玉稿激論集

玉稿をやっています。

俺の価値観を問うな

 職業柄、「そういう決まりになっているので」と応対する場面が屢々ある。だからどうしようもないと思いますと。それで大抵の場合、相手は引き下がってくれる。時には不満気な表情を浮かべもするが。
 だから先日電話をしてきた客ー正確には関係者ーが「どうして許可にならないのですか?」と聞いてきたときも、同様の応対をしたわけであるが、相手は納得しない。
「何ていう法律ですか?正式名称を教えてください」
「少々お待ちください」
嘆息しながら、電話を保留する。オルゴール音で『ラヴァーズ・コンチェルト』が流れ始めたのを確認した後、異動してきて以来一度も開いておらず、最早ブックエンドの役目しか果たしていなかった真っ赤な法令集に手を伸ばす。保留の時間が長引くようなら折り電をするというのが、自他を共に束縛する鉄則であるこの世界にあって、俺はひとまず大きな伸びをした。ああ、めんどくせえ。一本の電話を取ってしまったばかりに、煩わしい仕事が増える。いつもの展開だ。この部署に限らず、社会人というものは、どういうわけか電話が鳴ってもワンコールは「寝かせる」習性を持っている。ワンコールも「寝かせず」、むしろ本格的に鳴り出す前の「カチッ」という音に神経質に反応して受話器を取る俺が貧乏籤を引いてしまうのは、自然な成り行きである*1
 法令集をパラパラと捲り、目当てのページに辿り着くまでにどれくらいの時間を費やしただろう。保留を切って相手に「〇〇法第〇条第〇号第〇項です。もう一度申し上げます、〇〇法第〇条第〇号第〇項です」と言って事態は一件落着の筈だった。しかし、さらに此奴は食い下がる。
「その法律の趣旨は?」
「確認します」
保留。ラヴァーズ・コンチェルト。とりあえずもう一度大きく伸びをした後、今度は腕組みをし、誰にアピールするわけでもないが考えるふりをする。趣旨ねえと。保留、解除。
「趣旨とかは特にわからないですが、まあそう云う決まりなので」
押し切り体制に入る。マウントポジションはとれていないが、これで終わりだ。王手、チェック、リーチ、からの詰み、チェックメイト、ロン。受話器は既に耳からの離陸体制に入っている。安全よし、前方よし、天候よし。フライトレーダーの確認も怠らない。後は電話機に向けてランディングするだけだ。しかし、敵は攻撃の手を緩めない。
「あなたの考えを聞かせてください」
アナタノカンガエヲキカセテ。異星人から発射された音速の新型ミサイルに脇腹を抉られた俺は、思い切り顔を顰める。意識が遠のいてゆく。
 朦朧とした意識の中、俺の頭には一つの映像が浮かんでいた。先日死去した元都知事の記者会見。とある記者に戦没者を祀る神社に参拝するかと問われて、「勿論」と答えた後、彼はこう続けた。「君は俺が参拝するのをどう思う?君の考えが聞きたいな」
 俺は泉下の都知事閣下と話しているのだろうか。いや、そんなわけはない。ということは、俺は都知事でもない奴に価値観を正されているのだろうか。怒りが身を焦がす。ありったけの弾薬を装填し、リロードする。ターゲット・ロックオン。RDY TO FIRE.
「No one can question my value.」
俺の口から放たれたミサイルが奴に命中する。ゲーム・エンド。名古屋、春。クレーマーに明日は来ない。

(後記)
実際は「何人も俺の価値観を正すことなどできない」とは流石に言えず、テキトーに出任せを並べ立てた。奴はそれに対しても噛み付いてきたが、何を言われたかは正確には覚えていない。ただ、最終的に云うことがなくなったのか、とち狂ったのか、ー後者でないのを祈るばかりだー「もしあなたに権限があるのなら」と前置きした上で、こんなことを言ってきた。
「このおかしな法律を変えるように働きかけてほしい」
電話一本で繋がる職員に法律を変える権限があると本気で考えているのだとしたら、もう出来ることは一つしか残されていない。
「はい」
ウェルダンでも、レアでも、ブルーでもない生返事。分かり合えぬ悲しさと眠気に襲われる午後三時。

*1:本題とは関係ないが、愚痴ついでに云うと、「お前らいい加減電話とらんかい!!」と激昂する日を俺は密かに夢想しているのだ。そうなって全てに終止符が打たれる事態を心のどこかで待ち望んでいるのだ。しかし、そんな日は恐らく来ないだろう。そして俺は明日からも電話を取り続けるだろう。「お前だってワンコール寝かしたらいい」という意見は傾聴に値するが、「苦手なことから逃げていたらいつまで経っても成長しない」と云う熱苦しい精神論こそ、俺がいざとなったときに縋り付いてきたものだからだ。