玉稿激論集

玉稿をやっています。

針を打つ

 最近どうも肩肘を張った根性論に傾倒していたきらいがあって、ダサいことこの上なかった。曰く、「お前が遊んでいるとき、俺は練習している。お前が寝ているとき、俺は練習している。お前が練習しているとき、勿論俺も練習している」だとか、やるっきゃない、Just do it. だとか。いやはや恥ずかしい。本来の僕はかような暑苦しい人間ではないのだ。そろそろ酔いも覚めてきたので、従来通りスカし、鳥の目線で高みの見物を決め込むことにする。ストレッチをして、アキレス腱をしっかりと伸ばして、俯瞰的な視座へと連なる階段を駆け上がろう。

 

 そんな斜に構える僕の新章(いけない、いけない。「スカす」と言ったそばからえらく肩に力が入っている)の最初のターゲットとなるのは、当今多くの人が血眼になって欲しているコロナワクチンだ。募集をかけた途端に応募が殺到し、厳正なる(?)抽選の結果、「サクラサク」者と「サクラチル」者に二分される大人気アイテム。僕の周りでも帰りの電車に揺られながら延々とスマホ画面を連打していた人もあれば、大阪に住む親の会社で職域接種の枠が一つ空いたということで、わざわざ北海道から帰阪した人もある。

 僕はというと、当初はスカしてさえおらず、職場で繰り広げられるそんな四方山話をまるで他人事として興味深く相槌を打っていたのだが、とある先輩社員からの「接種券届きましたよね?」なる付加疑問文に否定で答えると、一寸一座が騒然となった。

 大人気のコロナワクチンは座して待っていても回ってこないのは勿論のこと、接種の際には接種券なるものを携行しておく必要があるらしい。目を丸くしながら話に耳を傾けていると、親切な先輩は市の問い合わせ窓口の電話番号を調べて教えてくれた。後日架電し、おずおずと「あの、まだ、接種券が届いていないんですけど…」と切り出すと、転入したばかりの新参者は7月末以降に届ける由を伝えられる。果たしてその言の通り、去る7月25日ようやっと「新型コロナウイルスワクチン接種券」が我が居宅に投函された。

 しかし、本当にワクチンを打ちたいのなら、この時点で喜ぶのは尚早に過ぎるらしい。接種券を手にしただけでは未だスタートラインにさえ立っていないのだ。そんな話を聞かされるうち、頭の中に地元の方言でもあり、全てのネガティヴな状況を言い表すのにぴったりなあの二文字が思い浮かぶ。大儀。

 そもそも僕はこと面倒くさがりな点においては、西日本でもトップ層に入ると自認している。引っ越しなど、明確なタイムリミットがあることでもだらだら後回しにしてしまうのに、特に強制ではないワクチン接種となると尚更だ。何が悲しくて自ら注射を希望するのかという思いもある。

 それともう一つ(こちらの方がより重要だ)。何を今更と言われるかもしれないが、ワクチンを打つのが世界的な潮流となっているから敢えてそこに斬り込ませてもらいたい。ワクチンの安全性についてである。接種後発熱したり頭痛を引き起こしたりする場合もあるが、概して安全であるというのが世間一般の評価であり、僕もそれにわざわざ異を唱えるものではない。まして、自宅付近にてマスクも着けず痩せこけた顔をぶら下げて「コロナに疑問を持っている人へ」と記されたビラを配っている連中には一欠片も共感していないつもりだ。それでもどこかで不安みたようなものを感じているのもまた事実なのだ。10年後とか20年後に副作用が起こらない保証はあるのかと。そんなものはないだろうと。ああ、なんてありふれた、なんて月並みな不安だろう。

 それだから、コロナワクチンの接種に向けてはあまり能動的に行動しないことに決めた。ガツガツ動き過ぎて後年悔いてしまうのは避けたいからだ。枠が空いたら打とう。これぐらいのスタンスを保っていれば、ワクチンにより後に何らかの苦しみに苛まれたとしても、「まあ、あのときはそういう雰囲気だったし、仕方なかったよね」とのメンタルでもって、スカし面を決め込めるだろう。要するに、何となく時代の流れに合わせて接種したとの免罪符を片手に生きていきたいのだ。タンポポの綿毛のような我が身は、時代の風によってどこまでも吹き飛ばされる所存だ。