玉稿激論集

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小銭を乞われる(加筆・修正版)

 この国にあって、物乞いされることが何年かに一度ある。中年男に道端で「この三日間何も食べていないんです。150円貸してくれませんか」と言われたこともあったし、駅前で小さなスーツケースを引きずった老婆に「お兄さん、500円だけお願いできないかしら」と乞われたこともある。みすぼらしいとはいかないまでも、割に質素な身なりをしていて、お世辞にも金持ちには見えないはずなのに、どういうわけなのだろうか。
 普段生活している分には気づく機会は殆どないが、本当に貧しい人というのがこの国にも少なからずいる。
 僕とて決して裕福ではない。高校球児が白球を追いかける一方で、薄給に縋らないと生活は立ち行かないし、財布の中身が千円を切ることだってままある。それでも日々の暮らしに窮するということは、ない。
 周りを見渡すと、自分より稼いでいる人もいっぱいいる。彼らは「億稼ぐ」のを実現不可能な夢ではなく、具体的な目標としていたり、僕に福岡旅行をプレゼントしてくれたり、馴染みのある寺に一括で数十万円を寄進したりしている。
 いやはや、本当に富の偏在が過ぎる。徳川の時代が終わったこの国にもまだ金が埋まっているのだ。ゴールドラッシュはいつか。
 物乞いの話をしていたのだった。
 彼らにビタ一文払わないのには、いくつか理由がある。
 その中でもっともらしいものをまず挙げると、キリがないからだ。お笑いコンビ「オードリー」の春日は、プライベートでは誰に頼まれても、握手もしないし、写真撮影にも応じないと聞いた。後輩芸人が語るところによると、ディズニーランドにて子どもにサインをせがまれたときも固辞していた程の徹底ぶりらしい。「俺は全員に平等なんだ」というのが、春日のスタンスである。誰か一人にサインをしたら、他の全員にもしないといけなくなる。そんなことはできないから、誰にもしない。まあ、多少のツッコミどころはあれど、それなりに筋の通った理屈ではある。一人の物乞いに金を恵んだのなら、彼らの全てに喜捨せねばならなくなるから、ハナから誰にも与えない。さほど突飛なスタンスでもないだろう。
 でも、少し考えてみればわかるが、僕がベガーに遭遇する頻度は、春日が私生活においてファンと接するそれに比べて明らかに少ない。何せ数年に一度あるかないかくらいなのだから。とすると、上述の御託はその地位を詭弁へと堕してしまう運びとなる。
 そもそも滅多にないことなのだから、百円ぽっちくらいくれてやればいいのである。確かに一面では「金は命より重い」(©️『カイジ』)し、たとえ一円でも大事なお金(©️『闇金ウシジマくん』の映画のワンシーン)なのかもしれないが、他面ではたかが五百円である。アルバイトの大学生が三十分厨房で突っ立っていたら、口座に振り込まれる金額だ。それなら、なぜ喜捨しないのか。
 結論を申し上げると、僕は「異常な」人と関わり合いたくないのだ。どういう事情があったのかは知らないが、通りすがりの他人に金をせびるなんて、「普通」ではあり得ない行動だ。
 世間には、大多数の人によって共有されているコードがある。電車の中では静かにするとか、本音は口には出さずに当たり障りのないことを言ってその場をやり過ごすとか、集合住宅の壁をドンドン叩かないとか、そういう無数の「約束事」を我々が守っているからこそ、この社会はどうにか成り立っているのだ。
 別に電車の中で騒ぎたいわけでもないし、その場を凍り付かせる一言を言い放ちたいわけでもなければ、うるさい隣人に仕返しをしたいわけでもない。
 ただ、ギリギリのところをいつもどうにかやり過ごしている、いや、切り抜けている感覚が僕には結構強くあるのだ。仕事でも、私生活でも、「よかった、危ないところだった」とかなりの頻度で感じている。さながら、虎となって旧知の友を喰らおうとした李徴のように。あと一つ歯車が狂っていたら、大変なことになっていた。少し大袈裟に言うと、綱渡りをしているような感覚。かなりオーバに言い表すと、既のところで正気保っているような感覚があるのだ。
 そんな中にあって、異常な振る舞いをする連中に対し、「俺も我慢しているのだから、お前も耐えろ」なんてことを言いたいわけではない。そもそも僕はコードから外れた振る舞いをしたいと望むものではない。ただ単純に、彼らと関わり合いたくないと思うのだ。生きている限り、関わらざるを得ないという静かな諦念とともに。
 「大人になっても人生は辛いの?」とジャン・レノに尋ねる子役時代のナタリー・ポートマンの脳裏には、長じたら現時の苦しみから解放されるはずだという願望ー希望的観測というべきかーも確と浮かんでいたように思う。僕にだって、大人になれば皆まともになるはずだと漠然と信じていた時代があった。
 それがこの有様だ。大人になっても、皆ちっとも変わらない。ちっともまともになっていないではないか。いや、むしろ、事態は悪化の一途を辿っているようでもある。根は何ら変わっていないにもかかわらず、歳を食うに従って、まともな「フリ」だけは上手くなっている連中が跳梁跋扈しているのだから。
 ポートマン同様、僕もものの見事に裏切られたというわけだ。オアシスがあると思い込んで砂漠を歩き続けた先に、蜃気楼を見たのだ。
 いや、この言い方は適切でない。だって、自分が勝手に期待していただけなのだから。そして、当たり前の話だが、人生はタネが明かされてからの方が、その前より圧倒的に長い。

(注)記事タイトルは、西村賢太『小銭をかぞえる』のオマージュです。