玉稿激論集

玉稿をやっています。

フェイクでは生きていけない、ジェニュインでは生きていく資格がない

 サッポロ黒ラベルを死ぬまで飲み続けた者にだけ与えられる手帳サイズのノートを勿論僕も持っていたのだが、これまで殆ど使用する機会がなかった。勉強に使うには小さすぎるし(というか、そもそも久しく勉強などしていない)、備忘録はスマホのメモで事足りるからだ。それが引越しに際して、あれこれ煩瑣な手続をする段になると、電子記録だけですべきことを書き留めておくのが何とも心許なくなり、このノートを手に取る次第となったのである。スマホのメモのみでは心許ない。重要なことはペンでガリガリと書いておきたい。この感覚は然程わかりにくいものでもないだろう。引越しの手続は案外に繊細な側面があり、一つボタンを掛け違えると、会社から移転料を貰うのに難儀するハメになってしまう。滞りなく引越しを完了するには、寝る前に三色ペンで彩り豊かに書いたメモに目を通して、「ああ、明日は9時にガスの閉栓だな」とか、「引越しの領収書は必ずもらわないとな」とか、「住民票の『住民となった日』は実際の引越し日じゃなくて、異動発令日にしなきゃな」などと、逐一確認したり、追加で必要事項を記入しないと落ち着かなかった。要するに、手書きのメモは僕にとって精神安定剤的な役割を果たしてくれたのだ。
 異動先に着任する日にすべきことを記したページには、「スーツ、革靴、ネクタイ」だったり、「制服もってく」だったり、「皆さんに挨拶」などとある。どれも当たり前の話で、わざわざ備忘録として残す必要などないのかもしれない。しかし、書かないとどうにも不安になって仕方ないのだ。もし制服を忘れたらどうしよう。いつものパーカーとトレッキングパンツを着たまま家を出てしまったらどうしよう。いや、駅で気づいたらまた家に戻って着替えればいい。だから、明日は6時半には出発しよう。いや、いくら何でもそれは早すぎるか。と、キナキナ悩むくらいなら、ひとまずメモに書いて落ち着きを取り戻した方がよっぽどいい。
 ぎっしり書き込んだメモは完璧で、この通りやれば明日は無難に過ごせるはずだという思いは、殆どの場合幻想でしかない。なぜというに、程度の差こそあれ、想定外の事態が起こってしまうからだ。
 着任日の朝、僕は上述の通り、慣れないスーツに若干サイズが大きめな革靴を履き、鞄には制服を詰めて家を出た。初日だから一応コンタクトレンズも入れている。勿論マスクはしているし、予備のマスクも二枚持っている。始業の八時半の一時間前には職場に到着しておきたいから、七時十分の電車に乗る。存外車内は空いていた。読みかけの文庫本を開き、頁に目を走らせていると、十五分も経たぬうちに最寄駅に着く。ホームから見る職場はのっぺりしていて、一枚の大きな壁のようだった。漫画『ワンピース』でモンブランクリケットが住んでいた家同様、大きな壁の裏には貧相な社屋が隠れているのかもしれない。完全には目覚めていない頭は、そんな呑気な思念を巡らせているものの、改札へつながる階段をカツンカツンと下る度に、職場へ一歩ずつ近づいてゆく度に、かような幻想は脆くも崩れ去っていく。
「着任日はこちらの入口から入って来て下さい」
引き継ぎで初めて異動先を訪れたとき、確かにそう言われた。しかし、いざ会社の目の前に到着すると、営業時間前だからか、当該入口は開いていない。わずかな焦りを生じさせる心を落ち着かせる。サッカー日本代表が先制点を取られたときに、解説の松木安太郎が残り時間に関係なく必ず口にする台詞「まだ時間はたっぷりあるんだから!」を脳内に反芻させる。とりあえず職員専用入口を見つけなければならない。僕より少し遅れて来た職員らしき人物の後に着いて行くと、それは容易に見つかったのだが、ここに来てまた新たな問題が発生した。
 職員らしき人たちは皆、何やら白いプラスチックのカードを首から掛けており、それをエントランス脇にある小さなスクリーンにかざしている。すると、自動ドアが開いて、建物に入ることができるようだ。しかし、僕はそのプラスチックのカードを持っていない。ブルーの紐が付いたその電子媒体を持っていないのである。あるいは伝説のスパイ、ソリッド・スネークのように、何食わぬ顔で職員がカードをかざして開けた自動ドアが閉まる前に、建物内に入り込むことだってできたかもしれないが、発覚のリスクを考えるとあまり下手な真似はしない方と判断した。そこで、エントランスのすぐ横にある喫煙所で一服していた警備員さんにおずおずと声を掛けたのである。
「あの、私、本日からここで勤務することになっております◯◯と申します…。あの、職員専用のIDカードっていうんですかね、あれってどちらでいただけますか…?」
「ああ、〜社の人ね。ちょっと待ってて」
警備員さんは吸いかけのタバコを消して建物内へと案内してくれる。監視カメラのスクリーンが何個も映し出されている受付に入って、「◯◯さん、◯◯さん…」と僕の名前を何度か呟きながらゴソゴソとスーパーの買い物籠を思わせる籠を漁っている。するうち、「あった、あった」と目当てのカードと更衣ロッカーの鍵を渡してくれた。
「入るときはあっちにこのカードをかざして、帰るときはそこにかざして下さいね」
僕は感謝を告げて、廊下を前に進んだ。
 漸く一件落着と思われたのも束の間、今度はそこからどこに行けばよいのかわからない。一般客用の入口から入った前回とは違い、職員専用のルートで事務室へ行くにはどうしたらいいのか。というか、引き継ぎのときに聞いていた話と全然違うじゃないか。メモには「職員専用入口から!」とも、「IDカードもらう!」とも書いていなかった。当たり前だ。そんなのは全く想定外の事態だったのだから*1
 かように想定外の事態は起こってしまうとはいえ、トゥー・ドゥー・リストをメモに残しておくこと自体は、決して悪いことではないだろう。桜井和寿が言うように、「人は悲しいくらい忘れてゆく生き物」*2なわけだし。ただ、何事も過ぎたるは及ばざるが如しである。先日、とある同窓会的な催し*3に参加する段になった際も、件のノートをきっかけに一寸考え込む展開になってしまった。
 引越し直後に開かれる当該催しをすっぽかしたりしたら大変だということで、当たり前のようにノートに開催日時やら場所やら会費やらを書き留めていたのだが、いつもの通りそれだけではやはり心許なくなり、わざわざ書く程でもないことをまたぞろつらつらと書き連ねていた。例えば服装である。会の性質上、これまたいつものパーカーとトレッキングパンツとスニーカーでは非常にまずい。「スーツ、ネクタイ、革靴」。このノートに書くのは多分三回目の文言である。紙とペンも必要だ。さらに、文庫本を忘れたら、行きと帰りの新幹線で退屈してしまう。と、かようにトゥー・ドゥー・リストを作成していたら、今度は全く別種の不安が現前したのである。
 相手が誰であれ、久しぶりの再会というのは、緊張するものだ。何を話せばよいか思い浮かばず、気まずい沈黙が流れるかもしれないし、相手の性格が一変していて失望するかもしれない。同窓会の誘いに対して二つ返事をできないのは、恐らく僕だけではあるまい。皆、多かれ少なかれ、それなりの「覚悟」を心の片隅に秘めて参加するのだろう。してみると、今般僕の参加の申し込みが大幅に遅れてしまったのも、致し方なかったのでないか。いや、そんな言い訳は通じないか。  
 それにしても、あんな人やらこんな人も出席するかもしれない。本当に何年も会っていない。確かあいつには地雷があったはず。うっかりそれを踏むようなことは絶対にあってはならない。何の爪痕も残さないのが肝要なのだ。
 などと思いを巡らせているうちに、自分が当日大変な失言をしてしまうのではないかと不安になってきた。どんな発言が誰の怒りを呼ぶのかについて、具体的なイメージが湧いたわけではない。ただ自分の何気ない発言が誰かの逆鱗に触れてしまい、酒席で叱責されるイメージがありありと浮かんでしまったのである。これには困った。会がはじまる前の段階では自分が一体何に気をつけるべきか皆目わからないからだ。それでもすべきことをノートに書かないことには落ち着かない。とりあえず僕は「不用意な発言厳禁」と大書し、さらにそれを赤と青で囲んだ。僕が己の言動を後から悔いてしまうのは、大抵が大酒を飲んだときであるから、「飲み過ぎ注意!」とも書いた。
 と、ノートにここまで書いてみて、ふと考え込んでしまったのである。ノートは最早トゥー・ドゥー・リストであると同時にノット・トゥー・ドゥー・リストにもなり仰せている。自分はやるべきことのみならず、やってはいけないことまで記録しておかないと、道を踏み外してしまう人間なのかもしれない。そんな事実に直面して、ふと考え込んでしまったのである。
「異動先の皆さんに挨拶」とノートに書いた上でする挨拶と、そんなことはどこにも書かずに自然にする挨拶とでは、後者の方が明らかに尊い。「失言をしない」とノートに書いた上で、いちいち脳内の検閲をパスした発言をして、その場で誰も不快にさせずに過ごすのと、そんなことはどこにも書かなくとも人を不快にするような発言をしないのとでは、後者の方がどんなにか素晴らしいだろう。「大酒を飲まない」とノートに書くことで始めて節度を持ってアルコールを摂取できるのと、そんなことは心に留めなくても適量を守り、楽しく酔えるのとでは、後者の方がどんなにか意味があるだろう*4。いずれの場合も、前者はフェイクであり、後者はジェニュインである。事ここに至って、自分がまともな社会生活を送っていくためには、ジェニュインな面(地金とでも言うべきか)を隠して、フェイクを押し出していかねばならない事実に思い当たってしまったのだ。
 気の置けない知人たちは、聞く人が聞いたら確実に眉を顰めるであろう僕の地金を露わにした発言にも、屢々笑ってくれる。ただ稀に、そんな知人でも怪訝な表情をする発言をしてしまう。「あ、やば」と思っても時すでに遅しだ。気の置けない知人でもそうなのだから、赤の他人が聞いたら白眼視されること請け合いだ。
 かと言って、フェイクを貫くのもなかなかにしんどいだろう。真島昌利だって「仮面をつけて生きるのは息苦しくてしょうがない」と歌っている*5
 フェイクでは生きていけないが、ジェニュインでは生きていく資格がない。
 まあ、嘆いたところで何が変わる訳でもないだろう。ひとまずは昨日の会で大きな失態は演じなかったこと(多分)をここで静かに言祝ぎたい。

*1:書きながら、専用入口から入ることや、職員用のカードを受け取ることを全く想定できていなかったことも問題ではないかと思った。備忘録があまりに細かすぎると、そこに記されていない事態への対応力が著しく削がれてしまうのかもしれない。

*2:mr.childrentomorrow never knows

*3:本来の会の趣旨は同窓会ではなかった。

*4:お気づきの方もいると思いますが、THE BLUE HEARTSの『TRAIN-TRAIN』の二番の冒頭の歌詞に影響されています。

*5:THE BLUE HEARTS『チェインギャング』