玉稿激論集

玉稿をやっています。

会社という宇宙、人間という宇宙

コピー機から出てきた給与明細を持って自席に戻ると、なぜかノートパソコンの画面が閉じられていた。

 

「〇〇さん、パソコンに明細がでかでかと写っていたから、画面を閉じておきましたよ」と先輩職員が言う。俺は感謝を述べたあと、「まあ、誰に見られても問題ないですよ。どうせ低額所得者だし」と自虐する。「いっそのこと乱視になったら、明細のゼロが1、2個増えて見えるから幸せになれるかもしれないですね」とも言った。先輩はからからと笑う。年功序列が色濃く残る弊社では、先輩は俺の倍以上稼いでいるはずだ。泣く子が俺の給与明細を見たら、黙るどころかさらに泣き喚くだろう。他にも色々例え様はある。バイト頑張った大学生とか。

 

ここ数年、年末年始も実家に帰省することなく、せこせこ働いている。祝日扱いになるその期間に働くと、幾ばくか給料が増えるからだ。「貧乏サラリーマンの稼ぎどきやねん」と言うと、親族も納得してくれる。

 

薄給だけど、生計は維持できているし、辞めたくて仕方ないというわけでもないから、出勤を続けている。今のところそこまできつくないし。

 

会社に入って以来、「働いたわー」と感じたことは一度もない。俺は「働く」とか「労働」という言葉から、いわゆるオフィスワークを思い浮かべることができない。どういうわけか、エクアドルあたりでラテン系の男共が、炎天下の中バナナが大量に入った木箱を肩に乗せてせっせと運んでいる映像がイメージされる。これはおそらく、自分の労働の原体験が関係している。大学のとき、某飲食店で肉体労働をしていたせいか、重たいものを運んだり、額に汗したりしないと、働いた気がしないのだ。

 

毎日時間が来たから行く。それだけの話だ。「出勤」という言葉を使うのもおこがましい。どちらかというと、「登校」の方が近い。

 

「登校」すると、本当に色々な人がいる。いや、ほんとに。こんな国だから、人種こそ同じだけれど、様々なバックグラウンドを持った人がいる。何らかを患っている人も何人かいる。色んな人がいる状況は、人と話すのが好きな僕にとってはありがたい。同僚や先輩と様々なたわいのない話ができる。その中で、その人の意外な一面だったり、自分との共通点がわかったりするのは面白い。

 

でも、そんな風に楽しく話している同僚や先輩が、ときに怪訝な言動をとることがある。僕からしたらあり得ないことを彼らが平然とやってのけるのを見ると、そのあまりにも大きな隔たりに名状し難い気持ちになる。

 

例えば、会社や自分が属している部署を「うち」とか言う人を見ると、ひやっとする。何が「うち」だよと思う。些末なことかもしれないが、自分がロイヤリティーを抱いていない組織を「うち」と形容する人とはどこか決定的な点で分かり合えないように感じる。というか、僕は今まで属してきた組織を「うち」と表したことがあっただろうか。思い出せない。

 

上司にわざわざ自分から話しかけ、世間話をする人も、どうかしている。僕は上司とコミュニケーションをとるとき、どうしても萎縮してしまう。なぜ少なくない数の人々は、自分のことを評価し、叱る可能性もある人とあんなに楽しくおしゃべりできるのだろう。わからない。

 

当然のことだが、社内には、評判のいい人もいれば、評判の悪い人もいる。僕としてはいい人だと思っている人を、仲のいい同期が悪く言うことだってある(その逆ももちろんある)。改めてその人の言動を眺めてみると、同期の気持ちがわかることがある。「そんな言い方せんでもいいじゃん」と思う言い方で、同期らに向かって話していたりする。そのことをもって別に嫌いになったりはしない。ただもやもやする。

 

というか、我々は「あの人ほんまはええ人やで」と安易に口にしがちだ。でもその「ほんま」とは何なのか。嫌いな人がいるとして、その人の「ほんま」の部分を知ったら、その人のことが好きになるという事態を僕はうまく想像することができない。ひとりひとりの人間にはあまりにも多くの側面があり、そのことを思うと、気怠さや疲労感に襲われる。みんな本当にわかりにくい。

 

最近話題がとっ散らかってしまいがちだ。給料の話をしていたかと思うと、いつの間にか働くとは何ぞやみたいな話をし、その後には社内の愚痴めいたことを書いている。全くつながりがないわけではない。でも、はてなブログ特有の(?)段落と段落の間の広い行間に助けられている感は否めない。

 

ここのところ、記事を更新していなかった。何も書くことが思い浮かばなかったからではない。日々色々思うことはあったが、それをうまいこと整理することができなかったのだ。先日走ったら思考がまとまると書いた。でも、今回はどれだけ走っても駄目だった。僕の思考はたゆたいながら、確実に沈んでいる。