玉稿激論集

玉稿をやっています。

人に優しく(fiction)

(1)

「すみません、すみませーん」

 

まさか俺に声をかけているとは思わず、駅への道を急いでいると、今度は少し大きめの声で「あのー、これ落としてますよー」と言われたので、何かと思って振り返る。すると、若い男が手袋を持ってこちらに向かってくるところだった。俺はコートのポケットに手を入れる。右のポケットには右手用の手袋が入っているが、左のポケットは空だ。いつの間に落としていたのだろうか。

 

「あ、ありがとうございます」

 

言い終わる前に男は雑踏の中に消えており、俺は阿呆のように片方だけの手袋を持って立ち尽くしている。買ったばかりの新品の手袋。朝は寒かったから着けて通勤したが、夕暮れどきには気温が上がり、不要になっていた。春はもうそこまで近づいている。

 

もっとちゃんと感謝の意を伝えるべきだったなと思ったところで、目が覚めた。

 

(2)

世界一の安打製造機と呼ばれたあの青年は、「ヒットを打つたびに自分がレベルアップしている気がするんです」と言っていた。俺の頭の中にロールプレイイングゲームで主人公がレベルアップするときに流れる音楽が鳴り響く。チャラララッチャッチャッチャー。彼がプロになってから引退するまでに打ったヒットの本数は4300本を超える。ということはレベル4300以上。どんなモンスターでも一撃で倒せるだろう。対して俺が打ったヒットの本数はゼロ。当たり前だ、野球選手でも何でもないんだから。でも、振り返ってみると、メタファーとしてのヒットさえ一本も打っていない気がする。一度もレベルアップしていない人生。同い年なのにここまで差が開いてしまったのを、才能の多寡のみに帰するのは容易いが、それだけじゃないことはわかっている。努力の量、向上心、環境。何もかもが違う。

 

才能のない人間はどうやったらレベルアップできるのだろうか。残された方途はそう多くない。

 

俺が「一日一善」などという使い古された目標を秘かに心に掲げるようになったのには、そんな思いも関係していた。ヒットを打たないかわりに何かいいことをすることで徳を積んで、レベルアップする。今思えば見上げた志だ。

 

困っている人を見かけると、誰もが助けたくなる。そんな時代だった。なんとなれば、人々は血眼になって困っている人を探しているようにも見えた。行き倒れになっている妊婦を10人以上の老若男女が取り囲んでいるのに出くわしたこともある。そんなにたくさんいたところで人手は余るだけだと流石に俺も思ったが、そんなことはなく、それぞれがそれぞれの役割を果たしていた。男たちは救急隊員の手助けをしていたし、女たちは妊婦に寄り添って優しい励ましの言葉をかけ続け、子どもたちは妊婦が連れていた幼子をあやし、爺さん婆さんは野次馬根性丸出しの見物人をたしなめつつ、事態の成り行きを見守っていた。彼らが「妊婦を助けたい」という思いと、「誰かを助けることでなんらかの充足感を得たい」という思いのどちらにより強く突き動かされていたのかはわからない。しかし、いずれにせよ、苦しんでいる妊婦を誰もが見て見ぬふりをする世界よりも、こういう世界の方が幾分ましだと思っていた俺は、風の噂で彼女が死産したと聞いたとき、人並みに心を痛めた。

 

俺自身も「一日一善」という己に課した課題をなんとかこなしていた。いや、こなすという表現は不適切だ。善い行いをするのを半ば楽しんでいたのだから。ただ、何をやっても自分がレベルアップしているという感覚は得られなかった。

 

(3)

潮流が変わり始めた正確な時期は思い出せないが、皆がマスクをつけるようになって以降のことだと思う。まず人の親切を食い物にする輩が現れた。こういう輩は確かに以前から存在してはいたのだが、その数は少なく、無視できる程度のものだった。しかし、人々の心に余裕がなくなってくると、施しを受けるのを当たり前のことだと考える連中が目に見えて増えた。親切を受けた者は、その親切を他の誰かに返すことでこれまで回ってきたこの社会の歯車が狂い始めた。

さらに始末の悪いことには、新手の当たり屋のような連中まで出てきた。わざとスマホを落としたりして、こちらが必死になって追いかけて届けると、「こんな傷、もともとついていなかった」などとのたまう。「落としたときについた傷ではないか」と反論しても、ヒステリックに騒ぐばかりで、埒があかない。ここにおいて、若い女が中年男に詰め寄っている図が完成している。通行人からすると、そんなときに中年男の味方をする道理などこれっぽっちもないのだから、畢竟、俺たちは弱い立場に押しやられてしまう。そんな面倒に巻き込まれた同僚の話を何度も聞いた。

 

話し終えると、後輩はヘラヘラしながら、

「いやー、色々大変そうですねー、〇〇さんも。自分は一回もそういう経験ないっすね。年取るのもやだなあ」

と言った。

 

世界が変わったなどというのは間違いだった。ただ俺が年老いて気持ちの悪い中年男になっただけだ。

 

(4)

土砂降りの雨の中、自転車に乗った女子高生がこちらに向かってくる。合羽も着ておらず、アイスバケツチャレンジをしたかのようにずぶ濡れになっている。彼女はスピードを緩めることなくペダルを踏み続け、どんどんこちらに近づいてくる。俺に気づいているのだろうか。ふとそんな不安が過ぎるが、立ち止まらず会社へと歩を進める。

 

一瞬目が合った。

 

次の瞬間、ガシャーン!!という盛大な音と共に彼女は転倒していた。雨で滑りやすくなっていた路面でブレーキをかけたことが災いしたのだろう。何やら大声を上げて喚いている。「うわーん、うわーん、痛ーい!」

 

咄嗟に助けなきゃと思った。動けないなら救急車を呼んだ方がいいかもしれない。

 

気がついたら近くに駆け寄り、声をかけていた。「大丈夫ですか?」

 

「痛い、痛いよー、痛いよー!!うわーん!!」

「ひどい、ひどい、ひどい!!」

 

泣き叫ぶ女の目を覗き込むと、完全にイッた目をしている。およそ人間の目ではない。関わり合いたくなかった。正面から来る男を避けるためにブレーキをかけたら転倒したなどと救助隊員に出任せを並べ立て、俺から治療費をせしめる魂胆なのだろうか、たまったものではない。俺の人生はどうなる。年収750万、円満な夫婦関係、育ち盛りの子ども。ありきたりだが、俺にも失いたくない幸せがあるのだ。こいつと関わることでそれら全てを一挙に失うなんてことはおそらくないだろう。でも、一つ確かなことがある。こいつは俺の暮らしのことなどお構いなく、俺から何かを奪いとるつもりだ。じゃないと、衆人環視の中、こんないかれた真似ができるわけがない。あまりにも傲慢で、あまりにも身勝手で、あまりにも恐ろしく、あまりにもおぞましい。一瞬でそんな考えが頭いっぱいに広がる。自ずとやるべきことが決まった。

 

陸に打ち上げられた魚のようにコンクリートの上でのたうち回る女を見下ろしながら、俺は

「ま、気をつけなあかんで」とだけ言って、再び会社に向かって歩き出す。

 

レベルアップの音楽がどこからともなく鳴り響いた気がした。