玉稿激論集

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不良債権としての学歴

 決算報告書を見ると、その会社の財務状況がわかる。貸借対照表の純資産の欄がプラスかマイナスか、損益計算書に純利益が計上されているのか、純損失が計上されているのか、判断材料は豊富だ。

 僕の人生を網羅した決算報告書を作ったらと想像してみる。債務超過だろうか。純利益がもしあるとしたらそれはどれくらいの額になるのだろうか。借りがあるなら返済を先延ばしにしてもらわねばならないし、貸しがあるなら、それは何がなんでもきっちり回収せねばならない。

 映画『仁義なき戦い(完結篇)』にて小林旭演じる武田明が言い放つ「借りは貸しを生むためのもんじゃ」というセリフは、ヤクザの抗争とて「切った張った」以上に経済力が物を言うことを示している *1が、「切った張った」をしない堅気の我々ならば、貸し借りの管理こそが人生と言ってもさほど言い過ぎではあるまい。

 借りを返したり、貸しを作ったりする対象は他人とは限らない。いや、むしろ我々は自分に対してこそ、債務を負い、債権を有しているのではなかろうか。ただ、自己を対象とする債権及び債務の整理は、他者を対象とするそれよりもさらに難易度が増す。債務の弁済も債権の回収も己に対してするとなると、我が身の可愛さ故にどうにも甘さが出てしまうからだ。まあ、債務を忘れるのは悪いことではないだろう。しかし、時効を迎えた結果債権が消滅してしまうのだけは避けねばならない。

 

 振り返れば、よく勉強してきた。何のためにあんなに頑張っていたのだろう。学問の世界に興味があったから?違う。将来の夢に近づくため?当時の自分に将来を考える余裕などなかった。では何のため?

 毎日コツコツせこせこと勉強して手に入れたかったものの一つに、高学歴という肩書きがあったのは確かだ。俗物根性と言われればそれまでだが、事実なのだから仕方がない。その学歴が、浪人してまで手に入れたそれが、ほとんど焦げついてしまっている。最近よくそんな風に感じる。

 学歴さえあれば人生は好転するといったナイーブな考えを抱いていたわけではない。ただ無駄にはならないし、邪魔にもならないだろうとは思っていた。何らかの恩恵をもたらしてくれるだろうとも。

 果たしてそれは恩恵をもたらしてくれたようには思えない*2。例えば僕は受験生だった頃、こんな風に考えていた。もし合格したなら少しは自信がつくだろう、自分を支える立脚点とまではならなくとも、小さな誇りくらいにはなるだろうと。しかし、束の間の喜びが過ぎ去った後に残ったのは、疲労感と虚無感くらいで、自信など一向につかなかった。無能な自分でもできたことなのだから、誰もが成し遂げられるのだろう。欲しかったはずの物を手にした後に辿り着いたのは、そんな結論だった。

 莫大な金額が記されていた小切手が実はただの紙切れだった。全くもって笑えない話だ。

 小切手の価値が上がることはないだろう。そもそもが無価値なものなのだから。

 努力した時間が無駄になったことに対し、「まあ、それもまた人生だよな」などと達観できる境地には到底達していない。ただただたまらない気持ちになる。

 

 吉井和哉は「キツかったら脱ぎゃいいじゃん」と軽快に歌い飛ばす*3。しかし、僕がこの旅路で纏ってきた衣服の中には、サイズが合わなくても脱ぎ捨てられないものがちょこちょこ紛れている。タグがチクチクして着心地が悪いけど愛着が湧いてしまっているものも。学歴は寒さを凌ぐ衣服などといった大層なものではない。せいぜいが鞄に付いているストラップ程度のものだろう。それでもなぜか捨てられない。紐がギチギチに固結びされているせいもあるが、もしかしたら知らぬ間に愛着が湧いているのかもしれない。

*1:https://www.news-postseven.com/archives/20170223_494792.html/4

*2:枷になっているとも思わないが。ただ西村賢太がインテリの編輯者連中を「お利巧馬鹿」と揶揄しているのを見ると、彼の「中卒」というステータスが魅力的に写ることはある。

*3:『プライマル。』