玉稿激論集

玉稿をやっています。

シャングリラ(fiction)

(1)

「次いつ宅飲みするんすか?」

「まあ、いつでもいいっすよ。でも部屋が散らかってるんでね、掃除をしないといけないのが面倒ですわ」

夜勤終わりの後輩に聞かれ、俺はそう答える。古びた事務所の中。床は黒ずみ、椅子はガタ付き、そこら中に書類が散らかっている。眠い、朝だから。

 

「そんなこと言っておきながら、僕が行くってなったら、楽しみになって、部屋もめっちゃきれいにするんじゃないですか」

見透かしたような切れ長の目で彼は言う。まあ、当たらずとも遠からずというところだ。一人で暮らしている分には、部屋を掃除する必要というのはほとんど生じない。布団の上でほとんどの用を済ますことができる以上、埃もさほど舞わないし、舞ったとしても気にしなければいいだけの話だ。誰かが来訪する段になって、虚心に眺め渡すと、たいそう散らかっている(汚れているのではなく)ことに気がつき、掃除に取りかかる。別に知人の来訪を楽しみにしているわけではない。部屋を訪れた彼らに引かれたくないから、一応片付けておく。それだけのことだ。

 

「ちょっとおもろい話があるんすよ、〇〇さんの家行ったとき話しますね」と言う後輩は、また何か女関係でやらかしたのだろう。彼は社内で気に入った女子社員がいると、先輩後輩問わず積極的にアプローチする。俺の見る限り、あまりうまくいっている様子はないが、決してへこたれない。次から次へと声をかけている。俺たちが列をなしている客に向かっていつも言い放つ台詞「Next !(次の方!)」をそのまま座右の銘にしているかのようだ。そんな自分とはまるっきり異なった性格の後輩と、俺は不思議と気が合った。彼がなぜ俺を慕っているのかはわからないが。

 

「なんかいい知らせがあるんすか?」

「いや、悪い知らせです」

「どうせ自分がまいた種でしょ」

そう言うと、後輩は苦笑いしたように見えた。

そうして後輩は退勤時間を迎え、俺は始業時間を迎えた。

 

(2)

その日は仕事が休みで、俺はいつもの休日と同じように怠惰な朝を過ごそうとしていた。遅くに起きて、テレビを見ながらまずいコーヒーを飲む。テレビのつまらなさに気づいたら、YouTubeを見る。眠くなったら再び布団に潜り、気がついたら午後3時になっていて落胆するいつも通りの休日。そんな休日を過ごせるという、全く淡くない筋金入りの期待は、昼過ぎに入った一本の電話により脆く崩れ去った。

 

「今、仕事終わったんですけど、宅飲みするの今日の夜でいいすか」

タクノミ?宅飲み?ああ、そんな話もしてたなとそこで思い出す。今日飲みたくて仕方がないというわけではないが、断る理由も見当たらない。俺は了承を伝えて、電話を切った。今夜は鍋を食おうと思った。そのために鍋を買おうと思った。

 

予定が入ると、人生は音を立てて動き出す。俺は布団から起き上がり、ベランダの窓を開けた。冷たい空気が部屋に流れ込み、それと同時に数日間部屋に溜まっていた淀みがのろのろと外を吐き出されていく。部屋に吹き込む気持ちのいい風が床の埃を舞い上げるなか、俺は久しぶりに掃除機をかけた。

 

散らかった部屋には不要なものが溢れていた。何ヶ月も前の公共料金の請求書から、就職試験のときに使用していた参考書まで。それらを全て処分すると、部屋はなんとも無機質な空間となって、俺の前に現前した。座禅を習慣としている知人が以前この部屋を訪れたとき、「こんな部屋ではいい"座り"はできない」などと言っていた意味が、今になって少しわかったような気がする。当時は部屋をきれいにしなければ悟らないのなら、悟らなくていいと思っていたし、今にしたって悟りの境地に至りたいという願望はないが、座禅を組んで無みたいなものと向き合うのなら、目の前の風景はできるだけ整頓されていた方がいい。まあ、俺には関係のない話だが。

 

(3)

スーパーで鍋の具材を買って帰ると、後輩はすでに一人で部屋に座って缶ビールを飲んでいた。「遅くなるかもしれないから、郵便受けに鍵を入れといた。俺がいなかったら勝手に入っといてください」と言ったのは自分だから、驚きはしない。でも、なぜか「ほんまに勝手に入ってるやん」と思う。俺が逆の立場なら入るだろうか。多分入らない。まして勝手に酒を飲むなどしない。「育ちの違い」の一言では片付けられない大きな隔絶がここにはある。そんなことを考えながら、俺は冷凍庫で冷やしたグラスを後輩に差し出した。ビールは缶で飲むよりグラスに入れた方がうまいからだ。グラスが冷えていると、なおよい。

 

「実は僕、女と同棲してたんすよね、もう別れたんですけど…」と後輩が話し始めたのは、我々の会話が途切れたためだけではなかった。そもそもの事の成り行きからして、彼はこの話をするために今ここにいるのだった。

 

後輩には入社する前から同棲していた恋人がいた。一歳年上の中卒の女。女は別れた旦那との間にできた子を連れていた。後輩は女との快楽のために二十歳そこらで血の繋がっていない子どもから「パパ」と呼ばれる人生を選んでしまう。当初はうまくいっていた。血の繋がりはないとはいえ、毎日一緒に過ごしていたら、愛情は湧く。おもちゃを買ってやったりしたし、手を繋いで遊園地にも行った。決して派手ではないけれど、慎ましやかな幸せがそこにはあった。

もちろんそんな日々は長続きしない。恋人が別れた旦那に多額の借金をしていたことがわかると、後輩はそれを肩代わりし、毎月の少ない給料を返済に充てた。こうなると次第に、子育てのためとはいえ働きに出ない彼女に苛立つようになってくる。大体、連れ子はもう保育園に入る年齢なのだ。

後輩が乗り込んだトロッコはしかし、暴走を止めない。彼女は後輩の子どもを身ごもっていた。

 

「じゃあ結婚することを考えてたんですか」

俺はくたくたになった白菜を頬張りながら聞く。

「そりゃ、考えますよね、さすがに子どもできてるし。でも彼女、死産しちゃったんですよ」

「え」

部屋の空気が固まる。純度100パーセントの沈黙が流れる。俺はかけるべき適切な言葉を探す。頭の中にはない。部屋の隅にも言葉は転がっていない。なにせ、この部屋は掃除したばかりなのだから。

俺は数秒の沈黙の後、「いろいろ大変でしたね」とだけ言った。

 

毒にも薬にもならない言葉だと思うが、不用意な一言で相手を傷つけたくなかった。本当は「荷物は少ない方が生きやすいんじゃないですか」と言いたかった。どこかの歌手も「手ぶらで歩いてみりゃ楽かもしんないな」と歌っているじゃないか。若く、金もない君が借金を抱えた女や血の繋がっていない連れ子に加えて、小さな命まで背負って生きていくことはない。そんな必要はどこにもない。偉そうにも、年上というだけで、俺はそんなことを考えていた。

 

後輩と同棲していた女に対しては、あまりいい気はしなかった。別れた旦那との間の子を連れた中卒の女。多額の借金も抱え、ついには後輩との間に子を身ごもった、数え役満の女。現実には存在するとは思っていなかったそんな女が後輩の人生に現れ、彼に消せない負い目を残して去って行ったことを思うと、無性に腹が立った。

 

「〇〇さんこの前僕が悪い知らせがあるって言ったら、『どうせ自分がまいた種やろ』って言ったじゃないですか。僕あのときうまいこと言うなあって思ったんですよね。まさに自分のまいた種で起こったことじゃないですか。もしかして知ってました、この話?」

俺の感情をよそに後輩はヘラヘラしている。安心した。安心ついでに後輩に彼女と別れた時期を尋ねると、思いのほか最近だった。ということは彼が職場の女子社員に熱心に声をかけ、食事にこぎつけた頃、まだ彼は中卒の女と付き合っていたことになる。そのことを指摘すると、後輩は「まあ、いろいろ目移りするじゃないですか」とおどけ、俺は爆笑した。後輩がわかりやすいクズであることが嬉しかった。

 

別れ際、申し訳程度に鍋の食材や酒の代金を払おうとする後輩の申し出を俺は言下に断った。遠路はるばるやって来て面白い話を聞かせてもらった上に、金まで要求できないだろう。それに、彼も来る途中につまみをコンビニで買ってきてくれていた。結局手をつけなかったから、明日以降の俺の晩酌に供されることになる。つまみの他は何も持って来ていなかった後輩は、手ぶらで夜の闇に消えていった。