玉稿激論集

玉稿をやっています。

愚でなき兄と(fiction)

 兄と会うのは3年ぶりだった。3年というと、件の疫病が流行するずっと以前から私と兄の交流は絶えていたことになるから、彼と私との間になんらかの確執があったように思われるかもしれないが、そんなことはなく、互いに不干渉でいるうちにいつの間にか長い時間を経てしまっただけで、私としては久方ぶりに兄からの連絡を受けて再会が決まった折には、若干の高揚感さえ覚えたのである。
 とはいえ、覚えたのは高揚感のみではない。同窓会をやりたがるのは人生がうまくいっている者である。この命題が最早当今常識にさえなっているほど普遍的に真なのと同様、命題「没交渉の弟と会いたがるのは順風満帆な人生を送っている兄である」もまた、いつの時代のどの兄に対しても真なのだ。東京に住む彼が今般出張で訪れるのは神戸なのだから、私が住む京都など素通りしてそのまま該地に赴けばよいものをわざわざ声かけをしてきたのは、さぞかし万事如意な日々を送っているからだろうと、相も変わらずうだつの上がらぬ私は持ち前の僻み根性を抑えきれないでもいたのだ。
 この兄というのが、子供の頃から何につけ器用にこなす兄だった。あるいはこの表現は些か不正確かもしれない。幼時の兄が世間一般からして万能だったかどうかなどわからないから。いや、おそらく万能などではなかっただろう。ただ、彼はどんなことでも私より上手にこなした。共に習っていた空手では一度も負かしたことはなかったし、テレビゲームなどでもあまりに私の負けが混むから、わざと手を抜いてもらったりしていた(このことに気づいたのは後年になってからで、当時の私は兄に勝ったことに狂喜乱舞していた)。兄が難なく合格した県下で最も偏差値の高い高校にも私はちゃんと落ちて、そこに通う者は「県下で2番目に賢い高校」と謳っているものの、進学実績を虚心に眺めると5、6番手に落ち着いてしまう高校に通った。当時、多くの文系生徒同様、生物を受験理科科目として選択していた私は、メンデルの遺伝の法則を学んだとき、教師が板書する「優性遺伝子」だの「劣性遺伝子」だのの文字列から、兄と己を連想し、兄のことも知る友人には自らを「劣性」と称して自虐などもしていた(勿論遺伝学でいうところの「優性」「劣性」はかような優劣を意味する用語ではない。この頃では誤解を避けるため、優性を「顕性」、劣性を「潜性」と呼称を改めたとも聞く)。自らに宿された「劣性遺伝子」ゆえに捻くれた性格になった私がそれでも兄との間に軋轢を生じさせなかった―当然平均的な兄弟喧嘩はあったものの―のは、偏に兄の性格による。その良く言えば鷹揚な、悪く言えば己の勝利に無自覚な、音で表すなら「ぼよーん」とした性格は、躍起になって張り合う私をふと我に返らせるものがあった。
 自身の変化についても触れておかねばなるまい。分別のつかない餓鬼の頃は兎に角負けず嫌いで、兄のみならず自分より秀でた能力を持つ者に憎悪ともとれる視線を向けていた私だったが、様々な局面(空手にせよ、勉強にせよ、カードゲームにせよ)で負けが混んでくると、己の身の程を知らされた格好となり、負けず嫌いな性向はなりを潜めるようになった。過去に私の負けず嫌いに迷惑を被った者たちは、私が「丸くなった」ことを歓迎した。彼らは決して間違ってはいない、負け癖がつくことと丸くなることの間に大した隔たりがないのだとしたら。
 殊に学業に関していうと、いつの間にか残酷なまでの差が開いてしまっていた。県下一偏差値の高い高校に通っていた兄がその後も優秀な成績を継続して収め、当たり前のようにストレートで京都にある国立の総合大学の法学部に合格した一方で、私が浪人の末なんとか入学許可を得たのは、関西のとある私立大学の文学部だった。因みにこの大学も巷間では「関西で4本の指に入る」などと噂されていたが、私は高校のときみたく不都合な真実を知るのが億劫で、虚心に当の4大学の偏差値なり就職実績なりを調べることをしなかった。調査の結果、4つの大学の名前の頭文字を繋げた文字列を口にするとなんとなく語感がいいからそれなりに名が知られているだけであって、これらの大学が並み居る関西の私立大学の中でさして優秀なわけでも何でもないなんてことが判明しようものなら、もう目も当てられない。
 多分に負け惜しみを込めた言い方になるが、面白味のないほどにエリート街道を進む兄は、大学卒業後は国内最大手の人材派遣会社に総合職として採用され(私は根っからの僻み根性でもってこの会社を内心で女衒呼ばわりしていた)、ヘッドハンティングなる物騒な仕打ち―これはサラリーマンにとっては大層名誉なことらしい―を何度か受けて数社を渡り歩いた結果、昨春から何やらオプティミスティックな響きを持つ会社に勤め始めたと田舎の母に聞かされていた。一方私の方はというと、当然兄のように飛び級でもって大学を4年で卒業することはなく、きっちり5年をかけて卒業した後は、地元に戻るでもなく、はたまた多くの同年代の者がそうしたように花の都大東京にさしたる目的なく踏み入れるでもなく、大学に入るまでは縁もゆかりもなかった関西に拠点を置いている、就職活動をするまではまるで聞いた事のなかった小さな会社で事務職に就いていた。仮にも大学を出ている男がいきなり事務をさせられるというのは確かにあまり聞く話ではないが、私としてはありがたかった。営業をするのが嫌だったからである。他人に対して数多の思うことがあるにもかかわらず、内心で人を見下すということさえ、天罰によるしっぺ返しを恐れて躊躇するほど臆病にできている私にとって、日常的に理不尽なことを要求する客と現場で対面する仕事はこの上なくストレスフルに思えたから、残業手当が付かない分いくばくか賃金は安くなるものの殆どストレスフリーな事務職にやりがいは感じずとも、さしたる不満もなかった。だから今年度から営業部に異動することが決まったときには、大いに落胆した。車の運転、コテコテの関西弁を用いる見ず知らずの他人との折衝。こういった不得手かつ不慣れなことをせねばならぬのは当初の予期以上にストレスフルであり、酒量が大幅に増加した。
 ただ実をいうと、そのストレスフルな状況に、働いてからこの方縁のなかったやりがいめいたものを感じてしまったのも事実なのである。事務職をしているときは毎日遅くまで残業している者共を奇異の目で眺めながら定時退社をキメていた私がこの春から彼らと同じように残業するようになったのは、そうしないと仕事が片付かないからというのに加え、ワーカーズ・ハイ(夜遅くまで働くことに快感を覚える状態)になったことに大いに依っている。出先で客にどやされるのは確かに辛いが、そんなきつい仕事を日々こなすことは社内でちまちま事務仕事をしている連中に対する優越感へすぐと転化し、「連中は現場のことをまるでわかっておらぬ」などの愚痴さえこぼすようになった。
 さりとて、感じたことのないストレスに晒されるようになったのもこれまた事実であり、それが前述の通り大幅な酒量の増加を招いた。酒豪で知られる作家が生前遺した小説において、「酒が好きで酒を楽しめる者はアル中にならない。アル中になるのは酒が必要な者だ」といったことを書いていたが、全くもってその通りである。仕事の行き詰まりが臨界点を超えると、脳細胞の一つ一つがアルコールを求め始める。脳が汗をかいている。そうなると私はどれだけ仕事が残っていても、パソコンを閉じて会社を後にし、帰りにしこたま酒を買い込む。そしてそれは兄と再会する前日も同様だった。土曜日の正午前に京都駅にて兄を出迎えることになったが、私はしっかり缶ビールとハイボールを2本ずつ空けて、泥のような眠りについた。

 駅の中央口に現れた兄に変わったところはなかった。ディーゼルのTシャツに履き慣らしたチノパン、keenのスニーカーというさっぱりとした出立ち。私より一回り大きい上背。こちらに近づいてくる足取りは軽い。
「やあ、なんだか随分と痩せたんじゃないのか」
それが兄の第一声だった。これに私は約半年前から始めたランニングの効果が灼かに現れている旨を告げる。
「そうか、君はいずれフルマラソンにでも出場するつもりなのかい」
「いや、そのつもりはないよ。42・195キロなんて走っていたら、途中で走ることに飽きちまうし、第一そんなに長い距離を走ると、細胞に負荷がかかりすぎてかえって老化につながるんだ。俺は健康になりたいだけだからね」
「相変わらず君は理屈をこねくり回しているのだな。でも父さんや母さんは心配していたぞ、君が痩せすぎていると。僕が久しぶりに君に会うと伝えると、何か美味いものでも食わせてやってくれだとさ」
「それはありがたいや。俺は食べることを何より楽しみに生きているからね。ところで、ご馳走してもらう身がこんなことを言うのはおかしいけれど、何か食べたいものはあるのかい?」
「うむ、せっかく京都に来たのだから、おばんざいはどうかな」
「おばんざい?」
「京都に住んでいるのにおばんざいも知らないのかい?おばんざいだよ、おばんざい。まあ、僕も詳しく説明しろと言われたらできないけれど」
そう言うと兄はおもむろにスマートフォンを取り出して調べ物を始め、烏丸にある「おばんざい」の店の予約を取り付けた。その店は件の疫病の煽りを受けて開店休業の状態だったらしく、今すぐ来店しても構わないとのことだった。兄の提案で我々は七条から店まで歩いて行く運びになる。西本願寺を横目に見ながら、烏丸を目指す。
「京都に住んでいる頃はろくすっぽ寺社仏閣に行かなかったなあ。離れてみて思うよ、もっと色々観光しておけばよかったと。おばんざいを食べたら御所の方まで腹ごなしに歩いてみるっていうのはどうだい」
「別に構やしないけど、御所なんぞ行ったところであまり見るところはないんじゃないかな」
「そんなことないさ。大体京都に住んでいない者にしてみれば、この古風な街並みを歩くだけでも楽しいものなのだよ」
私も見知らぬ町を歩き回ることが好きだから、言わんとすることは何となくわかった。先日も久方ぶりに帰省した際、地元の繁華街を初めて歩いてみたのだが、新鮮な驚きがたくさんあった。中高生の頃はヤクザが闊歩しているイメージの強いそのエリアについぞ足を踏み入れず、大学進学を機に地元を離れた私は阿呆のように大口を開けて立ち並ぶビルを見上げたものだった。
「そんなことより東京から神戸くんだりまで来るなんて、一体何の仕事をするんだい?しかも緊急事態の最中に」
「緊急事態宣言下だから来たのさ」と応じる兄はさながら漫画の主人公のような顔つき。
「まあ、東京も京都も神戸も宣言が発令されているのだから、その間の移動はそんなに問題にはならないと俺も思うけど、そりゃ一体どういうことさ?」
「最近この国でもようやっとコビッドのワクチン接種が始まったけど、遅々として進んでいないだろ。だからこれからは、海外にならって大規模接種会場で接種を行うことに決まったんだよ。で、そのパイロットケースが神戸で実施されるから、プロジェクトの立案者の一人である僕も神戸に赴かねばならなかったというわけだ」
「へえ、そりゃすごいや」
感心する私に兄はスマートフォンを取り出して、当該プロジェクトについて伝えるニュース映像を見せてくれた。そこには短いインタビューを受ける彼の姿がある。私は兄のメジャーデビューを心から祝うと同時に、兄が私に会いに来た理由の一端を知った思い。因みに、後日聞いたところによると、両親はかの映像をリアルタイムで座して見たらしい。
 いずれにせよ、コビッドにより世界は大いに変わってしまった。その変化の多くに私はアンビバレントもしくはネガティブな感情を抱いていたが、唯一私がポジティブな変化と捉えたのは、会社の飲み会が消滅したことだった。あの、ほぼ全ての者が望んでいないにもかかわらず折に触れて開催される行事を私もその他大勢同様忌み嫌っていたから、今般の疫病の大流行により好きでもない者と酒を酌み交わしたり、幹事として店選びに頭を悩ませることがおそらく半永久的になくなったのを寿いでいた。
「まあ、幹事というのは上手くやれば合法的に会社の金を横領できるけど、下手をすれば無駄な身銭を切ることになるものな。ところで君の仕事の話も聞かせておくれよ。新しい部署に配属になったんだって?」
私は頷き、近況を簡単に述べる。
「しかし、ここらの客というのも厄介なのが多いだろう。僕の友達で君と同じようにこの辺りで営業をやっている奴がいて、そいつが以前言っていたことなのだけど、彼は先輩に『〇〇に行くときは犬に気をつけろ』と言われたらしい。意味がわからないだろ?つまり、〇〇を車で走っていると、ふいに犬が飛び出してくることがあるらしく、―犬ったってチワワとかダックスの類じゃないぜ。昔母さんの実家近くにいたような野犬の類さ―それを轢こうものなら、たちまち車を数人に取り囲まれて因縁をつけられるというわけだ。この国でそんなことがあるなんて、僕も俄かには信じ難いけどね」
〇〇については私も似たような話を聞いたことがある。某ファストフード店でアルバイトをしていたとき、ヘルプとしてその辺りの店舗に派遣されたことがあったのだが、普段からそこで働いているある店員は、客にレジスターを投げつけられた体験を面白おかしく話してくれた。「まあ、この辺は日雇いが多いですからねえ」と嘆息しながら。
「あの辺は何というか、眠気覚ましに食べるガムというか」
と言った私を兄は怪訝な目で眺める。
「ブ〇ックブラッ〇だよ」
頭の良いはずの兄が私の意味するところを理解する間に、ジャマイカ籍のあの世界記録保持者なら100メートルを駆け抜けただろう。

 お盆の上には大小合わせて10個の器が据えられている。つやがかった白飯、ジュレののった豆腐、麩の田楽、鯛の煮付け、だし巻き卵、キュウリの酢の物、冬瓜のおひたし、二色ソーメン、冷製ポタージュ、天ぷら。これがおばんざいかと感心して眺めていると、店員さんがご参考までと我々の傍らに品書きをおいてくれる。
真ん中を小さな紙片で留められている箸を割り箸の要領で引き離そうとしてもなかなかうまくいかない。難儀している私を差し置いて兄は早速煮魚に手を伸ばしている。
「割り箸みたくやってたんじゃ、いつまで経っても食べられやしないよ。引っこ抜く要領でやってみればいい」
しかし言われたように今度は紙片から箸を引っこ抜こうとして力を込めても、びくともしない。まるで知恵の輪のようだ。
「2本一気に引き抜こうとするからできないのさ。1本ずつ引き抜いてごらん」
果たしてその言に従い、1本ずつ引き抜くと、箸は紙片の束縛からたちまち自由となる。これでやっと飯にありつける私の顔には自然と笑みが浮かぶ。
「君はサルのようだ」
「僕が通っていた大学の霊長類研究所のサルができたならニュースになるようなことを、君も喜びと共に達成している」
兄も優しい目をしながら苦笑する。
 天ぷらの具材を確認するため、予め渡されていた品書きに目を落としたところ、そこに「鱧の天ぷら」の文字を発見した私が思わず、おそらく兄ぐらいにしか通じないであろう内輪ノリで、我々の間ではお馴染みの台詞である
「京都で鱧は獲れない」
を言い放つと、これにも兄は苦笑しながら、
「京都に出回る鱧のほとんどは瀬戸内海産だ」
と応じる。
「しかしまあ、君は本当にあのシーンが好きなのだな。京都の地でその台詞を言えて感慨もひとしおだろう。でも、あのグルメ漫画のファンの中に君の言を理解して乗っかることのできる者が果たしてどれくらいいるものか」
だから兄のような人材は文字通り有難いのだ。
「いやあ、しかし美味しかった。2000円も使う外食なんて久しぶりだよ。最近は僕も家で一人スーパーの半額の惣菜ばかり食べているからね」
冷たい麦茶を飲み干した兄がそう言うものだから、私は眉を顰める。
「どうしてだい?細君がいるじゃないか」
確か今年で結婚六年目のはずである。
「彼女も仕事が忙しいらしくてさ、ここのところずっと家を留守にしているよ」
「そうなのか。でも神戸に行くのなら神戸牛ステーキを食べることができるなあ、羨ましいよ」
これに対して兄が何気なく
「一人でそんな美味いものを食べても楽しくないじゃないか」
と返したとき、私は先日一人で食した3000円の鰻丼の芳醇な旨味を思い起こし、反論しようかとも思ったが、我々をいつの間にか引き裂いていた大河のような断絶を前にすると虚しい気持ちになり、頭の中で咄嗟に用意した屁理屈を呑み込んだ。
 結局割り勘をして我々は店を後にした。

 その後は当初の予定通り、御所に向かい、そのだだっ広い庭園をとぼとぼと歩き、晩は鴨川を望みながら焼肉を肴にノンアルコールビールを飲んだ後は、長岡京に住む旧友の家に泊まるという兄を駅まで見送った。3年ぶりに会う兄に私はさしたる懐かしさを感じなかったし、それは先方とて同様だろう。でも確実に我々は年をとっていて、しばしば年に見合った話題について―あるいはこれは私だけかもしれないが―歯を浮かせながら口にした。蛇足としてそのうちの一幕を記して、この小話を終わりにしたい。
 ノンアルコールビールなるものを飲んだのはその日が初めてだった。酒類の提供が中止されているため、せめて気分だけでも酒を飲んでいる感じを味わおうと注文したのだが、これは失敗だった。ビールだけには人一倍こだわり、発泡酒を飲まないのは勿論のこと、日課の晩酌は水滴を落とし切った上で冷凍庫に放り込んだグラスを準備して臨み、この頃は注ぎ方にまで心を傾けるようになった私にとって、カラメル色素がいやに喉にまとわりつくそれを飲むのは、心地の良い経験ではなかった。真の麦酒との共通点は尿意を催すだけのその液体をちびりちびりやっていると、一瞬沈黙が流れたので、私は何気なく先日兄の結婚式が開かれた場所である花小路あたりを訪れたことを話そうと、「この前結婚式場に行ってきたんだ」と言うと、兄はこれを盛大に勘違いし、
「なんと、ついに君も結婚するのか」
と返してくる。確かに言葉足らずだったので、慌てて訂正すると、
「なんだ、そんなことか。てっきり君が式場の下見に行ったのかと思ったよ。ところで、ついでに聞くと言っちゃあなんだけど、良い人はいるのかい?」
と、こちらがあまり話したくない話題を振ってくる。これに私が否定で応じるとさらに、
「結婚願望はあるのかい?」
と尚も続けてくるのである。
「まあ、俺も人と話すのは好きだから、気の合う者と暮らすのは楽しそうだと思うよ」
「田舎に帰ったら親戚連中に聞かれるだろう、結婚しないのかって。彼らは皆君のことが心配なのだろう」
「ああ、聞かれるさ。気持ちはわからなくないけれど、あれはやめてほしいものだよ。俺はその都度傷ついているんだ」
「今度彼らに会ったら言っておいてくれないか、あいつも実は傷ついていたのだと」
軽い冗談で言ったつもりだったが、兄の笑い声と反比例するように、私は涙腺が刺激されているのを感じる。
 全く空を見上げれば雀でさえ、足元を見下ろせば虫けらでさえ、つがいを見つけているというのに、こんな歳になっても独り身である自分には、おそらく何かしらの欠陥があるのだ。そんな私に「まだ結婚しないのか」などと尋ねるのがいかほど残酷なことなのか先方は理解していないのだろう。こんな泣き言を口にすると、「そんなつもりはない」「聞き流せばよい」「何事も真剣にとらまえすぎだ」「冗談が通じない」「お前ぐらいの年代で独身の者は皆聞かれることだ」となるのだろうし、その通りだと私も頭では理解できるが、私が彼らにより損なわれたのもまた紛れもない事実なのだ。つがいを見つけのうのうと暮らしている勝者による死体蹴りになぜこちらがにこにこして応じなければならないのか。話しているうちにそんな考えが頭に浮かび、無性に腹が立ってきた(因みに私のような男は昨今では「非モテ」と呼ばれるらしく、その研究についての本を先日立ち読みした。共感を覚える箇所があることに安心すると同時に、己の悩みが凡百であるのを突きつけられた気もした私はそっと本を閉じ、その場を後にしたのだった)。
 だから兄が「まあ、彼らももうじき何も言わなくなるさ」と諭すように言ったとき、私は思わず、
「なぜだい?2、3年もすれば死ぬからかい?」
と口走ってしまった。これに兄は苦笑しながら、
「そういうことを言っているわけではないよ。あと数年すればそれは本当に触れにくい話題になるということだよ」
と、これまた惨たらしい未来を提示するが、私は構わず、
「なるほどそういうことかい。いずれにしても俺は彼らに心からの謝罪を要求したいね」
などと、自分にされた嫌なことはとことん根に持つ本性を覗かせて吐き捨てた。そのそばから、心に暗い靄がかかるのを感じる。こんなことを口にすると、どうせ後で酷く悔いてしまうのだ。私は決して彼らのことが嫌いではないのだから。仮に今私が死んだとして、その死を心から悼む者が彼らや目の前の兄の他にどれだけいるだろうか。そのような者は皆無ではなかろうか。生前から己の死を悼む者を想定できる人生は、人並みに恵まれているのかもしれない。でもやはり親族だけでは飽き足らないのだ。私には親族以外で己の死を悼むであろう者が必要なのだ。

 焦げ付いた網から昇った煙は立ち消えることなく、目の前を漂い続けている。視界がどうにも晴れてこない。
「やあ、そろそろ8時になるから今日はここいらでお開きにしようか」
兄は店員さんを呼んでチェックを請求し、14000円をスマートに支払った。

 寺町通に出ると、普段炭水化物を一切摂らないと公言しているストイックなミュージシャンが、年に一度自分へのご褒美として食べるという老舗のラーメン屋が目に入った。焼肉だけでは些か物足りなさを感じていた我々は閉店間際のそこに滑り込み、大きな器に入った豚骨ラーメンを啜った。そこで何を話したのかはあまり覚えていない。ただやたらと兄が私の仕事についてあれこれ尋ねてきたことは記憶の片隅に残っている。
 そのとき小心者の私は、早くも先刻の自らの発言を悔やむフェーズに突入していたのだ。
 焼肉を奢ってもらった身として、申し訳程度に兄の分も含めたラーメン代(しかもその日はキャンペーン中で500円という破格だった)を支払い、彼を地下鉄の入り口まで見送ると、私は緊急事態宣言などお構いなく24時間煌々と灯をともしているコンビニエンスストアに直行する。そして、ノンアルコールビールなどでは露ほども酔えぬ頭に渦巻く悔恨や邪念や不安を一時でも忘れさせてくれるかの成分が入った飲料をしこたま買い込むのであった。

健康というカルト

あの日確かに鏡の中にデブがいて、それは僕だった。

 

当時は太っていることに気づかず、制服のズボンのチャックが知らぬ間に少し下がっているなんてことがしばしば起こるようになっても、「チャックがアホになっとるから制服を交換してもらわんとな」などと呑気に構えていた。ただ今になると、ズボンの機能性に責を帰していた己の愚かさが身に沁みる。単純にあのときの僕は太っていただけなのだ。

 

体重計のない部屋で暮らしていると、太っていることに気づく機会はほとんどない。だから僕は毎日ご飯をたくさん食べ、お酒を鱈腹飲み、ポテトチップスを一袋たいらげる生活を長らく続けてきたし、これからも続ける気でいた。今までこれで太らなかったのだから、これからも太らないだろうと。ある命題がすべての自然数で成り立つことを示すために、まずn=1で成り立つことを証明して、次にn=kで成り立つならばn=k +1で成り立つことを示す、懐かしの数学的帰納法のようなものだ(←読み手にある程度の教養を要求してしまって申し訳ない。理解できなかったら読み飛ばしてもらって全然構いません。ちなみに僕は自分が何を言っているかよくわかっていません)*1帰納法が破綻した原因は明らかだ。代謝の悪化を勘定に入れていなかったから。Curryじゃなくて鰈じゃなくて華麗じゃなくて加齢とともに徐々に代謝は悪くなっていくのだとしたら、飯の量を変えないままだと体重は微増していくに決まっているではないか。

思い込みとは恐ろしいもので、久方ぶりに行ったスーパー銭湯で何とは無しに体重計に乗ったときも、「まあこれくらいだったっけ」ぐらいの感想しか抱かなかった。当然のことだ。どれだけ食べても太らない自分の体重がいきなり増えるわけがないから。こんな思いもあった。万が一太っていたとして、それがどうしたというのだ、体重のわずかな増減に一喜一憂するなど、大の男がすることではない。

だから、いつも穿いているデニムのベルトを締めたとき、腹に醜い肉塊が鎮座しているのを確認して初めて、「こんなことはこれまで一度もなかった」と事態の深刻さに気づいた次第だ。銭湯では自覚しなかったが、確かに体重は増えていたのだと。いや、正確を期すと、そのときもまだ太ったことを完全には認めておらず、僕は風船みたいに膨らんだ腹に詰まっているのはしみったれた脂肪などではなく、空気なのだと信じ込もうとして、幾度も横隔膜を上下させたが、所定の位置に横隔膜が戻るとともにだらしない贅肉もまるでテトリスのブロックが理想の位置に嵌るようにストンと腹の周りで落ち着く感じを覚えて、己とデブをイコールで結びつけたわけである。惜しむらくは脂肪はどれだけきれいに揃えても、テトリミノとは違い、消滅してくれない。僕は俄かに暗澹たる気持ちになった。身体に予め備えられていた「どれだけ食べても太らない」というオプションがいつの間にか取り外されている。老いを実感した瞬間だった。

「そんなときに出会ったのがこの青汁で…」となるほど僕も落ちぶれてはいない。ただ白状すると、中田敦彦を見てしまったのは事実だ*2。おすすめに流れてきた*3健康本を紹介する動画の中で彼が老いを「病気」と評したり、食事の量と回数を減らし適度な運動をすることで若返るなどと話すのを見て、柄にもなくやる気になってしまった。

食う量を減らして走る。僕がこの半年あまりの間にしたことはそれだけだ。食卓に並ぶのは、カップ麺と冷凍チャーハンと唐揚げとポテチと麦酒から、鯖の塩焼きときんぴらごぼうと納豆と味噌汁と麦酒になった。遁世した僧侶のような食事だが、特に苦ではなく案外これで満足する。加えて走る。今年の4月からは業務量の変化に伴い週末しか走ることができなくなったが、それまでは半年間ほぼ毎日晩飯前に走っていた。距離にして4、5キロ。あんなに走ることが嫌いで、健康のためにジョギングする人々を奇異の目で眺めていた僕が。人間変われるものだ。

当然の結果として僕は痩せた。これまた当初は気付かず、同僚やら上司からの「なんか痩せました?」の問いかけにも首を傾げ、同僚には「そんなことより…」と楽しいカンバセーションをしようと試み、上司には「あ、いや、なんというか、その、まあ、どうなんですかね、すみません…」などと相も変わらず終始要領を得ない対応をするような有様だったから、久しぶりに参加した飲み会の席で撮影されたフォトグラフに写る病人を思わせる己の近影を見るに至って、会社の連中が自分に体型の変化の有無を尋ねたときに若干心配そうな顔つきをしていたことの意味を理解するとともに、数ヶ月にわたる「ダイエット」の成功に小躍りしたのである。ただゴールデンウィークに帰省して久方ぶりに体重計に乗ったときには、流石に仰天した。そこにはいつぞやのスーパー銭湯で記録された我が人生における最高体重から10キロ以上減った数値が表示されていたからだ。

親族の心配に加え、これ以上体重を落とすのは流石に良くないと自分でも思ったので、連休中はほとんど運動もせず3食しっかり食べた。すると当然体重は少し増える。それが何とも嫌だった。やったことが無駄になるのをひどく嫌う自分にとって、リバウンドはたとえそれが僅かなものであっても不快極まりない事象だし、根が貧乏性にできている自分にとって、せっかく落とした体重が少しでも元に戻ることはなんとも「もったいない」気がしてならない。僕は、俺は、私は、半年前のようなデブに戻ることを恐れている。ああなんて恐れていることだろう*4

食べることが好きで、運動が嫌いな自分をして節制せしめているものは、上述の恐怖のみではない。これは走っているときに特に感じることで、形容するのが難しい気分なのだが、なんだか善いことをしている感じがするのだ。そして心中に渦巻くこの不可解なムードはさらに論理的な飛躍を遂げ、習慣的に走る生活を続けていくことで、何かとびきりいいことが起きるとまではいかないまでも、これから待ち受けているであろう災厄のいくつかは避けられるような心持ちになる。常日頃抱いている不安や焦燥や悔恨が氷解していく感じ。カルトじみていると自分でもわかっているが、事実そうなのだ。依然として無宗教者としての自覚はあるが、走ることで人生が好転することを信じながら走ることは、果たして一種の宗教的行為なのだろうか。そしてこれはいい質問なのだろうか*5

 

ふと我に返る瞬間がある。スーパーで手にとった惣菜のパックを裏返して熱量を確認しているとき。ひどく腹が減っているのに朝飯を食わずに空腹に耐えているとき。雨の中ずぶ濡れになりながら走っているとき。俺はどこに向かい、どうなりたいのかと自問する。答えはどこからも聞こえてこない。

 

いつまでこんな日々が続くのだろう。

*1:まあ、数学的帰納法を「ある程度の教養」などと言っている時点で筆者の程度が知れるが、この言辞さえ取りようによってはある種のマウンティングとみなされうるので、この話はこのくらいにしておく。

*2:まあ、青汁のようなものか。ただ、インテリ連中が必要以上に中田敦彦を馬鹿にする態度に僕が心中穏やかならぬものを感じているのもまた事実だ。胡散臭いところはあるけれど、彼は紛れもなく傑物だ。だってあんなに大量の本を読んで、ほぼ毎日狂気じみた動画を上げているのだから。「批判してるけど、お前らできんのかよ」などという理不尽極まりない感情さえ僕の中に巣食っている。

*3:「おすすめに流れてきた」などとスカしていますが、こいつは「中田敦彦YouTube大学」をしっかりチャンネル登録しています。

*4:山月記』の李徴を意識しています。

*5:こっちの方が気になるよね。

鬼のいぬ間に(fiction)

6時間目の授業が永遠に続いてほしいと思っているのは、このクラスでわたしだけだろう。別に勉強が好きなわけではもちろんない。でも、放課後に待ち受けている地獄の時間のことを考えると、嫌いなな数学の授業中にあってさえ、矢沢永吉の名曲のタイトルが思い浮かぶ。時間よ止まれ。

そんな気分を察したのか、隣の席の美咲がノートの切れ端を渡してくる。そこに記された「大丈夫?具合悪いん?」の文字が引き金となって、わたしの鼻がつんとする。駄目だ、泣いてしまう。ああ、この授業が終わったら、この授業が終わったら。咄嗟に下を向いて歯を食いしばったから、涙はこぼれなかったと思う、多分。

「カホウテイリはしっかり頭に入れておけよー。これを覚えておいたら、サンカクカンスーの問題が一気に解けるようになるぞ」

「来週からはビブンに入るからなー。ちゃんとヨシューしておくように」

教師の湯浅の日本語が下手で、理解するのに難儀する。彼はいつからか、わたしには理解できない言葉を使うようになっている。他の教師連中にしたってそうだ、皆どうしたのだろうか。

「おい、藤島。聞いているのか、おい」

急に声をかけられて虚をつかれたわたしは思わずぴしっと背筋を正して、

「あ、大丈夫です」

と答えるが、教室に響いた自分の声にあまりにも感情がこもっていないことに我ながら苦笑しそうになる。

「大丈夫ならいいんだが。じゃあ、ちょっと早いけど、今日はここまで。号令お願いしまーす」

湯浅の促しを受けて、日直が気怠そうな声で「起立」と言い放つと、皆が思い思いに立ち上がり、椅子の脚と床が擦れ合う「ガガガ」という心地悪い音がそこかしこで生じ、教室全体で質の悪いハーモニーとなる。最後の最後にわたしが立ち上がったのを確認した日直がこれまた気怠そうに、

「気をつけ、れーい」

を言い終わったとき、わたしはタイムマシンが開発されたらな、などと訳のわからぬ夢想をしている。

 

 

 

木曜日の練習はランニングから始まる。学校の周りをぐるっと一周するコース、通称「ガク」(上から見たら長方形になっているから、こんな名前がつけられたのだろう)を5周するから、そのまま「ガク5」と名付けられたメニュー。走るのは苦手だが、ランニングの時間がある分、その後の防具を着けての地獄の練習時間が短くなるのは、せめてもの救いだ。走りながら部の連中と喋れるのもいい。

運動着に着替えたわたしがアキレス腱を伸ばしていると、剣道部の中でも1番の仲良しである葉月がこちらに向かってくる。これから地獄の時間が始まるというのに、顔には何故か満面の笑みが浮かんでいる。

「キシちゃん、キシちゃん!」

「聞いて!」

明らかに上擦った声をした彼女が朗報を携えていることは確かだったが、それがどんなものかとんと見当のつかないわたしは、返事もそこそこに彼女の声帯が震え、空気を揺らすのを待つ。

「今日、鬼来ないかもよ!」

「え、ほんとに!」

鬼とは、剣道部の顧問を務める森山先生のことだ。わたしたちは先生のことを陰で「鬼」と呼んでいる。理由は単純で、鬼のように恐ろしいからだ。

そもそもわたしの通う学校(地方の中高一貫の女子高)に剣道部ができたのは、中2の秋のことだった。帰宅部だったわたしや葉月たちは興味本位で「剣道同好会」(当初はそんな甘っちょろい看板を下げていたのだ)に入ったのだが、それが今日につながる地獄の日々の幕開けになるとは知る由もなかった。というのも、当初はなかなか楽しかったのだ。制服でも運動着でもない胴着と袴を身につけるというのは、それ自体が新鮮な体験だったし、竹刀を振り回してチャンバラごっこをして心を躍らせるのは、何も男に限った話ではない。同好会ということで、体育館で練習することができなかったので、教室の机と椅子を両端に寄せて、そこで当時の顧問だったおじいちゃんの先生(一応剣道の有段者だったらしい)の掛け声に合わせて、素振りをしたりしていた。

人数が増えてきて、同好会から部に格上げになるタイミングでおじいちゃん先生は定年退職し、次にやってきたのが大学を卒業して教師になったばかりの鬼だった。鬼は男の中では決して恵まれた体型ではないにもかかわらず、その類稀なる才能と血の滲むような努力で、強豪校といわれる大学でレギュラーの座を掴み、全国大会でも好成績を残していた。鬼を初めて見たとき、わたしたちはときめいたものだ。何しろ、そこそこ二枚目なのだ。淡い恋心を彼に対して抱く者も少なからずいたように思うし、剣道部ではない連中には体育教師の鬼のことを真剣に狙っている者が今でもいると聞く。

ただ、ここまでにも何度か言っているように、鬼が来た日から地獄の日々が始まった。鬼は何を思ったのか(まあ、彼からしたら当然のことなのだろうが)、わたしたちを強くしようとした。そのために、自らが培ってきた経験や知識や技術のすべてをそれこそ全身全霊をもって、わたしたちに文字通り叩き込んだ。誤解なきように言っておくが、鬼からいわゆる体罰を食らったことは一度もない。試合の結果が不甲斐ないものであっても、鬼に手を上げられたことは一度もなかったし、練習中に怒鳴り声を上げて叱咤されたこともない。ただ防具を身につけてわたしたちに稽古をつける段になると、人が変わる(すなわち鬼になる)、そんな人なのだ。来る日も来る日も鬼から「合法的な」しごきを受け続けた当然の結果として、わたしたちは強くなった、急速に、そして急激に。何せ剣道を始めたのは中学校の終わりだったにもかかわらず、高校2年のときには県大会でベスト4にまで進出し、今年行われた県大会では見事優勝して、インターハイへの切符を手にしたのだ。

わたしたちが鬼を恐れ、日々の練習の前には憂鬱になるあまり涙をこぼすようになっても逃げ出さなかったのは、否が応にも高まる周囲の期待を裏切りたくないためだけではなかった。それは何よりも勝負で勝つ楽しさを知ってしまったからだった。日本プロ野球界初の外国人監督としても知られ、広島東洋カープを昭和50年に初のリーグ優勝に導いたジョー・ルーツは、万年最下位に沈んでいたカープの選手たちを前にして、「君たちは勝利への執念が足りない。なぜなら勝つ喜びを知らないからだ」と発破をかけたらしい。果たしてルーツの言は正しかったと、わたしも身をもって知ってしまった。コートの中に入ったら誰も助けてくれない、実力だけがものを言う世界で、独特な緊張のためいつもの練習のようには動かない身体から技を繰り出して相手を打ち負かす喜びは一度知ってしまうと、病みつきになるものだった。いつの間にかわたしの中に勝利に飢える獣が棲みついていた。

とはいえ、インターハイ出場が決まってからは、これまでも十二分に厳しかった練習が、輪をかけて苛烈になっており、わたしたちは精神的にも肉体的にもだいぶ追い込まれていたので、葉月から今日の練習には鬼が来ないかもしれないと聞いて、わたしも小躍りする。

「森山先生ってさ、今年から生徒指導の担当になってるじゃん」

走りながら葉月が事情を説明してくれる。わたしは10回に1回、葉月は5回に1回ぐらいの割合で、鬼のことをちゃんと「森山先生」と呼ぶ。単純計算で葉月はわたしの倍、鬼のことを尊敬していることになる。まあ、恐れているだけかもしれないが。

「で、3組の西村さんがタバコ吸ってるのバレたらしくてさ、3組の担任と鬼と西村さんが一緒に職員室に入って行くのを桃子が見たらしいの」

「多分今から西村さんをこってり絞るから、今日は来るとしても、練習が終わった後に少し顔出すぐらいじゃないのかなあ。まあ、たまにはわたしたちだけじゃなくて、他の子たちも指導しないとね」

葉月は気管が強く、スタミナもあるため、普段のわたしのスピードよりも速く走りながらでもこうやって喋ることができる。わたしは彼女に着いていくのに必死で、「うん」とか「確かに」などと相槌を打つので精一杯だ。

「だからキシちゃん、今日はちょっと早めに練習を終わりにしない?ねえ、お願いしますよ、キャプテン」

いつも人一倍真面目に練習に取り組んでいる葉月がそんなことを言うのが意外で、わたしは走りながら声を上げて笑った。

体育館に着くと、先に走り終えていた部員たちの間でも今日は鬼が来ないとの情報がすでに出回っているらしく、皆その話題で持ちきりだった。鬼は今頃タバコを吸っているのが発覚した西村さんの親に連絡をとっているだろうとのこと。後輩の一人が西村さんに対する感謝を述べたので、その場がどっと湧く。

ただ、インターハイが迫っている以上、鬼が来ないからといって、手を抜いた練習をするわけではない。皆が胴着と袴姿になったタイミングを見計らって、わたしは号令をかける。「整列!」

瞬間、場の空気が引き締まる。 (続く?)

人に優しく(fiction)

(1)

「すみません、すみませーん」

 

まさか俺に声をかけているとは思わず、駅への道を急いでいると、今度は少し大きめの声で「あのー、これ落としてますよー」と言われたので、何かと思って振り返る。すると、若い男が手袋を持ってこちらに向かってくるところだった。俺はコートのポケットに手を入れる。右のポケットには右手用の手袋が入っているが、左のポケットは空だ。いつの間に落としていたのだろうか。

 

「あ、ありがとうございます」

 

言い終わる前に男は雑踏の中に消えており、俺は阿呆のように片方だけの手袋を持って立ち尽くしている。買ったばかりの新品の手袋。朝は寒かったから着けて通勤したが、夕暮れどきには気温が上がり、不要になっていた。春はもうそこまで近づいている。

 

もっとちゃんと感謝の意を伝えるべきだったなと思ったところで、目が覚めた。

 

(2)

世界一の安打製造機と呼ばれたあの青年は、「ヒットを打つたびに自分がレベルアップしている気がするんです」と言っていた。俺の頭の中にロールプレイイングゲームで主人公がレベルアップするときに流れる音楽が鳴り響く。チャラララッチャッチャッチャー。彼がプロになってから引退するまでに打ったヒットの本数は4300本を超える。ということはレベル4300以上。どんなモンスターでも一撃で倒せるだろう。対して俺が打ったヒットの本数はゼロ。当たり前だ、野球選手でも何でもないんだから。でも、振り返ってみると、メタファーとしてのヒットさえ一本も打っていない気がする。一度もレベルアップしていない人生。同い年なのにここまで差が開いてしまったのを、才能の多寡のみに帰するのは容易いが、それだけじゃないことはわかっている。努力の量、向上心、環境。何もかもが違う。

 

才能のない人間はどうやったらレベルアップできるのだろうか。残された方途はそう多くない。

 

俺が「一日一善」などという使い古された目標を秘かに心に掲げるようになったのには、そんな思いも関係していた。ヒットを打たないかわりに何かいいことをすることで徳を積んで、レベルアップする。今思えば見上げた志だ。

 

困っている人を見かけると、誰もが助けたくなる。そんな時代だった。なんとなれば、人々は血眼になって困っている人を探しているようにも見えた。行き倒れになっている妊婦を10人以上の老若男女が取り囲んでいるのに出くわしたこともある。そんなにたくさんいたところで人手は余るだけだと流石に俺も思ったが、そんなことはなく、それぞれがそれぞれの役割を果たしていた。男たちは救急隊員の手助けをしていたし、女たちは妊婦に寄り添って優しい励ましの言葉をかけ続け、子どもたちは妊婦が連れていた幼子をあやし、爺さん婆さんは野次馬根性丸出しの見物人をたしなめつつ、事態の成り行きを見守っていた。彼らが「妊婦を助けたい」という思いと、「誰かを助けることでなんらかの充足感を得たい」という思いのどちらにより強く突き動かされていたのかはわからない。しかし、いずれにせよ、苦しんでいる妊婦を誰もが見て見ぬふりをする世界よりも、こういう世界の方が幾分ましだと思っていた俺は、風の噂で彼女が死産したと聞いたとき、人並みに心を痛めた。

 

俺自身も「一日一善」という己に課した課題をなんとかこなしていた。いや、こなすという表現は不適切だ。善い行いをするのを半ば楽しんでいたのだから。ただ、何をやっても自分がレベルアップしているという感覚は得られなかった。

 

(3)

潮流が変わり始めた正確な時期は思い出せないが、皆がマスクをつけるようになって以降のことだと思う。まず人の親切を食い物にする輩が現れた。こういう輩は確かに以前から存在してはいたのだが、その数は少なく、無視できる程度のものだった。しかし、人々の心に余裕がなくなってくると、施しを受けるのを当たり前のことだと考える連中が目に見えて増えた。親切を受けた者は、その親切を他の誰かに返すことでこれまで回ってきたこの社会の歯車が狂い始めた。

さらに始末の悪いことには、新手の当たり屋のような連中まで出てきた。わざとスマホを落としたりして、こちらが必死になって追いかけて届けると、「こんな傷、もともとついていなかった」などとのたまう。「落としたときについた傷ではないか」と反論しても、ヒステリックに騒ぐばかりで、埒があかない。ここにおいて、若い女が中年男に詰め寄っている図が完成している。通行人からすると、そんなときに中年男の味方をする道理などこれっぽっちもないのだから、畢竟、俺たちは弱い立場に押しやられてしまう。そんな面倒に巻き込まれた同僚の話を何度も聞いた。

 

話し終えると、後輩はヘラヘラしながら、

「いやー、色々大変そうですねー、〇〇さんも。自分は一回もそういう経験ないっすね。年取るのもやだなあ」

と言った。

 

世界が変わったなどというのは間違いだった。ただ俺が年老いて気持ちの悪い中年男になっただけだ。

 

(4)

土砂降りの雨の中、自転車に乗った女子高生がこちらに向かってくる。合羽も着ておらず、アイスバケツチャレンジをしたかのようにずぶ濡れになっている。彼女はスピードを緩めることなくペダルを踏み続け、どんどんこちらに近づいてくる。俺に気づいているのだろうか。ふとそんな不安が過ぎるが、立ち止まらず会社へと歩を進める。

 

一瞬目が合った。

 

次の瞬間、ガシャーン!!という盛大な音と共に彼女は転倒していた。雨で滑りやすくなっていた路面でブレーキをかけたことが災いしたのだろう。何やら大声を上げて喚いている。「うわーん、うわーん、痛ーい!」

 

咄嗟に助けなきゃと思った。動けないなら救急車を呼んだ方がいいかもしれない。

 

気がついたら近くに駆け寄り、声をかけていた。「大丈夫ですか?」

 

「痛い、痛いよー、痛いよー!!うわーん!!」

「ひどい、ひどい、ひどい!!」

 

泣き叫ぶ女の目を覗き込むと、完全にイッた目をしている。およそ人間の目ではない。関わり合いたくなかった。正面から来る男を避けるためにブレーキをかけたら転倒したなどと救助隊員に出任せを並べ立て、俺から治療費をせしめる魂胆なのだろうか、たまったものではない。俺の人生はどうなる。年収750万、円満な夫婦関係、育ち盛りの子ども。ありきたりだが、俺にも失いたくない幸せがあるのだ。こいつと関わることでそれら全てを一挙に失うなんてことはおそらくないだろう。でも、一つ確かなことがある。こいつは俺の暮らしのことなどお構いなく、俺から何かを奪いとるつもりだ。じゃないと、衆人環視の中、こんないかれた真似ができるわけがない。あまりにも傲慢で、あまりにも身勝手で、あまりにも恐ろしく、あまりにもおぞましい。一瞬でそんな考えが頭いっぱいに広がる。自ずとやるべきことが決まった。

 

陸に打ち上げられた魚のようにコンクリートの上でのたうち回る女を見下ろしながら、俺は

「ま、気をつけなあかんで」とだけ言って、再び会社に向かって歩き出す。

 

レベルアップの音楽がどこからともなく鳴り響いた気がした。

友情 其の壱(fiction)

女と話しているときに、野球をやっていたと言うと、大抵の場合、その場が静まり返る。別にスベッたわけではない。この国の女の多くは、野球と全く無縁のまま人生を過ごしている以上、仲間内で野球をやっている者がいたなんてこともないから、元野球部の同性が目の前にいることがわかると、そのいささかトリッキーな事態の展開に思わず二の句が継げなくなってしまうのだ。でも、「あ、そうなんだ…」と相槌を打ってから押し黙るぐらいならまだいい。ひどいのになると、聞いてもないのに「わたし全然野球のこと知らないんだよね」などと自己の野球に対する無関心を開陳したりする。わたしはテキトーに話を切り上げてその場を立ち去る。対面のコミュニケーションはこういうとき本当に面倒だ。LINEだったら、かわいいキャラクターがぺこりとお辞儀をしているスタンプを一つ送ればそれで済む。日本にまだいるとされているへんな生きものの愛らしいスタンプ。けどそれは「金輪際お前とはコミュニケーションをしない」という意思表示だ、言い過ぎかもしれないが。まあいずれにせよ、野球に興味のない女に、送りバントやら犠牲フライやらインフィールドフライやらフィルダースチョイスについて説明しても時間の無駄だ。同じようなことを関西の漫才師も言っていた。曰く、「女は何度説明してもオフサイドを理解せえへん」と。男の、しかも関西人がそんな偏見を語ると、とてもとげがある。でもわたしは関西人じゃないし、女だから、少しぐらい女に対する偏見を口にしたっていい。

 

自分で言うのもなんだが、野球は上手い方だったと思う。小学校の頃は自分以外男子ばかりのチームで4番を任されていたし、全国大会にも出場した。あの頃はどんな球でも打てる気がしていた。野球の神様と呼ばれている川上哲治みたく、「ボールが止まって見える」なんてことはなかったけど、本当に調子がいいときはバットがボールを捉える瞬間が見えた。テレビのプロ野球中継を見て、わたしも将来はあそこに行くんだろうと、割と本気で考えていた。

でも、男子たちと対等以上のプレーができていたのも、中学生の初めの頃ぐらいまでで、中学校を卒業する頃になると、小学生の時分歯牙にもかけていなかった奴が投げるボールにも力負けするようになってしまった。わたしの身体が中学生で成長するのをほとんどやめた一方で、男子たちは変な薬でも飲んだのかと思うほど、みるみるその体躯をたくましくしていた。技術で負けていなかった分、パワーとスピードで押し切られるのが余計に悲しかった。奴らが羨ましかった。もちろん男になりたかったわけではない。なんかむさ苦しそうだし。わたしは女のままで男に混じってプレーしても見劣りしないぐらいの身体能力を切に求めた、叶わぬ願いとは知りながらも。

 

男に対して嫌悪感を抱くようになったのも、大体この頃からだ。わたしの気分とは裏腹に女らしくなっていく身体をチームメイトや大人たちは明らかにいやらしい目をして眺めるようになった。彼らはわたしがその視線に気づいていないとでも思っていたのだろうか。まさか思っていないだろう。仮に万が一そう思っていたとしたら、あまりに滑稽だし、あまりに頭が悪い。

小さい頃から野球チームという男が多いコミュニティで育ってきたからわかったことなのだが、男というのは本当に陰湿だし、残酷な生き物だ。女の比ではない。障害を持った子が練習に参加していたときなんて、酷かった。彼の使っているグラブをリーダー格の男が触れる。この時点で、彼の手の平には「穢れ」がついていることになる。途端に鬼ごっこが始まる。こんなとき、奴らは本当に楽しそうだ。何というか、遺伝子レベルで楽しんでいる感じ。太古の昔から、ハンディキャップを背負った他者を見下していじめることに細胞ひとつひとつが快感を覚えるようインプットされた生き物にわたしは嫌悪と畏怖を抱いた。

奴らは女のわたしがいることもお構いなく、毎日のように女の話をした。それは「誰々はゴリラみたいな顔をしている」などといった幼い悪口から次第に、「誰々とならヤレる、誰々は無理」みたいなおぞましさを伴った品評に変わっていった。一体何様のつもりなのか、鏡で自分の顔をまじまじと見つめてほしい。勘違いしてほしくないが、わたしは奴らのことが嫌いだったわけではない。チームメイトとしては頼もしかったし、皆それぞれに優しい一面を持ち合わせていた。ただ、一度悪い面を知ってしまうと、そこにどうしても超えられない隔たりを感じるようになってしまう。そして、その思いは、年頃になってそんな奴らと付き合い始めた女たちへの嫌悪にもつながった。

男のことも女のことも嫌悪しているわたしの周りにそうそう人は寄り付かなかった。当然のことだ。でも、いくつかの忘れられない出会いがある。(続く)

新生活(fiction)

引っ越したばかりだと、街に冷たくされている気がする。当たり前のことだけど、誰もわたしに目もくれない。普段は人とのつながりを煩わしく感じたりしているのに、いざひとりぼっちになると急に寂しさを覚えたりする。

 

就職したばかりで、仕事にも全く慣れていない。今週は失敗だらけだった。良い職場だから叱られるなんてことはないけれど、自分の不甲斐なさはどうやってもぬぐいきれない。せっかくの休日も家でふさぎ込んでしまう。

 

こんなことではだめだ、外に出てリフレッシュしようと思ったときには、もう午後4時を過ぎていた。学生のとき趣味が高じて買った一眼レフのカメラを首から下げて、部屋を出た。

 

薄暮の街を歩くと、色んな発見があって楽しい。でもなぜか写真を撮る気にならない。いつの間に明日からまた始まる仕事のことを考えてしまっている。ああ、行きたくないなあ。

 

そのカフェに入ろうと思ったのに、深い理由はなかった。歩き疲れたから、少し一休みしたかった。

 

扉を開けると、店員さんがにっこりと微笑んで「こんにちは」と言った。いつも流れ作業のような「いらっしゃいませ」を言われ慣れているわたしは、少しびっくりしてしまって、思わず、「あ、こんにちは」とぎこちない返事をしてしまう。

 

「素敵なカメラですね」と店員さん。

 

「あ、ありがとうございます。初めて住む街なので、色々撮ってみたくて」

 

「あら、引越して来たばかりなんですね。どうですか、ここでの暮らしは?」

 

「まだ慣れないことが多いですね…。就職したばかりというのもありますし…」

 

「仕事を始めたばかりだと覚えることがたくさんあって大変ですよね」

 

「本当にそうなんですよ。失敗ばかりしてます…」

 

話しながらはっとしていた。店員さんとこんな風にたわいもない話をしたのは初めてだったから。「いらっしゃいませ」と言われていたら、初対面の人に自分の実情を打ち明けたりしていなかっただろう。こんにちは。魔法の言葉はこんなにも身近にあったのだ。

 

「おすすめのコーヒーはありますか」と尋ねたわたしに、店員さんは色んな国のコーヒーの説明を丁寧にしてくれる。好きなものを語る人の顔はいつだって輝いている。

 

色とりどりのマフィンにも目を奪われる。この店の名物らしい。抹茶のマフィンにしよう。

 

窓際のカウンターに腰掛けてコーヒーとマフィンが運ばれてくるのを待つ。外を眺めると、夕暮れに照らされた道を多くの人が忙しなく通り過ぎてゆく。ガラス一枚隔てただけなのに、ここでは別世界のようにゆっくりと時間が流れている。

 

マフィンはとってもおしゃれなお皿にのせられていた。生クリームが添えられているのもいい。マフィンにカメラを向ける。シャッターを押したら、わたしのうきうきした気持ちごと切り取れた。久しぶりにSNSにアップしようかな。

 

コーヒーも口する前からわたしを楽しませてくれる。こんなにいい香りがするコーヒーは初めてだ。飲むと芳醇な風味が口いっぱいに広がるとともに、じんわりと身体が温かくなった。「ほっと一息」というのは、今この瞬間のためにある言葉だと思った。

 

店を出るとき、「またお待ちしてます」と言われた。根拠はないけれど、きっと社交辞令ではないだろう。「はい、また来ます」と答える。こちらは決して社交辞令ではない。ドアを開けると、夜風が店に吹き込んできた。外はまだ少し肌寒い。

 

振り返って店名を確認した。イタリア語で「光」を意味するその店は、夜の街の中で控えめな灯をともしている。

 

少しだけこの街が好きになった。

不謹慎を語るー震災を振り返りつつー

東日本大震災から10年が経った。あの日の僕はまだ高校生で、定期テストの最終日のために自習室で勉強していた。休憩がてら教室に向かうと、「東北ででっかい地震があったらしいで」と級友が教えてくれたので、自習室に戻って、携帯電話のワンセグ(響きすら懐かしいな)のスイッチを入れた。

 

なんかよくわからない光景が目に飛び込んできた。人力ではびくともしない車や船やコンテナが波にのまれ、流されている。海水が流れ込むはずのない市街地に海水が流れ込み、渦を巻いている。大変なことになったなと思いながら僕は、携帯電話をポケットにしまい、テスト勉強を再開した。明日は数学のテストだ。

 

翌日の教室の雰囲気は今でもよく覚えている。誰もが地震について話そうとしなかった。全貌が全く把握できていない事態に対して、僕らはひどく混乱していたからだ。高校生らしい理由もあった。なんというか、大ニュースになっている震災を話題に挙げるのがひどくベタでダサいことー高校生というのはベタでダサい奴に生きる資格を認めないーのように思われたのだ。実際、話が途切れたときに、「いやー、東北やばいね」などと言ったクラスメイトは、僕を含めたその場にいる全員から冷ややかな視線を浴びせられ、押し黙る格好となった。今になるとひどいことをしたものだ。

 

担任のM先生は教員という立場上、震災に触れないわけにはいかなかった。神妙な面持ちで、「とりあえず今できることをやろう。まず今日のテストをしっかりやれ」などと返す返すも訳のわからぬことを言われ、僕は阿呆のように口をぽかんとあけていた。普通に考えてテストどころじゃなくね?まあ、俺が住んどったところは全く揺れんかったけどさ。

 

家庭もなかなかしんどい状況にあった。母方の祖父がその年の1月末に亡くなったばかりだったのだ。母も祖母も失意の底にあった。祖父の容態が悪化し、暗い未来が見えてくるようになると、母の精神は若干の不調をきたし始めた。別に本格的に病んだわけではないし、あれくらい無理からぬことだったと思うが、ニュース番組で当時話題になり始めていた終活が特集されると、神経質そうにチャンネルを回し、祖父が新たな病気を併発したという連絡を受けると父に泣きすがる母の姿は、僕までも暗鬱にさせた。

祖母の落ち込みようも、筆舌にするのが難しい。祖父の通夜や葬儀が終わり、一応の一段落がつき、高知から僕の家を訪れたとき、彼女は、出迎えた父と母、そして僕をみておんおんと泣き崩れた。伴侶を失った悲しみや、数週間ぶりに僕らに会えた安堵が一気に溢れ出たのだろう。

 

そんな最中に起こった大震災だった。

 

当時、僕は定期テストがあったから実家にいたが、父と母は祖父の四十九日の法要のために高知に向かっており、大学生の兄は関西に滞在していた。テレビ画面の右下にはでかでかと日本地図が写っており、津波の危険がある海岸線は赤色で縁取られている。高知もまた赤色の地域だった。

「大丈夫?」

港町に居を構えていた祖母たちが心配になって電話をかけた。

「今のところは大丈夫そう」

そう答える電話越しの声には、確かに不安な色が滲んでいた。僕も父と母が帰ってくるまでの数日間、不安な日々を過ごした。無事帰ってきたとき、母は僕を見るなり、ため息まじりに「日本が大変なことになってしまったねぇ」と言った。それは、人並みにベタを嫌う高校生の僕が、数日間何度も言おうとしては呑み込んできた言葉だった。

 

あれからもう10年が経った。10年の間に僕は高校、大学を卒業し、就職までした。色々と大変なことはあったし、後悔することもある。でもどうにか今日までやってきた。祖父を失った悲しみも、その大部分を時間が癒してくれた感がある。あの頃漠然と抱いていた輝かしい未来には全く辿り着いていないけれど、振り返るとその時々を必死で生きてきたのだから、現状をそこまで否定しなくてもいいじゃないか。最近はそんなふうに考えられるようにもなっている。

 

今回震災について書こうと思い立ったのは、千原ジュニアYouTubeチャンネルを見たことがきっかけだ。彼がドライブをしながらトークをする動画の中で、震災について語る一幕があって、それを見ていると自分の記憶も掘り起こされたのだ。ジュニアは以前NHKの番組に出演した際、東日本大震災のすべらない話的な裏話を被災者から聞く機会があったらしく、そのことについて語っていた。

ジュニアによると、震災の翌日の3月12日や13日の被災地の食卓は、ウニやらイクラやらアワビが並ぶたいそう豪勢なものだったらしい。理由は単純で、電気が切れて冷凍庫が使いものにならなくなったために、かねてより冷凍保存していたそれらの高級食材を食べるほかなかったからだ。ところが、東京から取材に来ているマスコミからすると、被災者が海の幸を堪能している様はどうもしっくりこないものだったらしく、わざわざ被災者にカップラーメンを差し出して、その様子をカメラに収めたりしていた。

別の被災者は「地球が割れた」と思ったという。彼は「今すぐ逃げなきゃ」と思いつつも、もう一つの全く別の感情も抱いていた。「この惨状を見ていたい」。命からがら津波から逃げおおせたとき、踵は海水で濡れていた。本当にあと一歩遅ければ、波に飲み込まれていたのだ。

こういった興味深い話が「人志松本のすべらない話」でMVSにも輝いたことのあるジュニアの口から語られるものだから、僕は惹き込まれる。被災者に憑依したかのようなジュニアの話は続く。

「ジュニアさん、呼んでもないタクシーがね、玄関に入って行くんですよ。そんでね、誰も乗せんとそのまま家から出て行ったんですよ」

これも津波の壮絶さを示す体験談だが、巧みな話術も相俟って、思わず声を出して笑ってしまった。不謹慎だ。津波で流されていたタクシーの車内には誰かが乗っていたかもしれないのだ。でも、面白いと感じてしまったのだから、仕方がない。

 

僕たちが普段するバカ話のなかには、ブラックジョークとも呼べる成分が多分に含まれている。言われている当人が聞いたらひどく落ち込んでしまうような陰口で、僕らは大盛り上がりするし、事件や事故の被害者が聞いたら怒り出す不謹慎な話を持ちネタとして使い回す。そんなことはない、私は人を傷つける話題で笑ったこともなければ、不謹慎なネタを面白おかしく話したこともないなどとのたまう人は、もしいたとしても、極めて少数だろう。もし「僕たち」という代名詞を使われるのがいやなら、喜んで訂正しよう。僕は陰口や不謹慎な話が大好きだ。

 

過日、バイクのタイヤを何者かにパンクさせられた同僚と、冗談めかしてこんな会話をした。

僕「いやー、ちょっと魔がさしてしまってね、申し訳ないっす」

同僚「ほんまですよ、どうしてくれるんですか。弁償してくださいよ」

僕「弁償っていくらぐらいかかりますかね?」

同僚「まあだいたい五万から十万ぐらいですね」

僕「そんな大金ねえっすよ。払えないです」

同僚「でも払ってもらわな困りますよ」

僕「金ないんで、ドングリとかで払っちゃ駄目ですかね?」

同僚「駄目ですよ!支払いはジャパニーズエンでお願いします」

僕「だからそのジャパニーズエンがないんですって」

同僚「それならUSドルでもいいですよ。ウォンでもいいし。なんならカンボジアのルピーでもいい」

僕「ルピー?どんぐりと同じようなもんじゃないですか」

同僚、僕「ハハハ」

これも人によっては不快感を抱く会話だろう。僕自身も差別的な言辞だとわかっているが、どうしても聞き手を笑わせたい思いが勝ってしまう。僕と話している相手が笑うとき、たいてい、僕はそこにいない他人をクサしたり、不謹慎なことだったり差別的なことを口にしている。それ以外で聞き手を笑わせるとなると、自虐ぐらいしか道が残されていない。本当にどうしようもない人間だ。育ちが悪く、里が知れる。

 

もちろん、僕とて年がら年中不謹慎なネタでゲラゲラ笑っているわけではない。世間でそう呼ばれるところの「人の心」だって、ちゃんと持ち合わせている。

 

大学卒業間近に興味本位で履修した科学史の講義の最終日、講師は受講者一人一人に講義全体の感想を求めた。講義では原爆や原子力発電について多くの時間が割かれたこともあり、各々が国のエネルギー政策や核廃絶について思うところを述べていった。

そんな中、順番が回ってきたとある学生は、福島で生まれ育った自身の境遇をぽつりぽつりと話し始めた。彼女は震災後、一時的に避難所生活を余儀なくされたが、その後はもとの生活に戻れたらしい。とは言え、知り合いの中にはいまだに苦しい思いをしている人がたくさんいた。

「私は運がよかったから震災前の生活ができているけど、まだまだそうじゃない人がたくさんいて…」

涙しながら話す姿に思わず感極まってしまった。でも、無関係な僕が嗚咽を上げるわけにもいかず、気を紛らわせるための苦肉の策として、鞄に入れておいた文庫本を講師の目の前の席で読み始めた。講師からすると、人が泣きながら話しているときに文庫本のページを繰る僕の姿は不謹慎極まりなく写ったに違いない。でも真実は違う。僕だって本当は泣きたかったのだ。

 

おそらく誰しもに不謹慎なことでくすりとほくそ笑む一面もあれば、辛い思いをしている人に対して寄り添う一面がある。少々大きな言い方をさせてもらうと、それが人間というものなのだ。

僕はこれからも不謹慎極まりない発言をし続けるだろう。眉をひそめる人もいるかもしれないが、別にいい。今はとりあえず、好きなことを好きなように言える日常の尊さを言祝ぎたい。

 

後記

昔のことをつらつらと思い出しながら、書いていたのだが、酒が入っていたせいもあり、不覚にも何箇所かで泣きそうになってしまった。そもそも僕が泣きそうになること自体が世界にとってはどうでもいいことである以上、どの部分に涙腺を刺激されたのかなど、尚更どうでもいいことだから、これ以上の言及は避ける。年を重ねると涙もろくなるというのは、どうやら本当らしい。いつの間にか10年前が高校生であるような年代になってしまった。僕に「まだまだ若い、先は長い」と言う人は少なからずいるだろうが、僕自身は日々津波のように押し寄せる年波を感じ、高台への避難を続けている(←不謹慎だ)。いかにして避難しているかについてはまた稿を改めて論じよう。