしまい、テスト勉強を再開した。明日は数学のテストだ。

 

翌日の教室の雰囲気は今でもよく覚えている。誰もが地震について話そうとしなかった。全貌が全く把握できていない事態に対して、僕らはひどく混乱していたからだ。高校生らしい理由もあった。なんというか、大ニュースになっている震災を話題に挙げるのがひどくベタでダサいことー高校生というのはベタでダサい奴に生きる資格を認めないーのように思われたのだ。実際、話が途切れたときに、「いやー、東北やばいね」などと言ったクラスメイトは、僕を含めたその場にいる全員から冷ややかな視線を浴びせられ、押し黙る格好となった。今になるとひどいことをしたものだ。

 

担任のM先生は教員という立場上、震災に触れないわけにはいかなかった。神妙な面持ちで、「とりあえず今できることをやろう。まず今日のテストをしっかりやれ」などと返す返すも訳のわからぬことを言われ、僕は阿呆のように口をぽかんとあけていた。普通に考えてテストどころじゃなくね?まあ、俺が住んどったところは全く揺れんかったけどさ。

 

家庭もなかなかしんどい状況にあった。母方の祖父がその年の1月末に亡くなったばかりだったのだ。母も祖母も失意の底にあった。祖父の容態が悪化し、暗い未来が見えてくるようになると、母の精神は若干の不調をきたし始めた。別に本格的に病んだわけではないし、あれくらい無理からぬことだったと思うが、ニュース番組で当時話題になり始めていた終活が特集されると、神経質そうにチャンネルを回し、祖父が新たな病気を併発したという連絡を受けると父に泣きすがる母の姿は、僕までも暗鬱にさせた。

祖母の落ち込みようも、筆舌にするのが難しい。祖父の通夜や葬儀が終わり、一応の一段落がつき、高知から僕の家を訪れたとき、彼女は、出迎えた父と母、そして僕をみておんおんと泣き崩れた。伴侶を失った悲しみや、数週間ぶりに僕らに会えた安堵が一気に溢れ出たのだろう。

 

そんな最中に起こった大震災だった。

 

当時、僕は定期テストがあったから実家にいたが、父と母は祖父の四十九日の法要のために高知に向かっており、大学生の兄は関西に滞在していた。テレビ画面の右下にはでかでかと日本地図が写っており、津波の危険がある海岸線は赤色で縁取られている。高知もまた赤色の地域だった。

「大丈夫?」

港町に居を構えていた祖母たちが心配になって電話をかけた。

「今のところは大丈夫そう」

そう答える電話越しの声には、確かに不安な色が滲んでいた。僕も父と母が帰ってくるまでの数日間、不安な日々を過ごした。無事帰ってきたとき、母は僕を見るなり、ため息まじりに「日本が大変なことになってしまったねぇ」と言った。それは、人並みにベタを嫌う高校生の僕が、数日間何度も言おうとしては呑み込んできた言葉だった。

 

あれからもう10年が経った。10年の間に僕は高校、大学を卒業し、就職までした。色々と大変なことはあったし、後悔することもある。でもどうにか今日までやってきた。祖父を失った悲しみも、その大部分を時間が癒してくれた感がある。あの頃漠然と抱いていた輝かしい未来には全く辿り着いていないけれど、振り返るとその時々を必死で生きてきたのだから、現状をそこまで否定しなくてもいいじゃないか。最近はそんなふうに考えられるようにもなっている。

 

今回震災について書こうと思い立ったのは、千原ジュニアYouTubeチャンネルを見たことがきっかけだ。彼がドライブをしながらトークをする動画の中で、震災について語る一幕があって、それを見ていると自分の記憶も掘り起こされたのだ。ジュニアは以前NHKの番組に出演した際、東日本大震災のすべらない話的な裏話を被災者から聞く機会があったらしく、そのことについて語っていた。

ジュニアによると、震災の翌日の3月12日や13日の被災地の食卓は、ウニやらイクラやらアワビが並ぶたいそう豪勢なものだったらしい。理由は単純で、電気が切れて冷凍庫が使いものにならなくなったために、かねてより冷凍保存していたそれらの高級食材を食べるほかなかったからだ。ところが、東京から取材に来ているマスコミからすると、被災者が海の幸を堪能している様はどうもしっくりこないものだったらしく、わざわざ被災者にカップラーメンを差し出して、その様子をカメラに収めたりしていた。

別の被災者は「地球が割れた」と思ったという。彼は「今すぐ逃げなきゃ」と思いつつも、もう一つの全く別の感情も抱いていた。「この惨状を見ていたい」。命からがら津波から逃げおおせたとき、踵は海水で濡れていた。本当にあと一歩遅ければ、波に飲み込まれていたのだ。

こういった興味深い話が「人志松本のすべらない話」でMVSにも輝いたことのあるジュニアの口から語られるものだから、僕は惹き込まれる。被災者に憑依したかのようなジュニアの話は続く。

「ジュニアさん、呼んでもないタクシーがね、玄関に入って行くんですよ。そんでね、誰も乗せんとそのまま家から出て行ったんですよ」

これも津波の壮絶さを示す体験談だが、巧みな話術も相俟って、思わず声を出して笑ってしまった。不謹慎だ。津波で流されていたタクシーの車内には誰かが乗っていたかもしれないのだ。でも、面白いと感じてしまったのだから、仕方がない。

 

僕たちが普段するバカ話のなかには、ブラックジョークとも呼べる成分が多分に含まれている。言われている当人が聞いたらひどく落ち込んでしまうような陰口で、僕らは大盛り上がりするし、事件や事故の被害者が聞いたら怒り出す不謹慎な話を持ちネタとして使い回す。そんなことはない、私は人を傷つける話題で笑ったこともなければ、不謹慎なネタを面白おかしく話したこともないなどとのたまう人は、もしいたとしても、極めて少数だろう。もし「僕たち」という代名詞を使われるのがいやなら、喜んで訂正しよう。僕は陰口や不謹慎な話が大好きだ。

 

過日、バイクのタイヤを何者かにパンクさせられた同僚と、冗談めかしてこんな会話をした。

僕「いやー、ちょっと魔がさしてしまってね、申し訳ないっす」

同僚「ほんまですよ、どうしてくれるんですか。弁償してくださいよ」

僕「弁償っていくらぐらいかかりますかね?」

同僚「まあだいたい五万から十万ぐらいですね」

僕「そんな大金ねえっすよ。払えないです」

同僚「でも払ってもらわな困りますよ」

僕「金ないんで、ドングリとかで払っちゃ駄目ですかね?」

同僚「駄目ですよ!支払いはジャパニーズエンでお願いします」

僕「だからそのジャパニーズエンがないんですって」

同僚「それならUSドルでもいいですよ。ウォンでもいいし。なんならカンボジアのルピーでもいい」

僕「ルピー?どんぐりと同じようなもんじゃないですか」

同僚、僕「ハハハ」

これも人によっては不快感を抱く会話だろう。僕自身も差別的な言辞だとわかっているが、どうしても聞き手を笑わせたい思いが勝ってしまう。僕と話している相手が笑うとき、たいてい、僕はそこにいない他人をクサしたり、不謹慎なことだったり差別的なことを口にしている。それ以外で聞き手を笑わせるとなると、自虐ぐらいしか道が残されていない。本当にどうしようもない人間だ。育ちが悪く、里が知れる。

 

もちろん、僕とて年がら年中不謹慎なネタでゲラゲラ笑っているわけではない。世間でそう呼ばれるところの「人の心」だって、ちゃんと持ち合わせている。

 

大学卒業間近に興味本位で履修した科学史の講義の最終日、講師は受講者一人一人に講義全体の感想を求めた。講義では原爆や原子力発電について多くの時間が割かれたこともあり、各々が国のエネルギー政策や核廃絶について思うところを述べていった。

そんな中、順番が回ってきたとある学生は、福島で生まれ育った自身の境遇をぽつりぽつりと話し始めた。彼女は震災後、一時的に避難所生活を余儀なくされたが、その後はもとの生活に戻れたらしい。とは言え、知り合いの中にはいまだに苦しい思いをしている人がたくさんいた。

「私は運がよかったから震災前の生活ができているけど、まだまだそうじゃない人がたくさんいて…」

涙しながら話す姿に思わず感極まってしまった。でも、無関係な僕が嗚咽を上げるわけにもいかず、気を紛らわせるための苦肉の策として、鞄に入れておいた文庫本を講師の目の前の席で読み始めた。講師からすると、人が泣きながら話しているときに文庫本のページを繰る僕の姿は不謹慎極まりなく写ったに違いない。でも真実は違う。僕だって本当は泣きたかったのだ。

 

おそらく誰しもに不謹慎なことでくすりとほくそ笑む一面もあれば、辛い思いをしている人に対して寄り添う一面がある。少々大きな言い方をさせてもらうと、それが人間というものなのだ。

僕はこれからも不謹慎極まりない発言をし続けるだろう。眉をひそめる人もいるかもしれないが、別にいい。今はとりあえず、好きなことを好きなように言える日常の尊さを言祝ぎたい。

 

後記

昔のことをつらつらと思い出しながら、書いていたのだが、酒が入っていたせいもあり、不覚にも何箇所かで泣きそうになってしまった。そもそも僕が泣きそうになること自体が世界にとってはどうでもいいことである以上、どの部分に涙腺を刺激されたのかなど、尚更どうでもいいことだから、これ以上の言及は避ける。年を重ねると涙もろくなるというのは、どうやら本当らしい。いつの間にか10年前が高校生であるような年代になってしまった。僕に「まだまだ若い、先は長い」と言う人は少なからずいるだろうが、僕自身は日々津波のように押し寄せる年波を感じ、高台への避難を続けている(←不謹慎だ)。いかにして避難しているかについてはまた稿を改めて論じよう。