玉稿激論集

玉稿をやっています。

バッティングの極意

たまにバッティングセンターに行く。

 

久しぶりに行くと、最初の方は空振りを連発する。

でも、慣れてくると、バットをボールがかするようになり、何球かに一回は力強い打球が飛んでいく。

調子が良くなり、良い当たりが連続すると毎回、「あ、もうバッティングの極意を掴んだな」と思うが、その瞬間掴んだはずのバッティングは手の平からするりと抜け落ち、次の球を空振りしている。

 

自分なりに掴んだと思っているバッティングの極意を言語化して残しておいたら、次回スポッチャ に行ったときに役立つはずなので、今回はバッティングの話をする(←こういう宣言いいな。誰に頼まれたわけでもないのにブログを更新するときにはこういう大義名分的なものがあった方がいい。僕は一人称視点の小説が好きでよく読むんだけど、たまに「なんでこの主人公は誰に頼まれたわけでもないのに、こんなものを書いているんだろう」とか思うこともあるし。)。

 

世界一の安打製造機イチロー曰く、ヒットには「偶然のヒット」と「必然のヒット」の二種類があるらしい。前者はどうして打てたのかわからないヒット、後者はなぜ打てたのかをきちんと理由づけできるヒットのことだ。好ましいのはもちろん必然のヒットである。というのも、来た球をなんとなくスイングしたら、たまたま野手がいないところに飛んでいったというのでは、もう一度同じような動作をするのが困難であるのに対し、あるコースに来た球に対して特定の軌道でスイングをした結果、自分が思い描いた位置に飛んでいったならば、その動作の再現性は格段に上がり、次のヒットも生まれやすくなるからだ。ただ、必然のヒットを打つのは、イチローにとっても、もちろん私にとっても、たいへん難しい。なぜか。

 

まず第一に、球が速過ぎて目で追うことができないというのが大きい。一説によると、ピッチャーが投げた球がベースに到達するまでの時間は、約0.46秒と言われている。一方、これもまた一説によると、球を見て身体が反応するまでが約0.17秒、スイングにかかる時間は約0.16秒であるから、純粋に球を見極めることができるのは、たったの0.1秒ちょっとなのだ。その刹那に「このコースにボールが来たから、この角度でバットを出そう」などと考えている暇はない。それゆえ、ヒットを打てたとしても多くの場合、「偶然のヒット」となってしまうのだ。

 

第二に、自分の身体を自分の意のままに動かすことが難しいからだ。私たちは普段生活している分には、何不自由なく自分の身体を動かしているように思われる。それは日常生活では動作の難易度が低いからだ。しかし、動作の難易度が高いスポーツの場面では事情は一変する。自分としてはプロ野球選手のようなスイングをしているつもりでも、ビデオをチェックしてみるとそこにはなんとも不格好な動きをする男が写っている。イメージとは異なった訳の分からぬ動きをしてしまう身体は、論理性とは相性が悪い。そんなわけで、必然のヒットを打つのは骨が折れる。

 

バッティングの極意を語ろうと思っていたが、本題に入らないまま結構な字数になってしまった。

 

まあ野球未経験者の私の技術論など書いたところで、誰の役にも立たないし、面白くもないから、今日はこんな感じで。