玉稿激論集

玉稿をやっています。

忘れがたき人々の話

今となっては本当に昔のことのようにも思えるのだけど、幼少期から10年以上僕は剣道を習っていた。小学生の頃なんて、週5回も練習していたし、中学生とか高校生のときも平日は学校で練習して(月火水金)、日曜日は地元の道場に通っていた。

 

よくあんなことやってたよなと、たまに思うことがある。練習は決して楽じゃないし、強くなったからといって、特にどうなるというわけでもないのに。まあでも当時は仲の良い連中とわいわいしながら、それなりに楽しんでいた覚えはある。

 

で、剣道をやっていた10年ちょっとの間に色んな人との関わりがあったんだけど、最近ふとある人のことを思い出したから、今日はその人の話を少ししてみる。

 

その先生(以下A先生とでもしておこう)が道場に来るようになったのは、僕が小学校3年生ぐらいのときだったと思う。A先生は、普段練習を仕切っていたバーコードハゲの先生が休みのときは、僕らの練習を見てくれるようになった。

 

ザ・熱血漢とでもいうべき人だった。練習を見て不満に思うところがあると、すぐに「やめっっ」と声をかけて、全員を集めさせ、「お前らこんなんじゃあ、〇〇(強い道場)の奴らに勝てんぞ!」と発破をかけてきた。最初のうちは「この人は何をこんなにワーワー言っているのだろう」と訝しがっていた僕らだったが、そこは純粋な子ども、途中からはまんまと乗せられて、「返事は!!」とか言われると、食い気味に「はいっっ」とか言うようになっていた。本当に今では考えられないことを僕はやっていたのだ。

 

練習を見て熱く指導するだけでなく、A先生は実際に防具を着けて僕らに稽古をつけてくれた。当時先生は確か五段とかで、もちろん小学生の僕が歯が立つわけもなく、文字通りボコボコにされていた(合法的に)。僕らはときに泣きながらA先生に食らいついていた。本当に何をやっていたんだか。

 

でも、A先生は僕らからとても好かれていた。その熱さからは僕らを強くしたいという気持ちが伝わってきたし、練習が終わった後は普通の面白いおっさんとして僕らと接してくれていた先生に子どもたちは懐いていた。ただ、周りの大人はA先生のことをどう思っていたのだろうかと、最近になって思う。もともとは部外者だった先生が熱血指導をして、子どもたちの支持を集めているのを面白くないと感じていた人たちもいたかもしれない。年を重ねてくると、物事のそういう側面が目につくようになってしまう。どうでもいいことなのに。

 

中学生になると、学校の部活が忙しくて、A先生と会う機会もめっきり少なくなった。そして、高校生になり大学受験のために部活を引退し、一浪して大学に入った頃にはA先生のことはほとんど忘れていた。

 

A先生が倒れたという知らせを受けたのは、だいたいその頃のことだったと思う。稽古中に熱中症かなんかで倒れ、救急搬送されたとのことだった。

 

その後、先生の状態についての知らせはなかなか入って来ず、「知らせがないのはいい知らせっていうことなんだろうね」なんて僕らは話していたのだが、そんなことはなかった。意識は回復しないまま、A先生は植物状態になっていた。

 

それから2、3年後、目覚めることなくA先生は亡くなった。

 

長い間会っていなかったということもあって、知らせを聞いても、涙が出てくることはなかった。でも、僕はとても悲しかった。月並みなことを言うようで申し訳ないけれど、残された奥さんとお子さんのことを思うと、胸が痛んだ。

 

剣道をやっていた頃のことを思い出すときには、必ずA先生のことを思い出す。先生と出会えたことは、それくらい僕の中で強烈な体験だった。試合に勝った僕を拍手しながら満面の笑みで迎えてくれたときの顔を忘れることもないだろう。

 

最後にいいことを言って、締めくくりたかったけど、何も思い浮かばなかった。飯を買いに行こう。