玉稿激論集

玉稿をやっています。

醜き鶏の囀り

 巷間で人気沸騰中のコロナワクチンに対して、大いにスカしたスタンスを披露した2個前の記事において、私はさらっと「何が悲しくて自ら注射を希望するのか」と記している。該記事ではこの点は全く掘り下げず、ワクチンの安全性への不安についてうだうだと御託を並べているが、私がワクチンを打つのに消極的なのは実こそ、この注射嫌いによるところが大きいのだろうと看破した人がいるならば、その慧眼には驚嘆する。即ち該記事で私が表明した「安全性に確信を持てないから、ガツガツとワクチンを求めない」なるスカしはフェイクとまではいかないまでも、ダミーであり、上述の「何が悲しくて…するのか」を含む一文こそが本丸のスカしだったのである。考えてみれば当たり前の話だ。「肩肘を張らずにスカしていく」などという決意表明が既にして暑苦しい以上、それに連なる結論も従来通りの鼻息の荒いものにならざるを得ない。そこで、真のスカしは結論としてではなく、文字通りただのスカしとして、論中に紛れ込ませたわけだ。当今かようなアクロバット的芸当をなせる書き手のどれほど少ないことか。

 兎も角私は注射が嫌いだ。勿論好きという人は余程の奇人だが、私の嫌いの程度もそこそこ徹底したものではある。会社で年に一回実施される健康診断でも、任意の血液検査は一度も受けていないし(この時点で健康診断はほぼ身体測定になり仰せている)、インフルエンザの予防接種も大学受験以来一度も打っていない。ここ最近ニュース等で連日放送されるワクチン接種の様子をドアップで撮影した映像については、BPOが早晩抗議を入れることを切に願っている。

 何やら仄聞したところによると、コロナワクチンは2回接種してこそ効果を発揮するらしい。嫌になる。だって2回ですよ、2回。おかしくないですか。この意味を理解していない向きが存外多そうなので解説をして差し上げる。我々注射嫌いにとって何より苦しいのは、実は接種当日ではない。勿論言うまでもなく、接種それ自体は独立した確固たる苦痛だ。しかしそれ以上に、そこへ連なる日々を送るのがどうしようもなく厭ったらしいのだ。楽しい一時を過ごしていても、ふと数日後の注射のことが頭をもたげると、途端に憂鬱に打ち沈む。晴れ渡っているはずの空に暗雲が立ち込める。それでも何とか前を向けるのは、それが一回こっきりで終わるものであるからだ。「なんだ、案外大したことなかったな」との思いとともに、「これから当分は注射と無縁に暮らせるのだ」との安堵感に浸れるからだ。それが2回接種となると、どうなるかはある程度想像はつくだろう。安堵など束の間で、すぐに第二期のメランコリーに突入する。しかも頻繁に変異するコロナウイルスにあっては、このサイクルが半永久的に繰り返されるかもしれないのだ。一体誰がそんな人生を送りたいだろう。

 これはあくまでも推測に過ぎないが、私みたいな輩はそれこそ隠れキリシタンのように、全国各地に潜伏しているのではなかろうか。奴等は一様にワクチンの安全性へもっともらしく疑問を呈しているようで、その実本当は注射が怖いだけのチキン野郎なのだ。

 ただ、チキン野郎を代表して、一言文句を垂れさせてもらいたい。医療の進歩があまりにも遅いことにだ。何をとち狂ったことをと思う向きもあるだろう。事実、今般世界中に出回っているコロナワクチンは驚異的なスピードで開発されたし、それ以外の分野における医療技術も日進月歩している。私とてわざわざそのことを否定するものではない。しかし、唯一我々が切に望む技術だけが遅々として実用化に至っていないのだ。

 知人の医療従事者からワクチンを筋肉に注射する時代は早晩終わり、近い将来それは鼻に噴霧するものに替わるという話を聞いてから、どれくらい経ったのだろう。沈む夕日をいくつ数えたろう(©️長渕剛『乾杯』)。未だ私がその技術の恩恵に浴する日が到来する気配はない。試みに「ワクチン 噴霧」で検索してヒットした記事をクリックすると、外国の女性医師と思われる方がかわいいフェレットを笑顔で抱いた写真が出てきた。

 記事自体は有料だったからほとんど読めていないが、おそらくフェレットを対象にした吸入型(噴霧型)のコロナワクチンの実験が成功したのだろう。フェレットって、あのフェレットである。あんなか弱そうな小動物に投与して問題がないのなら、取り急ぎ私の鼻にもスプレーしてほしい。

 WHOさん、治験要員、一人スタンバってます。