玉稿激論集

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尾崎豊と箕輪厚介

YouTubeで箕輪厚介と中田敦彦の対談動画を見ていたときに、箕輪が印象的なことを言っていた。

 

「本当にクリエイティブなやつは、マネタイズのことまでしっかり考えている」

 

と。なるほどと膝を打つと同時に、どこかで似たようなことを聞いたなと思った。それは、penの尾崎豊特集号に収録されていた、1985年2月の彼の言葉だ。こんなの。ちょい長いけど引用。

 

ブルース・スプリングスティーンとか、ビリー・ジョエルとか、ジャクソン・ブラウンとかっていう人たちって、自分のやりたいようにいい作品をつくって、それが受け入れられてるでしょ?でも、彼らって、きっとどこかある部分で、売れ線というのに対する目みたいなのはもってると思うんです。そして、そこで悩んでる人が多いと思うんです。だけど、日本では、わりと自分のやりたいことはこうだから、受け入れられなくてもオレたちはこれでいいんだ、みたいなのあるでしょ?売れ線で悩むなんて、そんなのカンケーねえぜっていうのがかっこいいみたいなのがあるでしょ?でも、ホントはそうじゃないと思う。自分たちのスタイルをいかに伝えていくかとか、そういうことでもっと悩むべきだと思うんです。それがないから、自分たちのやりたいようにやっているのにどうしてわかってくれないんだって、どんどんマイナーなほうに走っていってしまう。僕はそうなりたくない」(pen 『尾崎豊、アイラブユー』54ページ)

 

僕が一時箕輪厚介にある種の期待を抱いてしまったのは、敬愛する尾崎豊と同じようなことを言うやつがいると判断したからなのかもしれない。二人とも程度の差こそあれ、「売れること」に軸足を置いている。果たして、箕輪が言うように、この「売れること」と「創造性」には、密接なつながりがあるのだろうか。

 

世間を見渡してみると、「どうしてこんなものが流行っているのか」と不思議に感じることがしばしばある。食べ物にしても。ギャグにしても。本にしても。

 

そういった流行り物に対して、「これがもてはやされるとか、ほんまどうなってんねん、俺の方が絶対おもろいやろ」と感じている作り手は無数に存在しているだろう。世に何も出していない僕でさえ、そうなのだから。

 

一方で、世間から高い評価を得ているものを生み出す作り手には、どこか優れた点があるのだろうと、納得している自分がいる。そもそも、多くの人に受けるものを作り出せる能力それ自体が、才能の現れなのだからして。

 

僕は尾崎豊が好きだから、上で引用した言葉を読んで、「さすが尾崎豊、わかってんなあ、結局売れ線なんだよ」とか思っていた。でも、特にファンでもない箕輪厚介に「クリエイティブなやつはマネタイズのことまで考えている」とか言われると、話は変わってくる。痛いところを突かれた感じというか。

 

「売れるものを作る者こそが真に創造的だ」というのは、強者の思想である。弱者になりたい人なんていないはずだ(少なくとも僕はなりたくない)。だからこそ、この思想には抗しがたい魅力がある。

 

なんというか、僕は箕輪に上から物を言われたような気分になったのだと思う。「俺は知ってんだぜ、何が世間で受けるのかを。お前と違って」と。完全に被害妄想だけど。

 

世間からの評価は低いが創造性に富んだものもあるというのは、確かに真実ではあるだろう。ただ、趣味で何かを作ったりするのでない限り、「どうやったら受けるか」を考えることはとても大事だと思う。そうでないと、尾崎豊が言うようにどんどんマイナーな方へ行ってしまうし、その先に豊潤な何かはないはずだから。

 

ずいぶんとまとまりのない話をしてしまった。

 

売れるコンテンツを作る人は、やはり才能に溢れているだろう。でも、売れ線を気にしすぎると、自分のスタイルを伝えることが難しくなる。そのバランスをうまくとれる人こそが、真に創造的なのだと思う。