玉稿激論集

玉稿をやっています。

狂いし日々のラプソディ

字を褒められると、ほとんど人格を肯定されたぐらいの気持ちになる。全然綺麗ではないし、走り書きなどはしばしば自分でも解読不能なのだが、それでもときに「字、うまいっすね」と言ってくれる人がいるのは僥倖だ。

 

今まで一体どれくらいの文字を書いてきただろう。その全てを糸のようにつながるとどれだけの距離になるだろうか。もしかしたら地球を何周もするかもしれない。

中学生の頃、板書を写すのは授業の内容を頭に入れるためというよりむしろ、字の練習をするためだった。小学生の気分の抜けないガキっぽさの残る字ではなく、兄が書くような垢抜けた字を書けるようになるため、納得がいくまで何度も消しゴムで消して書き直していた。勿論こんなことをしていたら、当然の帰結として決して速くはなかったはずの授業のペースにも着いていけなくなり、成績は下降の一途を辿った。後年当時のノートを見ると、そこにはページいっぱいに下手な字が書き連ねられていた。

今書いているような字になったのは、おそらく大学受験の勉強を本格的にやり始めた頃からだろう。冒頭でも述べたように、決して上手ではないが、自分自身でもそんなに嫌いではない。いやそれどころか、いい感じで書けたときには何度も見返してしまいさえする。跳ねるべきところはちゃんと跳ね、はらうべきところはちゃんとはねる。結局そんな平明極まりない結論に至ったが、どれだけ「普通」に書こうとしてもクセは出てしまう。それが自分で言うのもなんだが、なんとも味があるのだ。

有吉弘行が結婚を発表したときにツイッターに載せた文書を見て、改めて色んな字の人がいることを思い知った。まだ見ていない向きはぜひ見てほしい。極端に右下がりの字は、溢れ出る個性の表れにも思われるし、彼の控え目な性格を反映しているようにも感ぜられる。いずれにせよ、彼が字に少なくないこだわりを持っているのは確かだろう。

憧憬の念さえ覚えたのは三島由紀夫の字だ。書店で手にした彼の生い立ちを辿った本に直筆原稿の写真が掲載されていたのを目にして以来、定期的にGoogleで画像検索をして見返している。優雅でありながら繊細さも感じさせる達筆だ。

逆に、言うのが少し憚られるが、世間には驚くくらい字の下手な人がいる。お手本通りの持ち方でペンを握り、さらさらと、涼しい顔をして、大地震の最中書いたような字を、若しくはなんらかのイリーガルなケミカル物質をキメている最中に書いたような字を書いてみせるものだから、ちょいとぎょっとしてしまう。

まあ、上手にせよ下手にせよ、特に意識をせず字を書いている者の方が多数で、僕のように短くない期間己の書く字に心を砕いてきた者の方が珍しいのかもしれない。それなりに執心したものを褒められるのはなかなかに嬉しく、冒頭の一文に話が戻るわけだ。

 

ふと浪人中のことを思い出すことがある。人生で一番勉強していた、即ち一番字を書いていた時期だ。当時は志望している大学に受からなかったら人生が終わると割と本気で考えていた。今から考えると、あまりに馬鹿げているし、間違っている。おそらくそんなに簡単に人生は終わってくれない。あの頃の自分にもし一声かけることができるのなら、「まあ、そんなに肩肘張りなさんな」とでも言ってやりたいところだ。でもおそらく浪人の僕は耳を貸さないだろう。自分のことは自分が一番よくわかる。僕はそういう人間なのだ。

震えながら合格発表の画面をスクロールして、己の受験番号を見つけたときには嬉しさも勿論あったが、それ以上に安堵と疲労感を強く覚えた。「やれやれ、やっと終わったよ」。その瞬間に狂いながら死に物狂いに過ごした日々は終わった。それなのにー。

 

浪人時代に仲良くなった知人が、先般晴れて司法試験に合格したらしい。めでたいし、凄いのは勿論のことだが、それよりも何よりも「よくやるよなあ」と思った。受かったら弁護士やら検事やら裁判官やらへの道が開ける一方で、落ちて別の道に進もうものなら「司法崩れ」の烙印を押される試験に挑んだ彼の姿は、漫画『バガボンド 』で武蔵が使っていた「殺し合いの螺旋」という言葉を思い出させた。武蔵は強さを極めた上で「降り」、僕は何も極めぬままひっそりと後にしたはずのその螺旋に飽きることなく登る者がままいる。

いや、テキトーなことを言ってスカすのは良くない。「よくやるなあ」などという態度は、物理的には螺旋を見上げていながらも、精神的にはどこか「高みの見物」のようなことをしていないと、出てこない。自分もまた殺し合いの螺旋にしがみつかないでは生きていけない事実から目を背けるべきではないだろう。螺旋から転がり落ちたと思ったら、別の螺旋の上にいて、そこで相も変わらず殺し合いをしていた。遁世した僧侶のような達観した境地には未だ程遠い。本当に遠い、何もかもが。上田晋也的に言うと、天竺くらい遠い。が、しかしコツコツ地道に歩いて行けば、いつかは天竺にだって辿り着けるはずだ。

 

ここのところ折に触れて、働いているときでも、通勤退勤のときでも、休日に走っているときでも、プロ戦績50勝無敗で、歴代最強の呼び声も高いボクサー、フロイド・メイウェザー・ジュニアの名言「お前が遊んでいるとき、俺は練習している。お前が寝ているとき、俺は練習している。お前が練習しているとき、勿論俺も練習している」が反芻される。仕事で手を抜きそうになったり、熱量の多い食い物を買いそうになったり、走るのをサボりそうになっても、この言葉が僕をすんでのところで思いとどまらせる。肩肘を張ること、ストイックになることを兎角嘲笑しがちな風潮の中にあって、誰よりも強く、それ故に前人未踏の道を進んできた唯一無二のファイターが、己の努力にかような自負を抱いていることは、大抵の理不尽がしばしばまかり通ってしまうこの世界に未だ道理が通ずる余地があることの証左として、この世界が依然生きるに値する場所であることの証左として、僕を励ましてくれるのだ。

色んな人のYouTubeチャンネルがある。過去に世界を制した元チャンピオンや、今をときめくメジャーリーガーだって、各々のチャンネルを持ち、日々せこせこと大して面白くない動画を投稿している。でも、僕がトップの中のトップと目している人、ボクシングだと井上尚弥メイウェザー、野球だとイチロー大谷翔平YouTubeをやっていない。その意味するところを噛み締めたい。

 

ああ、僕は、俺は、私は、一体何の話がしたいのだろう。ここ最近の僕の文章は非論理的なのは勿論のこと、まるで腰が据わっておらず、そこかしこで「転調」してしまっている。

転調を繰り返す曲は聴きにくいが、ときに後世に語り継がれる名曲にもなる。ボヘミアン・ラプソディがその好例だ。ちょうど今該曲の最後の歌詞と同じ気分なので、引用して終わりにしたい。

 

Nothing really matters to me.

Anyway the wind blows…