玉稿激論集

玉稿をやっています。

シリーズ・労働を語る1

 かなり仰々しいタイトルで始めてしまい、既にしてビビっているが、標記について考えていること、感じていることを断続的に、願わくば縦横無尽に語っていきたい。
「とりあえず一年は頑張るか」くらいの意気込みで入った会社で丸四年も働いてしまっている。四年。決して短くない期間だ。転職を考えたこともあったが、結局辞めずにいる理由は、言えるものから言いたくないものまで多岐にわたっている。他の多くの人同様、僕も「働く」ということについて非常にアンビバレントな思いを抱いている。毎朝「ああ、行きたくないな」と嘆息しながらも、結局は始業の一時間前には出社し、湯沸かし器を洗ったり、ゴミを捨てに行ったりしている。全くお金がない訳でもないから、全てを投げ出して一人旅にでも出られたらどんなにかいいだろうと夢想しながら、何の当てもない将来のキャリアに向けて手を伸ばそうとしている。「誰にでもできる仕事」だと己を卑下しつつも、どこかで誇りも感じている。憂鬱と矜持がない混ぜになった感情。

 先日大学の同窓会にて会った元同僚は転職するらしい。広告業界からコンサルタント業界へ。なかなかに華々しく、羨ましい。劣等感をバネにした怒りこと、ルサンチマンも手伝って、「抽象的なアドバイスをして、客から大金を巻き上げるんですね」と冗談を飛ばすと、カラカラと笑いながら「コンクリートなアドバイスもしますよ」と言い返された。某先輩によると、転職先の起業は「その界隈ではGAFAみたいなもの」とのことだったが、元同僚は真顔で「いえいえ、産近甲龍ですよ」と謙遜していた。聞く人が聞いたら眉を顰める発言かもしれない。
 因みにこの某先輩も大学院を出た後に入ったIT企業を数年で辞めて、現在は会社を経営している。「毎朝『俺、社長だわー』って思います?」と尋ねると、「思うね」と頷いていた。そういえば昨日も社長だったし、多分明日も社長だと。
「別に何か買いたいものがあるわけでもないし、今の給料で全然暮らしていけるんだけどさ」
同席していた友人に「そんなに金を稼いでどうするの」と聞かれて、先輩はこう続けた。
「ただ自分がどこまで稼げるのかを知りたいんだよね」
四月からアブストラクト・アドバイザー(コンサルタントの意)に就任する元同僚も大きく頷いていた。
 他業種の知人と話す機会があると、ついつい質問攻めにしてしまうのは、他人の仕事の話を聞くのが好きというのが、その主たる理由ではあるが、どこかで「ハウ・アバウト・ユー?」と尋ねられる隙を相手に与えたくないという魂胆も働いている。こと金の話になると、こちらは本当にからきし駄目だ。やればやる程儲かるような職種ではなく、残業代だってろくすっぽつかない。話を振られた際に、かような有様を愚痴っぽく並べ立てられたところで、聞く方も反応に困るだけだろう。
 ただ実のところ、安月給で働くブルーカラーというポジションが心地良いのもまた事実なのだ。日雇い労働で生計を立てながら芥川賞作家になった西村賢太は、著者経歴の欄に必ず「中卒」の二文字を入れ、作中でも自身を「落伍者」と表する一方で、文芸誌のインテリ編集者連中を「お利口馬鹿」とこき下ろす。映画『SCOOP!』で福山雅治演じる雑誌記者は「俺たちのやっている仕事はゴキブリかドブネズミ以下なんだよ」と言い放ちながら、芸能人のケツを追い続けるのを決して辞めはしない。僕が高給取りの知人・友人に対してルサンチマンを発揮するのも、大体似たような心情からだと思う。敢えて自分の立場を下げといて、そんな俺にこんなことを言われるお前ってどうなのよとマウントを取りにかかる。学歴や職業を本気で卑下しつつも、そこにアイデンティティを見出してしまってもいる。「バイトを頑張った高校生みたいな賃金」と自嘲しつつも、己の仕事をどこかプライスレスなものだと感じているからこそ、金を稼げる仕事に本意気で舵を切るのを躊躇っている。
 しかし、よもや自分が公務員になるだなんて、十年前は思ってもいなかった。寧ろ人様が納めた税金で食っているような連中を内心見下してさえいた。それでも二転三転して結局今の仕事に就いた。「でもしか」感は否めないし、やりがいー手垢にまみれきった語だーなど皆無といっていいだろう。
 では、なぜしがみついているのか。
 もし今の仕事を辞めたとしたら、どんな仕事が自分にはできるのだろう。
 そもそも仕事の意義とは何だろう。
 仕事とプライベート?ワーク・ライフ・バランス?
 問いは尽きない。
 まあ、焦らず向き合っていこう。まだシリーズは始まったばかりなのだから。

(後記)
 仕事について語るとなった以上、中島敦『李陵』の主人公の一人、司馬遷に触れない訳にはいかない。最も偉大な歴史書の一つ『史記』を編纂したことで知られる司馬遷は、敵地で捕虜になった李陵を弁護する発言を武帝にした廉で宮刑(男を男でなくする刑罰)に処されてしまう。彼の絶望は計り知れない。

自分のどこが悪かったのか?李陵のために弁じたこと、これはいかに考えてみてもまちがっていたとは思えない。…それでは、自ら顧みてやましくなければ、そのやましくない行為が、どのような結果を来たそうとも、士たる者はそれを甘受しなければならないはずだ。…しかし、この宮刑は…これはまた別だ。同じ不具でも足を切られたり鼻を切られたりするのとは全然違った種類のものだ。士たる者の加えられるべき刑ではない。…動機がどうあろうと、このような結果を招くものは、結局「悪かった」といわなければならぬ。しかし、どこが悪かった?己のどこが?どこも悪くなかった。己は正しいことしかしなかった。強いていえば、ただ、「我あり」という事実だけが悪かったのである。

死にたかった。死ねたらどんなによかろう。それよりも数等恐ろしい恥辱が追立てるのだから死をおそれる気持は全然なかった。

 失意の底にある司馬遷を生に引き留めていたのは、亡き父から引き継いだ「畢生の事業たる」『史記』の編纂作業だった。それこそが彼を無意識のうちに自殺の衝動から遠ざけていたのである。仕事論の極北として、以下の引用を記し、今回は筆を措きたい。

十年前臨終の床で自分の手をとり泣いて遺命した父の惻々たる言葉は、今なお耳底にある。しかし、今疾痛惨憺を極めた彼の心の中に在ってなお修史の仕事を思い絶たしめないものは、その父の言葉ばかりではなかった。それは何よりも、その仕事そのものであった。仕事の魅力とか仕事への情熱とかいう怡しい態のものではない。修史という使命の自覚には違いないとしてもさらに昂然として自らを恃する自覚ではない。恐ろしく我の強い男だったが、今度のことで、己のいかにとるに足らぬものだったかをしみじみと考えさせられた。理想の抱負のと威張ってみたところで、所詮己は牛にふみつぶされる道傍の虫けらのごときものにすぎなかったのだ。「我」はみじめに踏みつぶされたが、修史という仕事の意義は疑えなかった。このような浅ましい身と成り果て、自信も自恃も失いつくしたのち、それでもなお世にながらえてこの仕事に従うということは、どう考えても怡しいわけはなかった。それはほとんど、いかにいとわしくとも最後までその関係を絶つことの許されない人間同士のような宿命的な因縁に近いものと、彼自身には感じられた。とにかくこの仕事のために自分は自らを殺すことができぬのだ(それも義務感からではなく、もっと肉体的な、この仕事との繋がりによってである)ということだけはハッキリしてきた。