玉稿激論集

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文系学問の意味

自分がやられて嫌なことは他人にもやらないというのは、多くの人に採用されている原則だろう。まあ、都合よく解釈されてね。

 

というわけで、僕は他人に「大学でどんな勉強をしていたんですか」という質問は投げかけないようにしている。同じ質問を自分にされたときにひどく困ってしまうからだ。困る理由は、ろくに勉強してこなかったからだけではない。

 

「いや、まあ、なんというか哲学系のことを…」と答えて、「あ、なんか難しそうですね」となって、会話がそこで終われば御の字だ。「哲学ってどんなことをするんですか」とか「なんというんですかね、あの、何の役に立つんですか」とか「哲学を学ぶ意味ってあるんですか」といった方向に話が展開すると、文字通り閉口する。

 

そもそも意味とは何かとか、役に立つとはどういうことかということを考えるのが哲学の役割なのかなと考えていた時期もあった。金儲けの助けになることを「役に立つ」というのならば、確かに哲学は役に立たないかもしれないが、学ぶことそれ自体が楽しくて、人生を豊かにすることを「役に立つ」と定義するのなら、哲学だって役に立つだろうなどと。

 

なんという甘っちょろい考えだろう。

 

「意味」とか「役に立つ」のような言葉を、我々は日常生活で特に何も考えずに使っている。「そもそも役に立つってどういうことだっけ」などと顧みることは皆無と言っていい。でも、別にそれらの言葉に何の意味も込めていないわけではない。「意味」にも「役に立つ」にも、人口に膾炙した一般的な意味がある。そしてそれに照らし合わしたときに、哲学が役に立たない無意味なものに思われるから、人々はしばしば上述の問いを発するのだろう。まあ、乱暴な言い方をさせてもらうと、そもそも意味とは何ぞや?じゃねえよ。わかってんだろ、意味だよ、意味。で、お前にはその意味がないの。というわけだ。

 

医学や物理学、化学などといった理系の学問は、明らかに我々に貢献してくれているように見え、例えば「医学って何の役に立つのですか」という問いは馬鹿げてさえいる。文系の学問は、理系の学問のように、有用性を一言で言い表せないという点において、明確に劣っている。なんとも悲しい話だけれど。

 

大体、暴論を承知で言わせてもらうと、コロナウイルスが猛威を振るう現在、ワクチンの開発に寄与できない学問など無用の長物だ。←暴論オブ暴論s

もし、効果的なワクチンが開発されたとしたら、今度はそれをどうやって分配すべきかという議論が起きるだろう。そして、その時こそ、人文学の出番だと主張する人もいるかもしれない。でも、そんなことはないと思う。ワクチンをまず誰から優先的に分配していくのかなどということは、俺ら一般ピープルがガン首揃えて話し合って合意を形成していくマターであって、別に人文学が特権的に首を突っ込む領域ではないし、仮に人文学者が自分たちこそがベストな解答を提示できると考えているのであれば、思い上がりも甚しい。

 

今後、コロナウイルスが収束するにせよ、しないにせよ、「結局のところコロナウイルスとは何だったのか」的な問いに対して、多くの文系学者が手を替え品を替え論じていくことだろう。不要不急の産物だ。そんなものを読んでも抗体は身につかない。皆ワクチンを必要としているのだ。まあ、僕はそこまででもないけど。

 

文学部卒の端くれとして、このまま終わるのは空しすぎるので、少しは文系の学問に対するフォローをしておきたい。少しだけね。

 

難しい古典などは軒並み挫折してきたけれど、哲学者の著作はこれまで世間の平均よりかは読んできた方だと思う。

 

読んでいると、「そんな考えがあったのか」と脳天を貫かれるような衝撃を受けることが稀にある。自分の考えが根本から変わる。世界の見え方が180度転回する。そして生き方が変わる。生き方が変わることで、進むべき人生の道が変わる。そういった著作こそが、自分に新たな羅針盤を与えてくれたと思う瞬間さえある。

 

一人の人の人生に少なからぬ影響を与える。なんともちっぽけな効用だ。

 

ワクチンの開発にはまったくもって結びつかないし。