玉稿激論集

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Flash Back(essay)

貴船神社に向かう電車が運休である以上、もう帰る以外の選択肢はなかったが、その前に済ませておきたい野暮用があった。通帳を切り替えるのだ。一乗寺より程近い、休日も郵便の窓口は開いている左京郵便局にて駄目元で聞いてみると、手前の自動現金支払い機を使えば通帳の切り替えができるとのこと。職員さんは私の黒い通帳を見て、少し申し訳なさそうに、

「ATMで切り替える場合は緑色の通帳しか出ませんけど、それでもいいのなら」

と付け加えた。確かに私は緑よりも黒が好きだが、背に腹は変えられなかった。

 

分厚い雲から予報通りの雨が降り頻る陰鬱な午後だった。道路を挟んだ郵便局の向かいには、数年前流血事件が起きたスーパー、イズミヤがあり、その奥に進むと暇で仕方ないときに行ってもそこまで時間を潰せないショッピングモール、カナートがある。いや、この頃はもう「カナート」ではなく、「洛北阪急スクエア」というらしい。ユーラシア大陸

 

久しぶりにカナートもとい洛北阪急スクエアに向かおうと思ったのには、2つ理由があった。一つはミスドでアイスコーヒーとゴールデンチョコレートを食べるためだ。こちらに越して来て個人経営の喫茶店やら飲食店やらに何度か足を運んで初めて気づいた、私はチェーン店が好きだったのだと。マック、松屋やよい軒タリーズミスド天一、トリキ…。そこでの店員さんのマニュアル化された応対は私を安心させてくれるし、味だって全然悪くない。対して個人経営の店はどうか。味に当たり外れが多いうえ、店員さんも役所の職員ばりに素っ気ないことがままある。強い口調で手指の消毒を要求されたり、席につくなり注文を聞かれることに我慢してまで行く価値は、ない。

もう一つの理由は以前のアルバイト先でお世話になった先輩が現在該地で働いていると聞き及んでいたからだ。初対面のしばしば不機嫌な他人とコミュニケーションをとること(接客)の基本を教えてくれた先輩と久闊を叙したかったのである。尤も、その日先輩がシフトに入っていない可能性は十分にあったが。今思えば、サプライズ訪問など好むところではなかったはずの私がかような行動を思いついたこと自体、その日は何かがおかしかったのかもしれない。

横断歩道を渡り、イズミヤの出入り口の一つを左手に見ながら、奥へ進む。するとそこに見覚えのある顔を認めて私は思わず足を止める。

マスクをしていてもすぐにわかった。彼は軒下で当時とそのままのガラケーをいじりながら雨宿りをしている風に見えた。当時より輪をかけて肉落ち骨秀でた頬。後退の進んだ頭髪。虚な眼光。フラッシュバックのように当時の記憶が一気に甦ってきた。

 

彼(以下Kという)がアルバイト先のファストフード店に入ってきたのは、私が大学を留年していた頃だった。店長の友人の弟というKは3年ほど前に大学を卒業したにもかかわらず、職に就かず日がな一日自宅を警備していたらしい。そこで、猫の手も借りたかった店長と息子を働かせたいKの家族の利害が一致して、Kはアルバイトを始める運びとなったのだ。

当時就職活動中で、あまりアルバイトをしていなかった私が久しぶりに厨房に入ると、やけに礼儀正しいおっさんがいた。それがKだった。年上の後輩がしばしばそうであるように、馴れ馴れしくタメ口混じりで話すこともなく、それでいて親しみやすさもあるKはすでに皆から慕われており、私もすぐに彼と意気投合した。

無事就活が終わると、私もシフトに入る頻度を大幅に増やし、小銭稼ぎに明け暮れるようになった。朝5時から昼の2時までという今思えば狂気の沙汰のようなシフトが私に割り当てられたのは、当時人手の足りていなかったアルバイト先において、特に不足していたのがその時間帯に勤務する者だったからだ。そんな酔狂な時間に就労するのは、暇を持て余していた私と元ニートのKぐらいしかいなかった。4時過ぎに起床して部屋で制服に着替え、その上にコートを羽織って出発する。6個のポケットが備わった薄手のコートも財布やら携帯やら鍵やらリポDやらを入れると、ずっしりと重たかった。叡山電車の線路沿いを浜田省吾の『ラスト・ダンス』を小声で口ずさみながら店に向かうと、ほとんどの場合Kはすでに到着していた。喉を鳴らしてリポDを飲む私を物珍しげに眺めていた。

誰よりもシフトに入れられていたKはその頃になると、厨房業務のスペシャリストになっており、私も店のオープン作業のやり方を彼から学んだ。いつの間にやら気心の知れた仲となっていた私に対しKはタメ口で話すようになっていたし、私の方もタメ口混じりの敬語でKと話していた。同期以外とは、先輩であれ後輩であれ必ず敬語を使う私にとって、これはなかなか稀有なことであった。

非常に捻くれた見方をすると、Kがタメ口をきくようになったのは、我々と親しくなったことの他にも理由がある気がする。限られた時間しかシフトに入ることのできない大学生が多数を占める店にあって、早々に誰よりも仕事をテキパキとこなせるようになった彼には最早我々に敬意を抱く道理などなくなっていたのだろう。私もKが社員を除いた誰よりも働いており、彼に多大なる負担を強いていることは重々承知していたから、彼の態度が幾分デカくなっているのを責められなかった。あまりに忙しくなるとバックヤードで声を荒げるのはどうにもいただけなかったが。

 

ただ私が我慢できるのは、自分に火の粉が降りかからない範囲の出来事に限られる。Kと一緒に働く時間が増えるにつれて、我々はしばしば衝突するようになった、毎回ほとんど同じようなことで。ここに備忘としてその概要を記しておく。

K「〇〇はここに置かなあかんやろ」

私「はい、そうですね、すみません」(←この段階ではまだ聞き流せばいいと思っている)

K「てかもう××してるん?早ない?」

私「そう?まあどうせやらんといけんことなんだから、別によくない?」(←次第にイライラを募らせている)

K「〜を先にするやろ、普通」

私「それってKさんの趣味ですよね?趣味を他人に押し付けるのやめてもらっていいですか?俺だってやるべき仕事は時間内に終わらせているんだから、口出ししないでください」

K「いや、俺のやり方の方が効率的やから言うてんねん」

私「Kさんにとってはそうかもしれんけど、俺にとっては違うんすよ。さっきからずっと己の趣味の話しかしていないのわかってます?どうなんすか?答えてください」(←Kのちょうど8倍面倒な奴になり仰せている)

K「もうええわ」

かような諍いがあっても、15分もしたら我々は再び普段通りのバカ話をしながら仕事を進めていた。でも、確実に我々の関係性に変化が生じていたように思う。衝突することは相手の醜さを抉り出すと同時に己れの醜さを曝け出すことを意味しており、一度でも言い争いになった相手に虚心坦懐に接することは不可能なのだ。だから私は誰とも衝突したくないと心底から思っているが、その一方で生来の捻くれまくった自我が頻繁に顔を覗かせるから始末に負えない。

 

大学卒業とともにアルバイト先を辞すときに渡された色紙に残されたKからのコメントがあまりにも当たり障りのないものだったから、私は送別会にてKに「もう少し血の通ったことを書いてくださいよ」と酔った勢いで頼んだ。果たしてKが書き直した新たなコメントは、「もう少し素直に人の言うことを聞けるようになったらいいと思う」といったものだった。「血ィ通い過ぎです、親みたいなことを言いますね」と言うと、Kは笑った。

今年の引っ越しの際、その色紙は処分した。

 

就職して一年が過ぎた頃、アルバイト先で同期だった者からの連絡でKが店を辞めたことを知った。別に定職が見つかったわけではなく、これまで通りのニートに戻るとのことだった。

 

今回思いがけずKを見かけて、以上のことが一気に思い起こされた。私は彼に声を掛けなかった。掛けたくなかった。なぜか。

自分が彼を見下していたことに気づいてしまったからだ。Kが我々に敬語を使わなくなったことに敏感に反応し、その経緯を邪推までしていた一方で、私は彼にタメ口をきくようになった己の心理を具に分析するのを怠っていた。今になって思うと、自分より3つも年上で未だ定職に就いていない彼をどこかで見下していたからこそ、的確な忠告も「趣味を押し付けるな」と唾棄するようなナメた真似ができたのだ、自分も浪人の末何とか入った大学で就活に挫折し、留年している身でありながら。なんとも醜い話だ。

「人を馬鹿にしたり見下したりするのはよくないことだ」という主張に私は全面的に賛成する。「下を見ても仕方がない」というのもおそらくはその通りなのだろう。それでもなおこう思わずにはいられない、下を見ることで得る安心感だって確かにあるし、時にはそれが自分を支えてくれさえすると。

 

明治維新とともに四民平等の世になったはずのこの国にも列記としたカーストがある。非正規労働者よりも正規労働者。高卒よりも大卒。一般職よりも総合職。書評家よりもエッセイスト。エッセイストよりも小説家。今般紛いなりにも正規労働者になった私が、未だニートの(違ったらマジで申し訳ない)のKに自ら声を掛けて一体何を話すことがあろうか。「Kさん今何やってんすか」などと尋ねる残酷な所業に私は手を染めたくなかったのだ。

 

程なくして辿り着いた洛北阪急スクエアに目当ての先輩はいなかった。ミスドゴールデンチョコレートも生憎売り切れており、私は薄味のアイスコーヒーだけを飲んで帰路に着いた。