玉稿激論集

玉稿をやっています。

Money(fiction)

「ええんやな、ほんまに」
「今ならまだ後戻りできるんやで」
断るなんて微塵も思ってもいないくせに、いちいち念を押してくる山崎に隆義は苛立ちを覚える。しかし、顔には出さない。黙って頷き、拳銃の動作の最終確認を続ける。
 シノギの関係で以前大阪に暮らしていた山崎は奇妙なイントネーションの関西弁を話し、組の連中から屢々からかわれているが、治る気配はない。
「ほんま、全国どこ行っても関西人が幅を利かせとって、嫌んなるわ、ほんま」
以前山崎は嘆いていたが、これでは真実の一面しか語ったことにならない。確かに関西出身者は郷に入っても郷に従わないで、所構わず関西弁で話しているし、生来の「いちびり」ぶりを遺憾なく発揮して各地でそれなりの地位についているように見受けられるが、実はこの国で耳にする関西弁の半分は山崎のような非関西出身者によるものであり、しかも彼のような所謂エセ関西人が全国で跋扈している実態はあまり知られていない。彼らは近畿地方に住んでいる間に培った稚拙な関西弁をネイティブ関西人同様に所構わず喋って回り、各地で関西人の評判を下げるのに余念がない。しかし、彼らだってそうしたくてしているわけではない。
 一度行ってみればわかるが、部外者からすれば驚くほど、関西では皆が、まさに老若男女が関西弁を話している。もし疑っているのなら、市営のバスにでも乗ってみればいい。「今朝な、オカンがな…」と話す小学生から、友人の話に「せやねん!」と相槌を打つ主婦、先輩に対して敬語のつもりなのか「〜してはります?」などと尋ねる若いサラリーマンまで、四方八方から関西弁が聞こえてくる。田舎から出てきて、かような環境に何年か身を置くと程度の差こそあれ、関西弁に「染まって」しまうのは無理からぬことだろう。だから、「やっとらん」と言っていたのを「してへん」と言うようになったり、「来ない」と言っていたのを「けえへん」と言うようになったり、不条理な事態に「なんでやねん!」と対応したりするようになるのを、本当は誰も責められないはずなのだが、エセ関西人に対する世間の風当たりは屢々冷たい。ネイティブからは「イントネーションがおかしい」と詰られ、地元に帰れば「関西に染まった」などと揶揄される。自ら住み着いたわけでもない者からすれば、「こっちだって好き好んでそうなったわけちゃうねん!」とでも言い返したいところではあるものの、そのツッコミまでもが既にして関西弁になっているのを言っている当人は気付いていない。
 山崎もそんな典型的なエセ関西人の一人ではあるが、まあ、それはさておき。
 
 結局この世界に戻って来てしまった。隆義は心中で嘆息する。
 ヤクザとして組のトップに昇り詰める才覚がないのはわかっている。そもそもヤクザであろうとカタギであろうと、トップが備えておくべき資質に大差はないはずだ。政治力に財力。そしてときには憎い相手だろうと頭を下げるスマートネス。仲間さえも犠牲にする冷酷さ。それら全てが自分には欠けている。だからこそ、裏社会でも、カタギの世界でも半端者にしかなれなかった。
 154,586円。ハローワークで紹介された警備員のアルバイトの月給は妻と幼い息子を食わせていくにはあまりにも少ない。ヤクザをしていたときの方がはるかに羽振りはよかった。確かに手にしていたのは汚れた金だったかもしれない。行きつけの居酒屋からみかじめ料として徴収した五万円や、土建屋の社長から不倫の口止め料として巻き上げた数十万円よりかは、現時の地道な労働によって得た金の方が尊いというのは、確かに事実だろう。でも、当たり前のことだが、どんなに汚れていようが金は金なのだ。それだけあれば美味いものを食えたし、今よりも断然マシな部屋に住むことだってできた。
「誠意いうんなら、こんなシケた金出すのをやめんかい!」
相手を恐喝するときの決まり文句を隆義は今の自分に投げかける。誠意や気持ちなんていう抽象的極まりないものを金は目に見える形で具現化してくれる。金額と思いやりは正比例するのだとしたら、おれはー。
 特売品の野菜しか買わなかったのは、隆義なりに家計を思っての行動ではあった。それでも、タイムセールに群がる主婦を掻き分けて目当ての品を袋に詰める自分の姿を俯瞰で眺めたときに、「おれがいるべきなのはやはりここじゃない」と強く思った。ではどこに行くのかと問われても、答えは出ない。しかし、腐ったエノキを手に涙を流す由美を見て、決心がついた。とにかくあいつの前に叩きつける大金を手にするまでは帰れない。
「とにかく金がいるんです」
恥を忍んで戻った組事務所でそう告げると、今や若頭になった山崎は何も言わず一枚の写真と拳銃を差し出してきた。隆義はいつの間にかそれが癖になった嘆息を小さく洩らす。
「三百万でどうや?」
 
 拳銃を向ける隆義に対して、相手は心からの命乞いをしてきた。
「頼む、殺さんとってくれ!!」
銃器は決定的な殺傷能力を備えているゆえに、それを持つ者と持たざる者の間に明確な力関係を生み出す。どんな屈強な男であっても銃を構えた女子供の前では無力であるし、街を支配している権力者さえも、銃口を向けられると、隆義のような三下のヤクザの前に平伏すこととなる。
生への渇望を訴えたその目を隆義は直視できない。目を閉じたまま、引き金を引く。呻き声が聞こえるのは、まだ生きているからだ。何も考えずにもう一度引き金を引く。「二回撃つことでとどめを刺す確率は格段に上がる」という教えをただ忠実に守った。
 疲労感と虚脱感が一気に押し寄せる。罪悪感は時を置いてやってくるのだろう。しかし、何はともあれ、やりおおせた。これで由美と息子の亮太を当面食わせていけるだけの金が手に入る。
 自分も数分後に銃弾に撃ち抜かれることなど露知らず、隆義は雑居ビルの階段を足早に駆け降りる。

神の復活

 大谷翔平がようやく今シーズン十勝目を上げた。ここ数試合はなかなか打線の援護に恵まれず、いいピッチングをしても勝ち星が付かないことが続いていたから、もしかしたらこのままシーズンが終わってしまうかもしれないなどと心配していたが、杞憂に終わってホッとしている。
 これで投手として十勝、打者として二十五本塁打。米大リーグにおいて、同一のシーズンで二桁勝利と二桁本塁打を記録したのは、あの「野球の神様」ベーブ・ルース以来百四年ぶり二人目の快挙である。
 改めてとんでもないことだと思う。
 世界最高峰のリーグでバッティングもピッチングもトップレベルに君臨している。野球選手の中には少年時代「エースで四番」だった者が少なからずいると聞くが、それをプロの世界でやってのけている。まるで漫画の世界だ。いや、こんな漫画があったとしたら、「そんな奴おるかい」と一笑に付されるはずだ。『スラムダンク 』の彦一風に言うならば、まさにアンビリーバブルなのだ。十年前にタイムスリップしたとして、「メジャーリーグ松井秀喜のホームラン数を抜く選手が出てくるよ」などと言っただけでも、相当驚かれるだろうが、さらに「その選手ってピッチャーなんだよね」と続けたとしたら、どうだろう。「お前は何を言っとるんや」と怪訝な表情を向けられること請け合いだ。
 しかし、ここまでの選手になるとは予想していなかった。というか、白状すると、高校生の大谷が日本プロ野球界からの誘いを断って、そのままメジャーリーグ に行こうとしたとき、僕は大いに眉を顰めたものだった。「県予選で負けて夏の甲子園にも出られない選手が何を」と。「起きとるのに寝言いっとるやんけ」と。当時同じような感情を抱いた人は少なくなかったはずだ。お前なんぼのもんじゃいと。
 結局高校卒業後の渡米は断念し、北海道日本ハムファイターズで投打の素地を磨いたことが今日の二刀流の活躍に繋がっていると思うと、当時の監督・栗山英樹の慧眼には今更ながら恐れ入る。しかし、プロの世界で打つのも投げるのもやることに対しては当時、僕など言うに及ばず、多くの解説者、プロ野球OB、現役選手から否定的な声が上がった。その度に大谷は結果で、数字で、我々を黙らせてきた。
 その大谷がついに、憧れのメジャーリーグ の舞台で、二刀流プレイヤーとして大きなマイルストーンを打ち立てた。珍しくテレビをつけてその日のスポーツニュースを眺めていると、柄にもなくこみ上げてくるものがあった。
 勝手に想像してしまったのだ。
 ここまで辿り着くのに一体どれほどの努力をしてきたのだろう。どれだけ悔しい思いをしてきたのだろう。そして、己の挑戦に対してどれだけ多くの否定的な言葉を投げかけられてきたのだろう。それでもただ自分だけを信じて、地道に、真っ当に、進んできた。そして誰もが踏み入れたことない領域に足を踏み入れ、そこからの景色の一端を我々にも見せてくれた。その孤独で長い道のりを勝手に想像したときに、柄にもなくこみ上げてくるものがあったというわけだ。
 あるいは大谷自身は此度の記録達成を我々部外者ほど狂喜していないのかもしれない。試合後の記者会見で語った「単純に今まで両方やっている人がいなかっただけ」というのが案外彼の虚心な思いなのかもしれない。
 しかし、本人の思いはどうであれ、岩手の一野球少年だった男が神様に並ぶ記録を達成した。
 改めて、本当に改めて、脱帽する。
 ニューヨークのメディアがいみじくも書いたように、ここは大谷翔平の世界だ。そこの住人である僥倖を今はただ噛み締めたい。

シリーズ・労働を語る3ーコントローラー室へ向けてー

「顔採用部署じゃないですか!栄転ですね、おめでとうございます!」
ー総務課へ異動になった先輩へ向けた一言

「現場」とか「社会人」といった語が嫌いだった。現場でない場所などないし、我々はこの世に生を受けた瞬間からもう、社会の一員たらざるを得ないと考えていた当時の僕からすると、賢しらにそういった語を使い回す意味がわからなかったのだ。いやはや、無知というのは恐ろしい。世間には「現場」じゃない場というのが確と存在し、また、いい歳こいて「社会人」になりきれていない連中というのが一定数いるなどという当然至極のことを知らなくても許されるのが、若者の特権の一つと言っても過言ではないだろう。
「事件は会議室で起きているんじゃない!現場で起こっているんだ!」とは、大人気刑事ドラマの劇場版で主人公が放つ台詞として有名であるが、正鵠を射ている。「現場」とは仕事の最前線である。血が流れる場所、悪質なクレーマーががなり立てる場所、無理が通り道理が引っ込む場所である。対して、「会議室」とは大本営である。そこでは現場に立ったことのない者や、現場を離れて長の年月を経た者、まあ、有り体に言えばすかたん野郎共が現場を方向付ける決定を下す。「会議室」という表現では全てを表現しきれないから、ここではモニター室、いや、コントローラー室とでも呼ぶことにしよう。
 既にお気づきの向きもあると思われるが、僕はコントローラー室の連中に対して、コンプレックスな感情を抱いている。嫌悪と憧憬かない混ぜになった感情とでもいおうか。まあ、前者の方が含有量は多めだ。だって、奴らときたら、現場の大変さを知りもしないくせに日夜訳のわからぬ決定を下し、我々の業務をより煩瑣にするのに余念がないのだから。
 思えばアルバイト時代を含め、コントローラー室側の人間になったことが一度もない。いつも現場でせこせこ働き、たまさかに出される馬鹿げた大本営発表に嘆息し、監視カメラに向かって中指を突き立てている気がする。
 監視。それこそはコントローラー室の一大任務である。奴らは我々のことをハナから信用しておらず、目を離せばすぐに自分たちの作ったつまらぬルールを破るものだと決めつけている。
 以前、さる民間企業に就職した知人の社用車に私用で乗せてもらったとき(←おそらくあんまりよろしくないことなのだろう)、タコメーターを見ておくように頼まれた。知人曰く、それが高速であっても時速100キロ以上で走行していたら、奴らに咎められるとのことだった。車は高速道路をのろのろと進んだ。事ほど左様に、我々はいつも管理下・監視下にあるというわけだ。
 と、つらつらと愚痴を述べ立ててきたが、奴らにも奴らなりの大変さがあるということはわかっている。現場の実態など知りようがないなかで、「現場のことが何もわかってない」などと非難されるのは堪えるものがあるだろう。そんなことを言われても知らないものは知らないのだと開き直りたくもなるだろう。
 もう一つ、目を背けてはならないことがある。それは「あいつら現場のことなんて、何にもわかっちゃいない」と愚痴をこぼすとき、我々現場の人間はえもいわれぬ快楽を覚えているということだ。実際のところ、我々はコントローラー室の連中に現場の意思を汲み取ってほしいなどとは思っていないのだ。むしろ、いつまで経っても現場のことなど何も理解せずに馬鹿げた方針を発表し続けてほしいと思っている。連中が現場の声を丁寧に汲み取り始めたが最後、我々はもうあの快楽を味わうことができなくなるのだから。

アウトロー(fiction)

「ボケ、どこ投げとんじゃ、ワレ!!」
「ピッチャーの原点は外角低めやろがい!!」
「ファーム行って出直して来い!このたわけ!!」
隆義がプロ野球中継を見ながらテレビに毒づくのは今に始まったことではないが、足を洗って以来、さらにその傾向が強まっているように由美は感じて、溜息をこぼす。
 まともな就職先が見つからず、当面は日雇い労働で得た賃金で由美と息子の亮太を養っていかなければならないのは、ひとえに隆義の小指の第一関節より先がないからだろう。ご承知のとおり、世間はヤクザを街から追い出そうとする一方で、その世界から足を洗った者に対してはめっぽう冷たい。長じた大人が完全に改心することなどほぼ不可能なのだから、隆義が元ヤクザという理由で偏見に晒さられるのはある程度仕方のないことなのかもしれない。だったら、自分の経歴を知られていない土地へ引っ越して一からやり直す手もあるように思えるが、ヤクザだったことを隠すのは隆義にとっても容易くはなかった。ご多分に漏れず、全身に墨が入っているからである。
「何でよりによって鯉なの?こういうのって普通、龍とか虎を彫るんじゃないの?」
初めて隆義の背中の刺青を見たとき、由美は思わず尋ねた。
「名前も口にしたくない敵チームの象徴を己の背中に彫るボケがどこの世界におるんや」
鯉には背中からはみ出んばかりの力強さが感じられた。
 この鯉のように、自分も極道の世界の頂点まで昇り詰めるのだと決意していた時期もあるにはあったものの、事がそう上手くは運んでくれなかったからこその隆義の現状なのだが、由美からすれば今の方がまだマシだ。鉄砲玉として危険な仕事ばかりさせられ、いつ死ぬかもわからない夫の帰りを息子と二人きりで待つ日々にはなかなか堪えるものがあったからだ。自分が極道の妻がつとまるようなタマじゃないことには、早々に気づいていた。夫の稼ぎはヤクザ時代に比べて確かに減ったが、それでもいい。確かに今はしんどいけれど、ちゃんと真面目に暮らしていたらいつの日か認められて、隆義だって正規の職に就けるはずなのだから。
 とはいえやはり貧乏には辛いものがある。ささやかな幸せを感じるのは金持ちの特権であり、貧乏人にはそんな余裕はない。毎日腹を満たすので、亮太を育てるので手一杯だ。隆義の稼ぎが少ないのを彼の前で嘆いたことは一度もないが、この前つい
「最近は野菜も値上がりしてるしね」
とこぼすと、今まで見たことのない程の剣幕で激昂された。由美にはそんなつもりはなかったのだが、隆義からすると己の不甲斐なさを詰られているように感じたのだろう。

「ねえ、ちょっと買い物行ってきてくれない?その間に夕飯の準備しておくからさ」
日曜日の夕方、絨毯に寝そべってゴルフ中継を眺めている隆義に由美は言う。実家がふるさと納税でもらった高級な牛肉が今朝届いた。今晩はすき焼きだ。
「はいよ」
隆義はのっそりと起き上がり、財布とヘルメットだけ持ってそそくさと出発する。近所のスーパーはスクーターを飛ばせば5分とかからないところにある。
 本当に久しぶりの贅沢だ。木箱に収められた薄切りの肉を見ながら、由美の表情は自然と綻ぶ。サシもいい感じで入っている。これをすき焼きにして、溶き卵で食べたらどんなにか美味しいだろう。割り下がたっぷり沁み込んだ春菊やらエノキも美味しいに違いない。締めはお鍋にご飯を入れておじやにしようかな。由美は夫の帰りが待ち遠しい。
 不穏な雰囲気を感じたのは、隆義から渡された買い物袋から野菜を取り出したときだった。全ての野菜に割引のシールが貼ってある。
「あなた、これ、安いやつしか残っていなかったの?」
「いや、普通の値段のやつもあったで。でもどうせ今日食べるんじゃけ、安いやつでも変わらんと思って」
「あのね、今日はお母さんがせっかくいいお肉送ってくれたんだからさ、そこはけちけちしなくてもよかったんじゃないの。お肉だけ高級で、野菜は割引の安いやつだなんて、ちょっとアレじゃない」
「ああ、そう」
ゴルフ中継を眺める隆義は殆ど上の空だ。由美は野菜を切り続ける。どれも色が悪い。先程までの華やいだ気分に翳がさすのを感じる。
 決定打となったのはエノキだった。50円引きのシールが貼られたそれは、ビニール袋の中が結露しており、黄ばんだ水滴が内側にこびり付いている。開封する前から予想はついていたが、匂いを嗅いで確信した。明らかに腐っている。
 気づいたら涙がこぼれていた。何が悲しいのかは正確にはわからない。でも、どうしようもなく悲しかったのだ。自分たちのみすぼらしい生活の全てがこの特売品のエノキに象徴されているような気がしてならなかった。隆義としては少しでも安いものを買おうとしてくれたのだろうが、その結果がこれだ。買い直さないといけないから、余計高くつく。そのヘマな巡り合わせを思うと、自然と怒りはこんなものを買ってきた隆義に向いた。だから、
「おい、何で泣いとるんや?」
と、訝しげに聞いてきた彼に対して、由美は思わずカッとなる。
「エノキが腐ってんのよ!あなた何でこんな安いやつ買ってきたのよ!」
「じゃけえ、どうせ今日食うんだったら変わらんと思ったってさっき言っただろうが」
「エノキなんて普通に買っても一袋90円ぐらいでしょ!それが50円引きって半額以下になってるのよ。いくら何でも安過ぎるでしょう!」
「お前がいつも口うるさく節約節約言っとるから、こっちは特売のやつ買ったのに、何でここまで言われんといけんのんや!」
「安いたって限度ってものがあるじゃないの!大体これでまた買い直さないといけないから、余計高くつくじゃないの!こんなことしてたら私たち一生貧乏のままだよ!とりあえず早く新しいの買ってきなさいよ!」
「うるせえ、馬鹿野郎!」
ドタドタと隆義は部屋を出てゆく。感情の高ぶった由美の嗚咽がアパートの狭い一室に響き渡る。何が起こったのかわからない亮太はポカンとしている。

 いつまで経っても帰ってこない隆義がヤクザの抗争に巻き込まれて死んだのはそれから三か月後だった。
 知らせを聞いた由美は勿論悲しんだが、然程驚きはしなかった。家に帰ってこない以上、隆義がヤクザの世界に戻っていることはある程度予想していたからだ。
 由美は特に自分を責めてもいない。確かに直接のきっかけとなったのは、特売品のエノキをめぐる口喧嘩だったのかもしれないが、隆義が闇の世界に戻るのは時間の問題だったはずだ。本当にカタギとしてやり直すつもりなら、エノキを買い直してくればよかったのに、そうしなかった。そして、恥を忍んで戻ったヤクザの世界でいいように使われて犬死にした。つくづく不器用な男だと思う。でも、優しい男でもあった。
「ピッチャーの原点は外角低めやろがい!!」
生前の彼がコントロールの定まらないカープの投手に対してよく毒づいていたのを由美は最近よく思い出す。ピッチャーの原点が外角低めであるのと同じように、隆義の原点はアウトローの世界だった。彼はそこでしか生きられないし、そこでしか死ねない男だった。由美はそう思って全てを納得しようとしている。

Xデー(fiction)

 リョウヘイによると、2012年に地球が滅びるらしい。地球の裏側の文明が太古の昔に残した予言について話すおどろおどろしく彼の表情は、大いに芝居がかっている一方、心のどこかで漠とした不安を抱いているようにも見える。無理もない、まだ小学生なのだから。
 カイリはというと、Xデーの到来する西暦2012年に思いを馳せている。今が2005年だから、あと七年、七年もある。なんだまだまだ生きられるじゃんと思う。リョウヘイのように悲観する気持ちにはならない。
 十二歳の少年にとって、七年先というのは遥か彼方の未来である。まだ小学校にも入っていなかった七年前が遠い昔なのと同じだ。カイリは自分が十九歳になる想像がつかない。大げさに言うと、その日まで生きながらえる想像が全くもってつかない。大人は口を揃えて「一年があっという間だ」と言うけれど、カイリにしてみれば、一年は言うに及ばず、一か月だって、一週間だって、何となれば一日だって、とてつもなく長い。
 実のところ、我々大人が一年なり一日なりをあっという間に感じてしまうのは、変わり映えのしない単調な毎日を送っているからだったり、少年時代のように世界を新鮮な驚きをもって見つめることができなくなるからだったり、単純に十歳のときの一年間が人生の十分の一を占めている一方で、四十歳のときのそれは人生の四十分の一しか占めていないからだったりするわけで、特に我々と変わるところのないカイリも遅かれ早かれこの真実に気づくものと思われる。でも、彼はまだ気づいていないし、気づく必要もない。
「地球が滅びるって、隕石が衝突したりするわけ?」
「確かめちゃくちゃ寒くなるはず」
「少しは涼しくなってほしいから、ちょうどよかった」
冗談を飛ばしながら、カイリは汗を拭う。もう九月になるというのに、ひどく暑い。ランドセルの肩の部分が汗でぐっしょり濡れているのがわかる。
「2012年っていったら、俺たち十九歳だぜ」
「高校卒業して、俺は働いているだろうなあ。父さんの店で板前だ」
リョウヘイの家は小料理屋を営んでいて、カイリも家族で一度行ったことがある。小学生ながらそこの仕事の手伝いをしており、将来は料理人を目指しているリョウヘイがかしこまった感じで注文を聞きにきたときは、妙に照れ臭かった。
 ちなみにこの小料理屋も数年の後には経営が傾き閉店を余儀なくされ、時を同じくして中学生になっていたリョウヘイもこの街を離れることになるのだが、そんなことを現時小学生の彼が知る必要はどこにもない。
「というかさ、十九歳までさ、俺たち生きていられるかな?」
カイリは漠然と感じていた疑念を口にしてみる。
「え、どういうこと?」
「どういうことってそのままの意味だけど」
「カイリ、お前どっか身体悪いのか?」
「そういうわけじゃないけど」
カイリはもどかしさを感じる。リョウヘイに対してではない。ぼんやりと考えていることをちゃんと言葉にできない自分に対してだ。
 帰り道の途中にあるリョウヘイの家の前まで辿り着くと、彼は扉からランドセルだけを投げ込んですぐに戻ってくる。今日はこれから二人でナオキの部屋へゲームをしに行くのだ。両親が共働きのカイリは一度家に帰る必要がないから、そのまま向かう。

「そういえばさ、なんでナオキが骨折したか知ってる?」
リョウヘイが尋ねてくる。確かに月曜日、久しぶりに登校したナオキは、左腕にギプスを嵌めていた。クラスの皆が口々にその理由を聞いても、ひょうきん者のナオキはその度にふざけた回答を連発して周囲に爆笑の渦を巻き起こすだけで、真相を語っていないようにも見えたが、カイリはさして気にも留めていなかった。
「あれ実はお父さんに折られたらしいよ」
「えっ」
「俺も父さんと母さんが話してるのを盗み聞きしただけなんだけどさ、先週の土曜日かな、ナオキの家に警察が入って行ったのを見ていた人がいるらしくて」
ナオキの家がいわゆる「普通」の家庭ではないことはカイリにもなんとなくわかっていた。学校も休みがちのナオキは自分やリョウヘイなんかとは比べ物にならないくらい狭い部屋に家族四人で住んでいるし、働いてるのはお母さんだけで、部屋に遊びに行ったら大抵の場合、酒に酔ったお父さんがいた。
 ナオキと遊んだことを話したときの両親の反応も芳しいものではなかった。「あの子と遊んだらダメ」とまでは言われなかったが、ナオキと仲良くすることは息子の教育上よろしくないと父も母も思っているのは見え見えだった。
 それでもカイリがナオキと遊んでいたのは、何よりもナオキがいい奴だったからだ。大事にしていたドラゴン・クエストのバトル鉛筆を失くして泣いている彼を慰め、放課後も一緒になって学校中を探し回ってくれたのはナオキだけだったし、先生に叱られるような悪さを仲間内でしたときも率先して罪を被るのはいつもナオキだった。また、恵まれない家庭の子どもが醸し出すある種「危険な」雰囲気をナオキもまた纏っているのが、カイリにはどうにも羨ましかった。この年代の男子は、いや、男はいくつになっても、自分が持たないものを持つ男に憧れるのだ。
 そのナオキがどうやらお父さんに骨を折られたらしい。
「え、じゃあ、ナオキのお父さんは逮捕されたってこと?」
「どうなのかなあ、その辺はちょっとわからない」
「でもあいつのお父さんっていい人だったよなあ」
「そうそう。この前も皆でゲームやったばっかりだし」
カイリは子どもの骨を折る親がいる事実をうまく飲み込めない。彼は父からゲンコツを喰らわせられたことは何回かあるけれど、それ以上の暴力を受けたことはない。大体において、親とは、大人とは、子どもの骨を折るなどという悪いことはしないものだ、なぜなら彼らは親であり、大人であるのだから。そんな何の根拠もないトートロジーを彼は信じ切っている。

 アパートの部屋のピンポンを鳴らすと、「はーい」とナオキの声が聞こえたが、瞬間ガチャリと開いたドアの前に立っていたのは、ナオキのお父さんだった。黄ばんだタンクトップの下にステテコを履いた長身のその人は、カイリとリョウヘイを見下ろしてニッと笑う。発するにおいと鼻の頭の色から、酒を飲んでいることが伺い知れる。
「おう、お前ら久しぶりだな」
大して久しぶりでもないのにそう言うお父さんの後ろには笑顔のナオキが立っている。
「上がって、上がって」
「お前、なんで今日学校休んだんだよー」
「いやー、朝寝坊してさ、起きたら昼過ぎてたから、もう行っても意味ないかなあって思って」
わざとっぽく頭を掻きながら答えるナオキにカイリはランドセルから取り出した宿題のプリントを差し出す。いつものことだ。リョウヘイと三人でゲームボーイ・アドバンスのゲームに興じるのもいつものことだし、門限があるリョウヘイが先に帰り、両親が共働きのカイリはそのまま残って、ナオキと二人でゲームをするのもいつものことだし、ナオキの家の昨日の晩御飯の残りを少しつまむのもいつものことだ。お父さんもいつものとおり、気のいい酔っ払いだった。
 なんでこの人はナオキにこんな大怪我を負わせたのだろう。
 暗い夜道を帰りながらカイリは考えるが、わからない。なんだか、わからないままでもいいような気もしている。
 今日も長い一日だった。この調子だと、地球滅亡のXデーはそうそう来そうもないとカイリは思う。

 結局、七年後に地球が滅びたはずもなく、カイリも当初の自己の予想に反して何事もなく十九歳を迎える運びとなるのだが、そんなことをこの時の彼は知る由もない。また、大人も親も単に歳を食っているだけで、自分たち子どもと変わるところがないと身をもって知るXデーもこの時の彼からすると、まだまだ遠い未来である。

いずれ必ずや反故にされる誓約

 ご多分にもれず、会社のネットワーク・システムーなどというと、いかさもハイテクなイメージを持たれる向きもあるかもしれないが、僕の職場のそれはパスワードを打ち込んでエンターキーを勢いよく弾いてもなかなか起動しない。つまり「重たい」のだ。もう、曙ばりに。いや、神童に対して周囲の大人が寄せる期待ばりに。いや、メンヘラが恋人に向ける思いばりにーにログインして、メールチェックをするところからその日の仕事が始まるクチなのだが、これまたご多分にもれず、届いているメールの中で重要なものを見つけるのは至難の業で、大抵は「共有いたします」の一言が付されただけの転送メールだったり、謎に自分がCcに入れられている報告メールだったり、送っている側も意味もわからぬまま「参考までに」とのたまった上で容量だけを無駄に圧迫する巨大な添付ファイルがくっついている、ダレトク!?メールだったりの中に、時たま己のみを宛先にした仕事依頼メールやら提出物催促メールが、それこそ広大な砂漠に投げ捨てられた0.1キャラットのダイヤモンドのようにー無論輝きは放っていないもののー紛れ込んでいるのだから、たまったものではない。容量を一定以上オーバしてしまうと、メールの送受信ができなくなるから、定期的に不要なメールは削除する必要があるとはいえ、「こないだメールで送りましたよ」と先方に怪訝な表情をさせた経験も皆無ではないので、これは一定の慎重さを要する作業なのだが、瞬時に不要と判断できるメールも勿論多々ある。マウスを右クリックして、「削除」にカーソルを合わせて左クリック。「本当に消すよ。いいね?」とのポップアップが申し訳程度なのは、そいつのデフォルトが「はい」に設定されていることからも見てとれる。エンターキーを弾いて一丁上がりだ。
 訃報通知もそんなメールの一つとして位置付けられる。
 一体に、その業務形態上、全国展開せざるを得ない我が社ー本当はこんな言葉使いたくないけれどまあ、便宜的にねーはそれなりに多くの社員を抱えており、その御尊父・御母堂らが草葉の陰に隠れる度に、ソーム課から全職員へメールが送られてくるのだ。該メールの末尾には、「なお、御香料、御香典等は辞退するとのことです」的な文面が百パー(本当に100パーセント)の割合で添えられている。少なくとも週に一回は必ずと言っていいほど送られてくるから慣れっこになっている上に、同じ会社の御親族とはいえ、そもそもその人のことも知らないとなれば、いくら感受性が豊かな人であっても、これといった感情は湧いてこないだろう。
 だが、先日届いた訃報通知は少しばかり事情が違った。
 まず、逝去したのがさる社員の両親のどちらかではなく、奥さんであるという点からして、違っていた。さらに、その奥さんもうちの会社ー使いたくない語だけどまあ、便宜的にねーの社員だったとのこと。現役の社員となると、まだ若いうちにお亡くなりになったことが推察され、胸が痛んだ。末尾にはいつものように、香典・香料を辞退する旨が申し添えられている。僕はそのメールを削除しない。大体、通常の訃報通知だって、何も受信したそばから削除しているわけではなく、一定程度の間を置いてからそうしている。僕は血も涙もしっかりと髄まで通った人間なのだ。
【感謝】から始まる件名のメールが届いたのは翌日だった。自身ロクに感謝されるような仕事もせず、仮にしたとしても謝意を律儀にメールで寄越してくる殊勝な連中も周りには皆無と言っていい僕にそのメールを送ってきたのは、奥さんを亡くした該社員と同じ部署に所属している同僚と思われる人だった。宛先欄に目を通すと、「全国社員」となっている。
 氏から依頼されて、どうしても今日のうちに皆様に伝えておいてくれと言われて、メールをした次第である。氏が入社して以来一緒に仕事をしてきた社員を詳しくは知らないから、こうして全社員に向けてメールを送ることとなった無礼を許してほしい。
 かような前置きのあと、数行分のスペースを空けて、該社員からの伝言が記されていた。
「妻が亡くなってから、自分でも予想していなかったほどの多くの社員の方々から慰めの言葉や『お別れに行きたいけど行けない。申し訳ない』といった連絡があり、驚きとともに感謝の気持ちでいっぱいです。自分たちが愛されていたことに気づかされました。お互いの地元を遠く離れた地で働いていた私たち夫婦には友人・知人といったものがほとんどいませんでした。そんななかで、当社社員の皆様が私たちにとっての友人であり、仲間であり、家族であったのだと思います。本当にありがとうございました」
 僕は目をこすった。午後のちょうど眠たくなる時間帯だったからではない。
 以上は嘘偽りのない本当の話である。繰り返すが、これは本当にあった話である。
 つまり、何が言いたいのかというと、僕はこの世界で起きる悲しい出来事にいい加減うんざりしているということだ。いい加減辟易しているといってもいい。全く神も仏もあったものではない。もしそんな全知全能の連中がいるのなら、こんな悲しい出来事なんて起きるはずがないではないか。
「いや、それは拙速に過ぎる考えだよ。神というのは、ありうべき可能世界の集合から最もマシなものを選んで我々に提供してくれているわけであって」
と諭されたところで、到底納得できない。なんて言うと、いかさも僕が会ったこともないのに、奥さんを亡くした件の社員の方を思いやっているように見えるかもしれないが、それは半分しか当たっていない。悲しかったのは僕だ。己の痛みや悲しみに対して滅法敏感にできてる僕が悲しかったのだ。
 湿度の高い言い方をさせてもらうと、この世は悲しみに満ち溢れている。この際だから、さらにウェットな物言いをさせてもらうと、誰かの愛する誰かの死にこの世は満ち満ちている。
 それにもかかわらずだ。それにもかかわらずである。
 巷間ではやたらと人が死ぬコンテンツー映画にせよ、小説にせよ、音楽にせよーがもてはやされている。或いは僕が選択的にその種のものを摂取しているだけなのかもしれない。
 にしてもだ。
 一カット前では、一フレーズ前では、一行前ではピンピンしていた人間がいとも簡単にコロリと死ぬ。病気、交通事故、自然災害、火災、殺人、それに自裁と原因は様々だが、書き手の勝手な都合によって殺される人が後を絶たない。しかもそれに飽き足らず、古今東西の物書きは往々にして、その死に何らかの意味を持たせようとしたり、なんとなればちょいとファッショナブルな雰囲気を付け加えたりしているから始末に負えない。何度も言うように、悲しい出来事なんて巷に溢れている。それを殊更改めて書き立てるなんて、なんて安易でなんて凡庸なのだろう。
 だから、以下を誓約する。
 死ーついでに中絶と失踪もーを描く輩を僕は信用しない。無論自分もそれについて書かない。
 死を描かないと、生の素晴らしさを際立たせられないのだとしたら、そんなのあまりにも空しい。

チャンピオン(fiction)

 夢の対決は実現しないまま終わった方がいい。「現実」が「夢」を超えるなんて、そんな滅多なこと起こりやしないのだから。
 無敗の俺たちが戦ったら果たしてどちらが勝つのかという格闘技談義を肴に酒を飲む時間こそが楽しいのであって、二人の対決は我々大衆の期待を上回らないはずだ。もうこの物語は「てっぺん」を叩き出している。
 そんなことをほざいている奴もいるらしい。

 マサヤは負けたことがない。路上で喧嘩に明け暮れた日々も負けなかったし、ひょんなことから地下格闘技界にデビューしてからも敵なしだった。その腕を名トレーナーに見込まれ、プロデビューして早八年。未だ誰にも負けていないし、自分が負ける想像すらつかない。
「試合中によく笑っていられるね、怖くないの?」
今まで何度となく聞かれてきた。自覚はないものの、映像を見返したら確かに笑っている。並のファイターは試合中クリーンヒットを喰らったときに、効いていないことを相手にアピールするためにわざと笑ったりするらしいが、マサヤにはそんなつもりは毛ほどもない。ただ自分は勝負が佳境に入ると、どうにも笑いを堪えられぬタチなのだ。俺は根っからの戦闘民族だ。DNA、いや、細胞からして、もうモノが違うというわけだ。相手が強ければ強いほどわくわくするあの大ヒット漫画の主人公と同じように。
 ただ、喧嘩上がりのマサヤのファイティングスタイルは専門家からの評判はあまり芳しくない。パンチの基本がなっていないだとか、技を出したあとにスキができるだとか、蹴りのイロハもわかっていないだとか、好き放題言われている。
「パンチってのは、関節のジョイントを全て合わせて打つことで、ダメージを最大化できるんですけどねぇ」
「マサヤ選手はがむしゃらに腕をぶん回しているだけですから、どうにももったいない。真面目にボクシングを習ったら、もっと強くなるですがね」 
ボクシングの元世界王者が言っていたことだが、マサヤは意に介さない。ボクシングとキックボクシングは似て非なるものだし、いちいち説明するのが面倒だから黙っているが、彼には彼なりの理論があって、それに基づいているからこそ、今日まで無敗なのだ。結果を見たら、誰もが自分を一番だと認めざるを得ないだろう。俺こそが真のチャンピオンだ。
 の、はずだった。
 他団体で頭角を表したあいつを当初マサヤは歯牙にもかけていなかった。勢いのある若手なんていくらでもいるし、そんなのはこれまで幾度となく潰してきた。というか、マサヤに潰されたのならかなり上出来で、そのほとんどは彼に挑戦する前に力尽きてしまう。あいつもそんな奴らうちの一人だろう。そのくらいにしか思っていなかった。
 そもそも、マサヤは他の選手について関心がない。試合が決まったらトレーナーに言われるがままに対戦相手の映像を眺めたりするが、正直退屈している。何が悲しくて、どこの馬の骨とも知れぬ者同士の試合を俺が眺めなくてはならないのだ。大体、相手の強さなんてのは、どれだけビデオを眺めたところでわかるものではない。試合当日にリングで対面してはじめて感じ取れるものなのだ。あるいは俺のような感覚を持っているファイターの方が稀なのかもしれないが。
 だからあいつの試合映像を一回見てみろと言われたときも、マサヤは全く気が進まなかった。それでもジムの練習仲間に半ば無理矢理テレビの前に連れて来られる。
「どう思う?めちゃ強くない?」
スパーリングパートナーのライトが目を輝かせながら尋ねてくる。選手であると同時に格闘技オタクでもある彼はマサヤの反応が気になって仕方ない様子だ。
「確かに上手さはある」
マサヤはそうとだけ答える。実際それが彼の虚心な思いだ。上手いし、速い。でも、強くはない。素質は間違いなく一級品だが、まだまだ自分の敵ではない。これからさらに強くなるのかもしれないが、俺だってそれ以上に強くなるのだから。早くも見飽きて練習に戻るため腰を上げようとしたマサヤはテレビに写ったあいつの表情を目にして、瞬間ピタリと動きが止まる。
 殴り合いの中、あいつも笑っていた。それも凡百のファイターが浮かべる例の「効いてない」アピールのスマイルではなく、純粋に戦うことを楽しんでいる戦闘民族の笑みをあいつもたたえている。こいつならもしかしてー。
 ケンシンかー。覚えておこう。そんなふうに思ったのは初めてだった。

 ケンシンはマサヤとはあらゆる点で正反対だった。ストリートファイトからの叩き上げで現在の地位まで登り詰めたマサヤに対し、幼少時から父より空手の英才教育を受け、あらゆるアマチュアタイトルを総なめにして、キックボクシングの世界に殴り込んできたケンシン。地元ではどうしようもない不良として疎まれ、「粗大ゴミ」呼ばわりまでされたマサヤと、空手の日本チャンピオンを父にもち、「神の子」と称されるケンシン。マサヤがパワーで相手を捻じ伏せる一方で、ケンシンはスピードとテクニックで相手を翻弄する。マサヤは右利きだが、ケンシンはサウスポーだ。ファン層も全く違う。マサヤは同性からの野太い声援を背に戦うが、ケンシンはいつも黄色い声援を浴びている。団体も別々だった。マサヤが由緒ある団体に所属しているのに対し、ケンシンが所属しているのは新興の団体だ。ベスト体重もマサヤが60キロで、ケンシンは55キロだ。
 本来は交わるはずのない二人だったのだ。

 なのにいつからだろう、誰が言い始めたのかもわからない。マサヤ対ケンシンが夢のカードとして語られるようになった。尤も、格闘技界もといスポーツ界ではこういうのは珍しくない。さる世界的なボクシング雑誌だって、全ての選手の階級が同じだったら誰が一番強いかを定期的に記者の投票で決めているし、どんな競技であれ「歴代ナンバーワン」が誰であるのかについて語り合いたいというのが、ファン心理というものだろう。それが現役の選手同士ならば、過去の名選手と現在のトップ選手の対決などに比べて、その実現可能性も格段に高いゆえ、その種の話題が持ち上がり、大いに盛り上がるのは、これは当然といえば当然の話である。
 しかし、マサヤ・ケンシン戦の実現にはあまりにも多くの障壁が立ちはだかっていた。    
 まずどちらの団体が主催するのかという問題があった。格闘技に限らず、プロスポーツはエンターテイメントである以上、金にならなければ意味がない。二人の対決ほど世間の耳目を集めるイベントはそうそうないから、その面での心配は全くないものの、集まった金をまずどちらの団体の手元に収めるのか。両団体はなかなか妥協点を見つけることができなかった。
 ドーピング検査を行う機関についても、マサヤがいつも使っているところにするか、ケンシンのそれにするかがネックになった。両陣営がそれぞれの機関の検査の正当性に疑義を唱え、交渉は難航を極めた。
 そして何より規定体重だ。マサヤのベスト体重はケンシンより五キロも重い。明らかに階級が違うのだから、そもそも二人の対戦は非現実的だと主張する専門家も少なくなかった。
 しかし、二人の無敗神話が続くにつれて、夢の対決を望む声は日増しに大きくなってゆく。さらにここ一、二年でケンシンの方にちょっとした動きがあった。
 マサヤとの対戦を熱望していると公言するようになったのだ。メディアのインタビューは言うに及ばず、勝利後のマイクパフォーマンスでもマサヤの名前を出すようになった。
「マサヤさん、ぼくは逃げないので。是非格闘技界を盛り上げる一戦をお願いします!」
マサヤは沈黙を貫く。もともと派手なマイクパフォーマンスは苦手だし、ぶっきらぼうなメディア対応が自分のブランディングだ。黙っていると、あいつは逃げているなどと訳知り顔でほざく素人が沸いてくるが、一向に構わない。俺は組まれた試合を戦うだけだ。
 試合はマサヤにとって一番の娯楽であると同時に唯一の生きがいでもある。きつい減量に耐えられるのは、勝利の後に高級焼肉を鱈腹食えるからではなくー勿論それもあるにはあるがーその先に大観衆の前で殴り合いをする快感が待っているからだ。リングの上は治外法権で、ルールの範囲でなら、相手をどこまでも痛めつけることが許される。その様を見て観衆は歓喜する。客観的に見たら、異様な空間だ。まあ、人間の精神はコロッセオに集っていた古代ローマの時代からさほど変わっていないのだろう。
 しかし、マサヤは物足りなさを感じ始めている自分に気づいている。チャンピオンの彼に挑んでくるのがどんな選りすぐりのファイターであれ、彼とは「モノ」が違う。シマウマがどれだけウエイトトレーニングを積んだところで、ライオンには勝てない。俺がやっているのは弱いものいじめと大差ないのではないかという疑問に彼は捉われる。勝つのは嬉しいし、殴り合いは相変わらず何にも変え難い快感を俺にもたらしてくれる。なのにこの渇きは一体何だ。自問自答の沼に嵌まり込む前に彼は頭を振り払う。あれこれ考えるのは自分の性分に合っていない。

 ケンシンの評価は鰻上りだ。無敗記録を更新しているのもあるが、試合内容が素晴らしい。必ず盛り上がりを作って、その上で相手をノックアウトする。格闘技ファンの中にはもうケンシンはマサヤを越えたと言う者も少なくない。
 マサヤにも一つの変化が生じていた。あれほど他人の試合には興味を示していなかったのに、ケンシンの試合だけはチェックするようになったのだ。別に格闘技オタクのライトのように、ケンシンの高等テクニックの習得を目指しているわけではないし、いつか対戦するときのためにあらかじめ研究しておこうなどという殊勝な考えがあった訳でもない。
 初めて彼の試合を見たときに感じた淡い期待とさえ呼べぬような予感。こいつはシマウマなんかではなく、俺と同じくライオンなのではないかという予感だ。それが正しいのかを確かめずにはいられなかった。
 もう一つには、柄にもなく同情してしまったからだ。こいつが抱えている孤独は俺のそれよりもさらに奥が深いと思わずにはいられなかった。メディアに対しては天真爛漫なふりをし、交友関係もマサヤなんかより断然広いが、その実こいつは誰よりも一人ぼっちだ。月並みな表現だが、天才の孤独というやつなのだろう。試合が終わって花道を引き上げるときに浮かべている表情からは、いつも悲愴感が漂う。マサヤも同じだ。二人が負けないのは、実力はもちろんのこと、それ以外の別の力が働いているような気がしてならない。それは運命などというチャチなものではない。むしろ「生まれ」といった方がしっくりくる。幸か不幸か、マサヤもケンシンも「勝つ星」に生まれついてしまった。
 ケンシンとの対戦を熱望する自分の気持ちにマサヤは気づいている。しかし、口には出さない。大願を口にしてそれが叶わなかったときの失望に耐えられるとは思えないからだ。

 二人の対戦はケンシンがキックボクシングを引退し、ボクシングに転向することが決定すると、呆気なく決まった。ケンシンがこの世界でやり残したことはただ一つ、マサヤに勝利することのみであり、無敗の看板を引っ提げて神童は新たな領域に踏み込むのだ。そんなストーリーをケンシン陣営は喧伝している。結構なことだとマサヤは思う。彼がヒールなのは何もこの試合に限った話ではない。
 ルールが58キロ、3分3ラウンドで決定すると、ケンシン有利を主張する声は一段と大きくなる。この分だとスピードに勝るケンシンが着実にポイントを稼いで判定勝利を収めるだろうというわけだ。
 試合が決まったマサヤの口数はさらに少なくなる。その並々ならぬ殺気は周囲の者をして、気軽に彼に話しかけるのを躊躇わせるほどで、スパーリングパートナーで数少ない友人でもあるライトは、不穏な雰囲気を感じざるを得ない。こいつが負ける未来なんて一ミリも想像がつかないのに、この胸騒ぎは何だろう。格闘技ファンとしては世紀の一戦を誰よりも心待ちにしているはずとはいえ、親友が憑き物に憑かれたように自らを擦り減らしている様には胸を締めつけられる。強気な発言ばかりがクローズアップされ、いつも誤解されているが、マサヤは誰よりも繊細で、すぐプレッシャーに押し潰される自分を鼓舞するためにそうしているだけなのをライトは知っている。

 試合を直前に控えた二人は記者会見に臨む。相手の印象を問われ、マサヤはいつもの調子で答える。 
 なんかちょこまか動く奴だよな。せこせこ逃げ回るのは結構だけどさ、俺を倒すつもりならデカい一発がないと話にならねえよ。あんなタッチするみたいなパンチだったり、撫でるようなキックじゃあ、俺はびくともしないからね。ラウンド数?ルール?体重?そんなの関係ねえよ、なめてんのか。1ラウンドで寝かせてやる。
 ケンシンの番が回ってくる。こちらもいつもの調子だ。
「ずっとリスペクトしていたマサヤさんとついに戦えるなんて、本当に嬉しいです。このマッチメイクに尽力してくれた全ての人に感謝します」
「ぼくもマサヤさんも無敗だけど、これまで背負ってきたものが全く違う。ぼくはあくまでもチャレンジャーとして戦いたい。皆はぼくが有利だって言うけれど、決してそんなことはないと思っています」
「確かなことは」
「ぼくはマサヤさんほど力のあるパンチも打てないし、マサヤさんほどタフでもないし、マサヤさんに比べて体格も劣るし、経験値でも遠く及ばない」
「でも」
とケンシンは続けない。
「だからぼくが勝つ」
マサヤはケンシンが言っていることの意味を掴めない。妙な理屈をこねる野郎だとだけ思う。
 運命のゴングは一週間後に鳴らされる。