玉稿激論集

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仕事を納める

 出勤簿に押印するところから仕事が始まる。今時、ハンコがないと仕事がままならないなんて会社があることに驚かれる向きもあるかもしれないが、ハンコ文化も悪いことばかりではない。A3サイズの出勤簿は365分割されていて、出勤した日には判が押されている。ここのところ、びっしりと押印されたその大判紙をマジマジと眺めて、しみじみ思う。本当に、よく働いているなと。タイムカードに打刻しているだけなら、かような感慨を抱くことも、そうないのではなかろうか。
 というわけで、仕事納めである。
 まあ、実際のところは、慢性的な人手不足に悩まされているうえに、折悪く繁忙期を迎えた部署に所属している身としては、何にも納まってはいないのだが、それでもやはり、一区切りは一区切りである。電話をかけても繋がらない顧客も多いし、偉い人は上層階でありがたい話をするし、同僚は「お疲れ様でした」の後に「良いお年を」と付け加えたりするし、街は何となく浮かれているし、やはり、年末は年末だ。
 かく言う僕も、帰省する新幹線の中で、当記事を執筆している*1。人並みに年末年始を休む腹づもりだ。
 あまりにもベタだが、やはり、この時期になると我が身の来し方を振り返ってしまう。まあ、ベタでいい。大体、僕はベタなものや世俗にまみれたものが好きなのだ*2
 どうして自分は今こんなところにいるのだろうとふと考える。
 それは一言で言えば、会社からの辞令の結果でしかない。でも、もっと大きな力が働いているような気がする瞬間があるのだ。
 運命?
 いや、そんな安っぽいシロモノではない。
 ただ、昔から漠然と「ここではないどこか」に憧れを抱いていたように思う。
 高台に位置する実家のマンションからは遠方の山々が望める。折に触れて、その山の向こう、遥か彼方の空を眺めていた。
 果たして、ここが思い浮かべていたところなのかは、わからない。大体、具体的な場所を夢想していたのでもないのだし。遠くを見つめる中高生なんて、まあ、そんなものだろう。

 何にせよ、「仕事納め」なんてする日が来るなんて、夢想だにしていなかった。あの僕が、曲がりなりにも「仕事」をー力ずくかもしれないがー「納めて」いるのである。
 これはかなり驚くべきことだ。
 以前、当ブログで書いたかもしれないが、昔の僕は自分がこんな歳になるまで生きるイメージがまるで湧いていなかった。別に、大病を患っていたわけでもなければ、死への希求があったわけでもない。ただ単に想像力が追いついていなかっただけの話ではあるのだが。
 しかし、結果的には、社会人五年生として、本日無事に仕事を終え、実家に帰るため新幹線に乗っている。
 いやはや、本当に、一体何をしているのだろうか。
 仕事でパソコンに向かっているときも、ふと笑ってしまいそうになることがある。何をこんなに必死になったり、思い悩んだりしているのだろうかと。大人びたガキがキッザニアで抱くであろう感情を、三十路を目前に控えた僕も抱いてしまうのだ。
 少しもかっこよくないし、関係各位には申し訳が立たない。
 まあ、逆に言うと、冷静になっていたら、仕事なんてやっていられないということなのだろう。出世を目論む同期だったり、実際に出世している上司なんかを見ていると、切にそう思う。
 彼らに対して憧憬の念を全く持ち合わせていないわけではないが、とりあえずは来年も今のペースでやっていきたい。
 読者諸氏におかれても、一年間、おつかれさんでした。

*1:正確には今日の昼休みから書き始めたのだが、それはまあ、ご愛嬌。

*2:実際のところ、この感情にはかなり倒錯したものがある。けどまあ、論旨とはズレるし、まだ整理できていないので、また稿を改めて論じることにする。多分。