玉稿激論集

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死んだ人々の話ー恩師編ー

「死ね」
それが口癖だったおっさんが死んだらしい。

「残念な知らせなんじゃけど」
久しぶりに話す母の声は少し打ち沈んだ様子だった。誰かが死んだことを悟った僕は、心の準備を始める。
「〇〇(高校のときの友人)のお母さんから連絡があってね」
まだ付き合いがあったのか。僕にしてからが10年以上あいつと連絡をとっていないのに。あいつの父さんって結構な歳だった気がするけど、まさかね。
「××先生がね、亡くなったんだって」
「え」
思いもよらぬ人物の訃報に二の句が継げなくなる。平静を装う必要があった。
「まあ、不摂生しとったからなあ」
あんな生活を続けていたら、長生きなど望むべくもないだろう。でも、それにしても、早い。早すぎる。

 鵜川(仮名)はなかなか面白い奴だった。それになかなかいい奴だった。大学に入学して以来10年以上一度も会っていないが、あのおっさんのことは強烈な記憶として残っている。半袖のポロシャツをズボンにインした細身の立ち姿。充血した目。ヤニで黄ばんだ歯。酒焼けした顔。痰の絡んだ声。
 朝のホームルームの時間、前夜の酒が抜け切っていない様子で、「アル中ハイマーじゃ」とこぼしていた鵜川。理解の悪い僕らに対し、「お前ら死ね、ほんまに」と嘆息していた鵜川。ストロングチューハイの缶と山積みにされたLARKを並べた職員室の机で、質問に答えてくれた鵜川。その鵜川が死んだ。

 志望校をどこにするか考えていたとき「センセー、ハンダイってどんな大学なんですか?」と聞いたら、鵜川は充血した目をかっと見開き、ほとんど食い気味に、
「腐った大学や」
次いで真っ赤に酒焼けした己の鼻を指でさして、
「腐った跡」
と言い放った。面白い奴だった。
 頭の悪い僕は、数学教師の鵜川に度々要領を得ない質問をぶつけていた。
積分したらこの斜線部分の面積が求まるなんて、おかしくないですか?だって、面積っていうのは縦×横で求まるものでしょう。これって最もらしい計算をして、面積を求めた気になってるだけじゃないんですか?微分の逆みたいなことをやったら面積が求まるということをどうやって証明するんですか?」
ほとんど捲し立てるような僕の質問を聞いて、鵜川はひとしきりしゃがれた声で笑うと、またもや充血した目を見開き、
ニュートンさんとライプニッツさんってのがおってのう…」
と、思いもよらない角度からの回答を展開してくれた。面白くて、いい奴だった。
 浪人中の僕らに対し、「お前らはうちの駒なんじゃけぇ、頑張れよ」と檄を飛ばしていた鵜川。合格を知らせたとき、電話口で「おお、信じとったで!」と我が事のように喜んでくれた鵜川。
 その鵜川が、あの鵜川が死んだ。
「死ぬ前に一度でいいから会っておきたかったな」と思う人の死を経験したのは初めてな気がする。近しい人の死に対しては悲しさは感じれど、その種の後悔はない。ベストを尽くしたがどうにもならなかったという諦観があるだけだ。
 年に数回は帰省するから、会いに行こうと思えば全然会いに行けた。顔を見せたら「おう、久しぶりじゃのう、元気しとったか」と喜んで出迎えてくれただろう。それでも僕は行かなかった。特に理由はない。単なる怠慢だ。
 此度の訃報に接し、特に悲しさは感じていない。勿論涙など流していないし、これから流すこともないだろう。ただ、日を経る毎に、鵜川との日々を思い出す度に、心に疼痛が生じる。どうしたものか。
 悲しさを感じていないというのは、おそらく不正確な表現で、より正確にいうのなら、僕には鵜川の死を悲しむ権利がないと思ったのだ。機会は山ほどあったのに何年も顔を出さず、訃報に接して思い出したかのように悲しみに浸るなんて、あまりにも都合が良すぎる。
 鵜川の死を教訓にして、これからは悔いの残らないような人付き合いをしようなどととは全く思わない。大体、人の死から何かを学ぶなんて失礼な話だ。誰かの死に接したとき、僕らは往々にして死者からのメッセージを無理矢理読み取ろうとしたり、己に都合の良い安っぽい感動ストーリーを捏造しようとしたり、その死をきっかけに生き方を考え直したりするが、それは死者を消費していることになるのではないか。死者はただ死んだだけなのに、そこに自分なりの解釈を与えるなど、身勝手で傲慢な振る舞いだろう。鵜川は(詳細は知らないがおそらく)身体を壊して死んだ。そこには何らの学びも教訓も意味も救いもないし、なくていいのだ。むしろあってたまるか。

「死ぬ前にもう一度会って挨拶でもしておきたかったな」
これから何度そう思うのだろうか。別れはいつ何時訪れるかわからないのだから、お世話になった人には会いに行けるときに会っておいた方がいいのだろう。でも、今はそんな気になれない。
 鵜川の死を教訓めいたものにしないためにも、僕は変わることなくこれからも此度と同じような後悔を何度でもしていく所存だ。がんじがらめになっている感は否めないが、まあ、仕方ない。