玉稿激論集

玉稿をやっています。

新生活(fiction)

引っ越したばかりだと、街に冷たくされている気がする。当たり前のことだけど、誰もわたしに目もくれない。普段は人とのつながりを煩わしく感じたりしているのに、いざひとりぼっちになると急に寂しさを覚えたりする。

 

就職したばかりで、仕事にも全く慣れていない。今週は失敗だらけだった。良い職場だから叱られるなんてことはないけれど、自分の不甲斐なさはどうやってもぬぐいきれない。せっかくの休日も家でふさぎ込んでしまう。

 

こんなことではだめだ、外に出てリフレッシュしようと思ったときには、もう午後4時を過ぎていた。学生のとき趣味が高じて買った一眼レフのカメラを首から下げて、部屋を出た。

 

薄暮の街を歩くと、色んな発見があって楽しい。でもなぜか写真を撮る気にならない。いつの間に明日からまた始まる仕事のことを考えてしまっている。ああ、行きたくないなあ。

 

そのカフェに入ろうと思ったのに、深い理由はなかった。歩き疲れたから、少し一休みしたかった。

 

扉を開けると、店員さんがにっこりと微笑んで「こんにちは」と言った。いつも流れ作業のような「いらっしゃいませ」を言われ慣れているわたしは、少しびっくりしてしまって、思わず、「あ、こんにちは」とぎこちない返事をしてしまう。

 

「素敵なカメラですね」と店員さん。

 

「あ、ありがとうございます。初めて住む街なので、色々撮ってみたくて」

 

「あら、引越して来たばかりなんですね。どうですか、ここでの暮らしは?」

 

「まだ慣れないことが多いですね…。就職したばかりというのもありますし…」

 

「仕事を始めたばかりだと覚えることがたくさんあって大変ですよね」

 

「本当にそうなんですよ。失敗ばかりしてます…」

 

話しながらはっとしていた。店員さんとこんな風にたわいもない話をしたのは初めてだったから。「いらっしゃいませ」と言われていたら、初対面の人に自分の実情を打ち明けたりしていなかっただろう。こんにちは。魔法の言葉はこんなにも身近にあったのだ。

 

「おすすめのコーヒーはありますか」と尋ねたわたしに、店員さんは色んな国のコーヒーの説明を丁寧にしてくれる。好きなものを語る人の顔はいつだって輝いている。

 

色とりどりのマフィンにも目を奪われる。この店の名物らしい。抹茶のマフィンにしよう。

 

窓際のカウンターに腰掛けてコーヒーとマフィンが運ばれてくるのを待つ。外を眺めると、夕暮れに照らされた道を多くの人が忙しなく通り過ぎてゆく。ガラス一枚隔てただけなのに、ここでは別世界のようにゆっくりと時間が流れている。

 

マフィンはとってもおしゃれなお皿にのせられていた。生クリームが添えられているのもいい。マフィンにカメラを向ける。シャッターを押したら、わたしのうきうきした気持ちごと切り取れた。久しぶりにSNSにアップしようかな。

 

コーヒーも口する前からわたしを楽しませてくれる。こんなにいい香りがするコーヒーは初めてだ。飲むと芳醇な風味が口いっぱいに広がるとともに、じんわりと身体が温かくなった。「ほっと一息」というのは、今この瞬間のためにある言葉だと思った。

 

店を出るとき、「またお待ちしてます」と言われた。根拠はないけれど、きっと社交辞令ではないだろう。「はい、また来ます」と答える。こちらは決して社交辞令ではない。ドアを開けると、夜風が店に吹き込んできた。外はまだ少し肌寒い。

 

振り返って店名を確認した。イタリア語で「光」を意味するその店は、夜の街の中で控えめな灯をともしている。

 

少しだけこの街が好きになった。