玉稿激論集

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帰れぬ者たちー『服従』の主人公と宮迫とー

期間限定で配属されていた部署から元の部署に戻ってきたとき、とある先輩に「久しぶりの現場はどう?」と尋ねられた。

 

「いやー、やっぱり自分のいるべき場所はここだったんだなって思います」

 

そう答えた。適当に。いや、テキトーに。

 

「ここがまさに自分の居場所だ」と言えるような場所をもっている人が一体どれくらいいるだろうか。我々の多くはどこに行っても、ジグソーパズルのピースのようにぴったりとその場所にはまることができないのではなかろうか。上昇志向が強いわけでもないのに、常に「ここではないどこか」を探している。家で一人で過ごしていると、次第にやることがなくなり、物足りなさや正体不明の焦燥感に駆られる一方で、仲の良い友人と楽しく遊んでいるときには、ふとした瞬間に、猛烈な「帰りたさ」を感じたりする。でも、家に帰ったところで次第にやることがなくなり…と同じことの繰り返しだ。

 

一体我々はどこに帰ればいいのだろうか。どこに行けばいいのだろうか。両親の住む実家に?僕の場合は違う。だからこそ、育った町から遠く離れた大学に進学したし、就職のタイミングで親元に戻ることもなかった。もちろん久しぶりに帰省すると落ち着くし、楽しい時間を過ごせる。でも、パズルのピースははまらない。

 

行き場を失い彷徨っている者たちの物語は、そんな中途半端に根無草状態である我々に深く突き刺さる。YouTuberになった宮迫博之の人生はその好例だ。

 

世間を騒がせた闇営業騒動をきっかけに、テレビから姿を消した宮迫は、YouTubeを新たな活動の場とした。チャンネルを開設した当初から、彼の目標ははっきりしている。テレビの世界に、というかアメトーーク に、復帰することだ。彼はアメトーーク を「実家」と表現し、「やっぱり実家には帰りたいよね」とこぼす。でも、今のところ、宮迫がアメトーーク に復帰する気配はないし、これからもないと思う。勝手な想像だけど。

 

YouTubeでも宮迫は楽しくやっているように見えるが、やはりどこかに影がある。無理もないだろう。彼はカジサックのように一大決心をしてYouTuberになったわけではない。テレビから干されたという止むに止まれぬ事情があったから、「仕方なく」、本来なるはずではなかった(言うなれば見下していた)YouTuberになったのだ。

 

宮迫がYouTubeを全力でやっているというのは、紛れもない事実だろう。チャンネル登録者数だって120万人を超えている。でも、どれだけYouTube上の支持者が増えても、そこは彼の「ホーム」とはならない。そもそもの始めたきっかけからして、YouTubeは宮迫にとってテレビに戻るための踏み台を備えた仮の住まいでしかないからだ。

 

では、宮迫がアメトーーク に復帰できたらそれで何もかも元通りになるのかといえば、そう単純ではない。

 

万が一、再びアメトーーク のステージに立ったとしても、宮迫は以前のような輝きを放つことはできないだろう。件の闇営業騒動をゲストの芸人が面白おかしくイジる。それに対して宮迫が気の利いた返しをする。その様子を違法転載されたYouTubeで見ながら、僕は笑うだろう。でも同時に僕は思う。「何かが違う」と。宮迫も思っているはずだ。「何かが違う」と。一度自分を見捨てた「実家」は、もう以前の温かな「実家」とは違う。そこはどこか決定的な点で大きく変わってしまっている。宮迫自身にしたってそうだ。身から出た錆のせいで、彼は大きな負い目を背負って生きていくことになった。そんな彼が以前のように上から目線でゲストの芸人たちをイジることなどできないだろうし、もし仮にできたとしても、その様を僕たちは以前のように虚心に笑うことはできない。

 

騒動以降の宮迫は、どこにいても「ここではないどこか」を探し求めているように見える。言うなれば、放浪者、ボヘミアンだ。そしてその姿にこそ、現代を生きる我々の多くは強い共感を覚える。

 

ウエルベックの近著『服従』の主人公「ぼく」(名前は確かフランソワだった)も、彷徨う我々を写し出す鏡だ。中年の大学教授である彼は若くて美しい恋人といても、どこか満たされない。彼女が去ってからの状況はさらに悲惨だ。彼は文字通り孤独になる。スーパーで惣菜を買ってきてレンジで温め、酒と一緒に食べる。もちろん一人で。彼には話し相手となる知人はいるけれど、友人はいない。旅行にも一人で行く。

 

作品では、激動のフランス大統領選挙が描かれ、登場人物たちにより難解な政治論議がなされるが、フランソワが特定の政党を支持している様子はない。投票に行っている描写もなかった。多分行ってないのだろう。まあ、当然といえば当然のことだ。孤独を抱えた者にとって、右派がどうとか、左派がどうとか、はたまた中道がどうとかなど些末な事柄であるからだ。彼にとっての急務は、その孤独を癒してくれる誰かや何かを見つけ出すことである。でも、フランソワはそれを見つけられない。金で買った女は刹那的な快楽しかもたらしてくれないし、旅先の教会での信仰生活からも満足を得られない。

 

さらに悪いことに、作中で彼は両親まで失う。中年男が疎遠になった両親と死別するということ自体は、この世界において頻繁に起こることだ。しかし、どれだけありふれた出来事だとしても、一人の人間にとってそれが重大な事件であることに変わりはないと思う。

 

幸い僕の両親はまだ元気にしているけど(多分)、彼らがほぼ確実に僕より先に亡くなることをふとした瞬間に思うと、落ち着かない気持ちになる。でもだからといって、何ができる。将来感じるであろう悲しみから目を逸らして、日々の生活を続けるしかないのだ、結局のところ。

 

孤独な無神論者フランソワが、イスラームへの改宗を決めるのは、無理からぬことだ。改宗して復職したら、3人の妻をめとることができると言われたのだから。仕事を辞めた彼は復職を勧めてくる学長に、「イスラームの女性は顔をベールで覆っている。それは女性を選ぶ際に問題となる」という主旨の不安をオブラートに包んだうえで明かす。その人間味に我々は深く感じ入る。

 

改宗して3人の若くて美しい妻をめとった先に、フランソワは心の安息地を見つけられるのだろうか。わからない。わからないが、敗色濃厚な気がする。