玉稿激論集

玉稿をやっています。

健康というカルト

あの日確かに鏡の中にデブがいて、それは僕だった。

 

当時は太っていることに気づかず、制服のズボンのチャックが知らぬ間に少し下がっているなんてことがしばしば起こるようになっても、「チャックがアホになっとるから制服を交換してもらわんとな」などと呑気に構えていた。ただ今になると、ズボンの機能性に責を帰していた己の愚かさが身に沁みる。単純にあのときの僕は太っていただけなのだ。

 

体重計のない部屋で暮らしていると、太っていることに気づく機会はほとんどない。だから僕は毎日ご飯をたくさん食べ、お酒を鱈腹飲み、ポテトチップスを一袋たいらげる生活を長らく続けてきたし、これからも続ける気でいた。今までこれで太らなかったのだから、これからも太らないだろうと。ある命題がすべての自然数で成り立つことを示すために、まずn=1で成り立つことを証明して、次にn=kで成り立つならばn=k +1で成り立つことを示す、懐かしの数学的帰納法のようなものだ(←読み手にある程度の教養を要求してしまって申し訳ない。理解できなかったら読み飛ばしてもらって全然構いません。ちなみに僕は自分が何を言っているかよくわかっていません)*1帰納法が破綻した原因は明らかだ。代謝の悪化を勘定に入れていなかったから。Curryじゃなくて鰈じゃなくて華麗じゃなくて加齢とともに徐々に代謝は悪くなっていくのだとしたら、飯の量を変えないままだと体重は微増していくに決まっているではないか。

思い込みとは恐ろしいもので、久方ぶりに行ったスーパー銭湯で何とは無しに体重計に乗ったときも、「まあこれくらいだったっけ」ぐらいの感想しか抱かなかった。当然のことだ。どれだけ食べても太らない自分の体重がいきなり増えるわけがないから。こんな思いもあった。万が一太っていたとして、それがどうしたというのだ、体重のわずかな増減に一喜一憂するなど、大の男がすることではない。

だから、いつも穿いているデニムのベルトを締めたとき、腹に醜い肉塊が鎮座しているのを確認して初めて、「こんなことはこれまで一度もなかった」と事態の深刻さに気づいた次第だ。銭湯では自覚しなかったが、確かに体重は増えていたのだと。いや、正確を期すと、そのときもまだ太ったことを完全には認めておらず、僕は風船みたいに膨らんだ腹に詰まっているのはしみったれた脂肪などではなく、空気なのだと信じ込もうとして、幾度も横隔膜を上下させたが、所定の位置に横隔膜が戻るとともにだらしない贅肉もまるでテトリスのブロックが理想の位置に嵌るようにストンと腹の周りで落ち着く感じを覚えて、己とデブをイコールで結びつけたわけである。惜しむらくは脂肪はどれだけきれいに揃えても、テトリミノとは違い、消滅してくれない。僕は俄かに暗澹たる気持ちになった。身体に予め備えられていた「どれだけ食べても太らない」というオプションがいつの間にか取り外されている。老いを実感した瞬間だった。

「そんなときに出会ったのがこの青汁で…」となるほど僕も落ちぶれてはいない。ただ白状すると、中田敦彦を見てしまったのは事実だ*2。おすすめに流れてきた*3健康本を紹介する動画の中で彼が老いを「病気」と評したり、食事の量と回数を減らし適度な運動をすることで若返るなどと話すのを見て、柄にもなくやる気になってしまった。

食う量を減らして走る。僕がこの半年あまりの間にしたことはそれだけだ。食卓に並ぶのは、カップ麺と冷凍チャーハンと唐揚げとポテチと麦酒から、鯖の塩焼きときんぴらごぼうと納豆と味噌汁と麦酒になった。遁世した僧侶のような食事だが、特に苦ではなく案外これで満足する。加えて走る。今年の4月からは業務量の変化に伴い週末しか走ることができなくなったが、それまでは半年間ほぼ毎日晩飯前に走っていた。距離にして4、5キロ。あんなに走ることが嫌いで、健康のためにジョギングする人々を奇異の目で眺めていた僕が。人間変われるものだ。

当然の結果として僕は痩せた。これまた当初は気付かず、同僚やら上司からの「なんか痩せました?」の問いかけにも首を傾げ、同僚には「そんなことより…」と楽しいカンバセーションをしようと試み、上司には「あ、いや、なんというか、その、まあ、どうなんですかね、すみません…」などと相も変わらず終始要領を得ない対応をするような有様だったから、久しぶりに参加した飲み会の席で撮影されたフォトグラフに写る病人を思わせる己の近影を見るに至って、会社の連中が自分に体型の変化の有無を尋ねたときに若干心配そうな顔つきをしていたことの意味を理解するとともに、数ヶ月にわたる「ダイエット」の成功に小躍りしたのである。ただゴールデンウィークに帰省して久方ぶりに体重計に乗ったときには、流石に仰天した。そこにはいつぞやのスーパー銭湯で記録された我が人生における最高体重から10キロ以上減った数値が表示されていたからだ。

親族の心配に加え、これ以上体重を落とすのは流石に良くないと自分でも思ったので、連休中はほとんど運動もせず3食しっかり食べた。すると当然体重は少し増える。それが何とも嫌だった。やったことが無駄になるのをひどく嫌う自分にとって、リバウンドはたとえそれが僅かなものであっても不快極まりない事象だし、根が貧乏性にできている自分にとって、せっかく落とした体重が少しでも元に戻ることはなんとも「もったいない」気がしてならない。僕は、俺は、私は、半年前のようなデブに戻ることを恐れている。ああなんて恐れていることだろう*4

食べることが好きで、運動が嫌いな自分をして節制せしめているものは、上述の恐怖のみではない。これは走っているときに特に感じることで、形容するのが難しい気分なのだが、なんだか善いことをしている感じがするのだ。そして心中に渦巻くこの不可解なムードはさらに論理的な飛躍を遂げ、習慣的に走る生活を続けていくことで、何かとびきりいいことが起きるとまではいかないまでも、これから待ち受けているであろう災厄のいくつかは避けられるような心持ちになる。常日頃抱いている不安や焦燥や悔恨が氷解していく感じ。カルトじみていると自分でもわかっているが、事実そうなのだ。依然として無宗教者としての自覚はあるが、走ることで人生が好転することを信じながら走ることは、果たして一種の宗教的行為なのだろうか。そしてこれはいい質問なのだろうか*5

 

ふと我に返る瞬間がある。スーパーで手にとった惣菜のパックを裏返して熱量を確認しているとき。ひどく腹が減っているのに朝飯を食わずに空腹に耐えているとき。雨の中ずぶ濡れになりながら走っているとき。俺はどこに向かい、どうなりたいのかと自問する。答えはどこからも聞こえてこない。

 

いつまでこんな日々が続くのだろう。

*1:まあ、数学的帰納法を「ある程度の教養」などと言っている時点で筆者の程度が知れるが、この言辞さえ取りようによってはある種のマウンティングとみなされうるので、この話はこのくらいにしておく。

*2:まあ、青汁のようなものか。ただ、インテリ連中が必要以上に中田敦彦を馬鹿にする態度に僕が心中穏やかならぬものを感じているのもまた事実だ。胡散臭いところはあるけれど、彼は紛れもなく傑物だ。だってあんなに大量の本を読んで、ほぼ毎日狂気じみた動画を上げているのだから。「批判してるけど、お前らできんのかよ」などという理不尽極まりない感情さえ僕の中に巣食っている。

*3:「おすすめに流れてきた」などとスカしていますが、こいつは「中田敦彦YouTube大学」をしっかりチャンネル登録しています。

*4:山月記』の李徴を意識しています。

*5:こっちの方が気になるよね。