玉稿激論集

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『李陵』を語り、人生を思う

 当記事では中島敦の『李陵』について縦横無尽に語ることにする。『李陵』は自分が一等好きな小説である。確かに西村賢太の小説は好きで再読もしているが、『どうで死ぬ身の一踊り』も『一夜』も『夢魔去りぬ』も『李陵』には遠く及ばない。格が違うのだ。そう、物事には格というものがある。どれだけ日常的にOfficial髭男dismやらYOASOBIやらTHE YELLOW MONKEY を聴いていたとしても、彼らの楽曲が尾崎豊浜田省吾の作品より好きなのかという問いは愚問ですらなく、そもそも問いとして体を成していないのは、尾崎豊浜田省吾の格の為せる技だろう。
 李陵、司馬遷、蘇武。『李陵』ではこの三人の生き様が描かれているが、今回改めて読み返して、これは李陵の物語なのだとの思いが強まった。中島敦が題名を『司馬遷』でも『蘇武』でもなく、『李陵』にしたことの意味がなんとなくわかった気がする。己の志を貫き通す司馬遷や蘇武の生き様は確かに尊く、自分に憧憬の念を抱かせる。しかし、同時に「そんな奴おれへんやろ」とも思ってしまう。要するに、格好良すぎるのだ。
 司馬遷も蘇武も過酷な生を強いられているものの、彼らの芯には一本の軸が通っている。司馬遷のそれは修史の編纂であり、蘇武のそれは漢への忠誠心である。軸は彼らをして困難に立ち向かわしめる。一方、李陵には二人のような軸がない。だから度重なる苦難に打ち勝つことが叶わず、運命に翻弄されることになる。
 司馬遷や蘇武のように初志貫徹する生を、そして蘇武みたく最終的に報われる生を以前の自分は強く望んでいた。今その思いが消え失せたわけではない。ただ、現実を鑑みるに、やはり自分も李陵のように常に惑い、運命に翻弄されながら、そして情に絆されながら生きていかざるを得ないことを痛感する。されど、かような生にだって価値がないことはないだろう。

 冒頭で『李陵』を縦横無尽に語ると息巻いたはいいものの、どうにも今の自分には荷が重すぎる感がある。余すところなく語り尽くすにはどうしても話の流れを大雑把にでも追わねばならぬ一方で、印象的な箇所を引用しながらせこせこ書き進めていく作業は、根気のない自分にとっては苦行でしかない。フェイバリットな作品の魅力を全く伝えられない己の筆力がただ憎い。

 李陵が捕虜になる前より匈奴に捕らえられていた蘇武は物語の終盤、幸運にも漢に帰れることになる。葛藤しながらも匈奴の慣習に染まり、そこで家族までもった李陵とは異なり、蘇武はあくまでも漢への忠誠を貫き通して降服の勧めにも応じず、十九年の長きにわたって北海(バイカル湖)のほとりの丸木小屋にて想像を絶する困苦・欠乏・酷寒・孤独に耐え抜いてきた。その蘇武が祖国に戻ることが決まり、李陵の心は激しく揺れる。

「ふたたび漢に戻れようと戻れまいと蘇武の偉大さに変わりはなく、したがって陵の心の笞たるに変わりはないに違いないが、しかし、天はやっぱり見ていたのだという考えが李陵をいたく打った。見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。…胸をかきむしられるような女々しい己の気持が羨望ではないかと、李陵は極度に惧れた」*1

 別れに臨んで李陵は蘇武のために宴の席を設ける。彼とて捕虜になった当初は、匈奴の王の首を持って脱出することを目論んでいたが、それを実行する前に漢の一族が処刑され、もはや祖国に帰る理由がなくなってしまった。勿論李陵はかような事情については蘇武に話さない。ただ、一片の詩を読む*2。俺も漢のために匈奴と懸命に戦ったが道半ばで敗れてしまった。恩返しをせねばならぬ母もすでに死んでいる。俺はどこに帰ればいいのだろう。

「歌っているうちに、声が顫え涙が頬を伝わった。女々しいぞと自らを叱りながら、どうしようもなかった」*3

 自分は宗教を信じるものではない。しかし、「見ていないようでいて、やっぱり天は見ている」との一文はいつ読んでも心を掴まれる。背筋を伸ばされると同時に勝手に激励された気になる。

*1:中島敦『李陵・山月記 弟子・名人伝』、角川文庫、56頁

*2:小説では「宴酣にして堪えかねて立ち上がり、舞いかつ歌うた」(同上)と描かれているこの場面は自分の一等好きな箇所の一つであるが、六十近い男が「舞いかつ歌う」姿を改めて想像すると、不謹慎で申し訳ないが、おもろさを感じてしまった。

*3:同上57頁