玉稿激論集

玉稿をやっています。

雑感など

手付かずのおせち料理の重箱を見るとなんだか安心する。収まるべきところにすべての料理が収まっている。昆布巻きも黒豆も田作も。海老と数の子だけは少しでかい顔をしているけど。

 

自分の思考もこんな風にきれいに整理整頓されていたらいいのになと思う。仕事のことはここ、将来のことはここ、不安なことはここ、楽しみなことはここ、といった具合に。

 

僕の頭の中はまるでバイキングの取り皿だ。そこには申し訳程度の仕切りしかない。唐揚げの領分にパスタが侵入しているし、サラダのドレッシングは皿全体にかかってしまっている。ぐちゃぐちゃな思い。ごちゃごちゃのFast & Furious。

 

いつからか、色んなことに対して「まあ、いいや」とか「どうでもいいよ」と感じることが本当に多くなった。昔を知る人からは「丸くなったね」とか「あんなに頑固だったのに」と言われることもしばしばだ。確かにそうだよなと自分でも思う。

 

年を経るなかで寛容さが身についたというのは、もちろんあるだろう。でも、事態はそれだけに治まらない。なんというか、負けることに慣れてしまったのだ。

 

小さい頃は、そもそもの対戦数が少ないから、負け試合の数も少なく、自分の実力を過信していた。振り返ると、「どうしてあんなに自信に満ちあふれていたのだろう」と不思議になるほどに。ただ、やっぱり負けが込んでくると、どんどん自信は失われていく。プロスポーツの世界とは違う。そこでは、たくさん負けた人こそが一番勝利の味を知っていたりする。日本プロ野球界唯一の400勝投手の金田正一が、敗戦数でも日本記録を持っているように。対して、僕の人生はここのところ黒星続きだ。大学受験の失敗。就職活動の挫折。肝心なところでの勝負勘がまるでない。

 

こうなってくると、自分に期待をすることができない。何をするにも、「まあ、どうせうまくいかんよなあ」と思いながら事に臨む。案の定うまくいかない。昔みたいにその度に地団駄を踏んで悔し涙を流したりはしない。静かに敗北を受け入れるだけだ。

 

まあ、悪いことばかりではない。おそらく昔のままだったら、会社で毎日のように同僚や先輩や上司と衝突していただろうし、友達の数だって今よりもさらに少なかったはずだ。負けに慣れること、すなわち己の身の程を知ることこそが、大人になるということなのかもしれない。それに、心に余裕だってできた。以前だったら腹が立ったり気になったりしていたことも、「別にいいか」と受け流せるようになった。というか、少し冷静になって考えると、ほとんど全てのことが自分と関係のないどうでもいい些末な事だと気づいたのだ、遅ればせながら。

 

だからこそ、ときに自分の内臓に醜い感情が眠っていることに気づくと、ひどく当惑する。怒りや嫉妬や羨望や執着が自分と分かち難く結びついているという事実に動脈が縮み上がり、思わず顔を歪めてしまう。当惑すると同時に、「この感情は間違っている」と強く感じる。でも、感情が間違っているなんてことがありうるのだろうか。

 

天皇が写った写真を燃やす映像を流すなどして炎上した、とある展覧会を擁護する立場の人が、「批判する人たちは作品の解釈を間違えている」みたいなことを論じた記事を先日読んだ。曰く、「作品が作られたバックグラウンドを理解しなければならない」、「背景を知れば今巻き起こっている批判が的外れだということがわかるはずだ」と。なるほど一理あるなと思った。でも、逆に言うと、一理しかない。僕もその展覧会の作品のいくつかをネットで検索して見た。特に怒りを感じることもなかったけど、感動もしなかったし、ましてや現地に足を運ぼうなどとは思いもしなかった。それに、僕自身は別としても、こういった作品に強い不快感を覚える人は一定数いることは、容易に想像がついた。そういう人たちに、「あなたは作品の解釈を間違えているから不快に思うんですよ、あなたは本来なら抱くはずのない不快感を抱いているんですよ」などと言ったところで、彼らの不快感が帳消しにされることはないだろう。頭ではわかっているけど、心に響かない言葉というものが確かにある。理屈の手が届かないところにこそ、感情が成立するのだ。

 

閑話休題

 

どす黒い感情が湧き上がっているとき、人を傷つける言葉や卑劣な行動が次々と思い浮かぶ。そのどす黒さこそが、自分の本性なんじゃないかと思うと、本当に気が滅入る。負の感情も含めて自分自身なのだと「受け入れる」などといえば、聞こえはいいが、この「受け入れ」は、そのまま「開き直り」であり、「諦め」でもある。自分が抱く負の感情に何らかの尊さを見出すことなんかできないし、そもそも見出すべきなのかもわからない。問題は山積みで、解決の糸口は見えていない。