玉稿激論集

玉稿をやっています。

Fuckin’ savages in the fuckin’ box

 締め切りが迫っているのに、何も思い浮かばない。やばい。
 などというと、さも一端の物書きのようであるが、何のことはない、己に課した月3本の記事をアップすることがこのままでは叶わなくなってしまうことに焦燥感を抱いているのだ。自分との約束も守れぬ者が他人との約束を守れる道理などないのだから、このままだと僕はその主要部分が約束からなっているこの社会で生きていくこともままならなくなってしまう。さて、どうしたものか。
 ひとまず、ブログの下書きやらスマホのメモを探る。ウーマンラッシュアワー村本大輔に習って、おもろい出来事に遭遇したり、心に残る一言を聞いたりすればなるべくメモに残すようにしているけれど、改めて見ると面白くも何ともない。こんなもの、もはやただのスクラップだ。
 メモに残した時の温度感を保てていたのなら、あるいは事態は異なっていたのかもしれない。笑いにしろ、感動にしろ、鮮度が何より大事なのだから。でも、もう手遅れだ。ラテン系のガタイのいい外人がコンビニで片言の日本語で「サイフナクシタ、オカネクダサイ」と店員に物乞いをし、断られると店にいた女性客にターゲットを切り替え、最終的に500円を恵んでもらっているのを見て、眉を顰めた話や、ヨーロッパの難民キャンプの窮状を伝えるニュースで、現地のリポーターの声の後ろからJourney のDon’t stop believing が漏れ聞こえていて「いや、気分はジャーニーなんかい!」とテレビに独りごちた話など、今聞いても何も面白くないだろう。いや、そもそもが面白くないか。

 画面をスクロールし続けていると、「この一球は二度とない」とだけ書かれたメモが目に飛び込んできた。
 途端に心臓を掴まれたような気持ちになる。
 世界のホームラン王こと王貞治福岡ソフトバンクホークスの監督だったときに、ミスをした若手選手にかけたとされる一言。その意味するところは二つある。
 「失敗を引きずるな、切り替えていこう」というのが一つだ。プロ野球選手といえど、時としてミスを犯すが、その度に落ち込んでいる暇などない。ゲームは刻一刻とその様相を変化させているのだ。前を向け。
 何気ない一言にさえ、プロの心構えを込めることができるのが、王がトップ・オブ・トップたる由縁の一つだと思う。「この一球は二度とない」とて例外ではない。王はこうも言いたかったのだ。すなわち、お前は取り返しのつかない失敗をしてしまったのだと。プロである以上、「人間誰しも失敗するよね」などという甘っちょろい考えをもっていいはずはなく、完璧を求めなければ、いや、完璧でなければならないのに、お前はミスをしてしまった。
「この一球は二度とない」。それは、激励の一言であると同時に突き放しの一言でもある。
 野球選手でない僕にも日々様々な「ボール」が投げ込まれる。絶好球を見逃すこともあれば、クソボールに手を出すこともしばしばで、お世辞にも冴える日々を送っているとはいえない。空振りをしても、三振に打ち取られても、フライを打ち上げても、切り替えて次の機会に備えるというのも、確かに一つのよい生き方ではあるだろう。でも、もうあの球は二度とこないのだ。ときにはその残酷な現実をしみじみ噛み締めるのもまた肝要であろう。