玉稿激論集

玉稿をやっています。

西村賢太に寄せて

 BUMP OF CHICKENの『Acacia』をバックグラウンド再生しながらYahooニュースをスクロールしていたら、「西村賢太死去」の文字が目に飛び込んできた。瞬間絶句してしまう。
 遺族とは連絡がついておらず、北区が葬儀を行う可能性もあるとのこと。身元不明者として荼毘に付された師・藤澤清造の命日から一週間後に似たような形でこの世を去るとは、如何なる配剤か。
 師の墓の隣に建てていた生前墓にかように呆気なく収容される事態に一番驚いているのは本人かもしれない。

 女の、呻くような啜り泣きが、幽かに聞こえてくる。
 しばらくの間、女がまだほんの一切れしか齧っていないカツの残骸に目を落としていた私は、やがてゴミ袋をひろげると、その自分で仕出かした惨状を、まるで女がやったことのような腹立たしさを覚えながら、片付け始めた。
 脳中に、いつか辿り着くことになろう、藤澤清造の墓前を思い浮かべながら、そのママゴトのなれの果てを黙々と片付け始めた。

(『どうで死ぬ身の一踊り』)  

ついに辿り着くその時 夢の正体に触れる時 必ず(近くで)一番側で 君の目に映る景色にいたい

BUMP OF CHICKENAcacia』)

Acacia』の方はどうでもいいが、何はともあれ西村賢太も「辿り着いて」しまった。
「死去」とか「亡くなった」というよりむしろ、「死んだ」とか「くたばった」という表現がしっくりくる生き様、死に様だったと思う。
 苦役多き生おいて時に羅針盤となる作品をこれ以上読めないのは、痛恨の極みである。今はただ、手元にある氏の小説を復読したい。