玉稿激論集

玉稿をやっています。

寝ぼけ眼の先にある傑作を夢見て

月に3本ぐらいはブログを更新したいと思っているから、少し前からそわそわした日々を過ごしている。

しかしどうにも何も思いつかない。何個か下書きをしてみたものの、面白くなる気配がなく、中途で投げ出している。改めて読んでみるとそんなに面白いことを言ってなかったとしても、書いている間ぐらいはある種の全能感を味わいたいから、何とも歯痒い。

おそらくテーマを決めて書こうとするからうまくいかないのだろう。「…について考えてみることにする」などと息巻いてしまうともう駄目だ。自縄自縛。だから今回はちょいとばかり趣向を変えて、好き勝手気儘に書いてみることにする(←この宣言さえ自縄自縛に陥っているが)。

ここ最近は西村賢太の小説を貪るように読んでいた。もう未読のものはほとんど残されておらず、読まず嫌いを決め込んでいるエッセイの類にも手を出そうかなどと思案している。まんまと西村賢太もとい北町貫多の策略にはまってしまった格好だ。私小説家の西村の小説に出てくる自身を模した主人公北町貫多は、服装や髪型といった身だしなみには全く気を払わず、風呂にも1週間に1回ぐらいしか入らないほどの不潔っぷりだが、好きな小説家のレア本のことになると、異常なまでのこだわりをみせる。文字通り東奔西走するのは勿論のこと、一冊の本のために常人では考えられない金額を出す。管理に関しても抜かりない。一冊一冊丁寧にパラフィン紙をかけて保管している。師事した小説家が書いたものであるならば、書籍化されず文芸誌に掲載されたのみの作品や随筆の類、果ては友人に宛てた書簡まで全て手に入れないと気が済まない貫多の姿は、西村賢太の小説世界にのめり込んでいる私をして、書店やインターネットの密林に向かわせ、彼の作品をどしどしと買わしめたわけだ。せっかく手に入れた好条件のアルバイト先を自身の愚かな行為によりクビになる。賃料を滞納し続けて家主から追い出される。短気を起こして同居している女に手を上げる。大別してこの3パターンの話がさほど手も品も変えられぬまま繰り返されるだけではないかと言われれば返す言葉もないが、そこにはとてつもない引力がある。何といっても、文章が面白い。一人で部屋で読んでいると、声を上げて笑ってしまうことがままあるほどに。特に貫多が女に悪口を一気に捲し立てるところは圧巻で、よくもこんなにテンポよく酷い言葉を並び立てられるものだなと感心してしまう。話のオチが基本ハッピーエンドでないのもいい。無頼派と評される西村賢太が書いているのは実は勧善懲悪のフィクションで、大抵の場合貫多が手酷い目に遭って幕切れとなる。だから物語の中盤くらいまでやけに貫多の思い通りに事が運んでいたりすると、私は「さて、これから貫多は何をやらかすのかな」と彼の失敗が待ち遠しくもなり、実際に彼が自ら破滅への道を切り開くと、「やっぱりこうなってしまうよな」などと微笑ましい気分さえ覚える。

そんなわけで、狭小極まる私の居室には今そこそこ堆く西村賢太の小説が積み上げられており、積ん読状態のものがあった先日までは、それを読みながら晩酌するなどといった贅沢この上ない時間を過ごしていた(本を読みながら酒を飲むといった行為も私は貫多から教わった)。振り返ると、私は西村賢太にのめり込むまで積ん読なる所業をしたためしがない。書店に行くのは手持ちに読むべき本がなくなったときに限られ、そこで買うのも長時間をかけて厳選した一冊だけという、禁欲的な読書生活を長らく続けていたのだが、本に対しては金に糸目をつけない貫多の姿勢に感化され(思いがけず韻を踏んでしまった)、先日などは据え置きの買い物籠を手に書店内を歩き回るという貴族の真似事をした挙句、ハードカバー2冊(うち一冊は西村賢太)と文庫本1冊を購入して真の貴族の仲間入りを果たしてしまった。引っ越しのときに荷物を詰めた段ボールの上に積まれた、既読の作品と未読の作品を眺めていると、自然と表情が綻ぶ。「己の本棚を見てにやけるなど悪趣味だ」、「作家こそがクリエイティブなわけであって、読んだだけのお前はクリエイティブでもなんでもない」、「再読しないのなら捨てた方がいい」。昨今増えてきたミニマリストなる者たちはそんなことを言うかもしれないが、一向に構わない。ミニマリスト共の言い分は一面では確かに真理をついている。でも、やはり、私は本棚に並べられた本こそが、人格の重要な部分を形成し、それが己の創造性に繋がりさえすると信じてやまないものなのだ。「合理的な人間」を自称していた在りし日の御大の引っ越しの手伝いをしたとき、悪ふざけで「ここらへんの本、読んでないんですよね?じゃあ捨てる方が理にかなっているから捨てますね」と言ったら、「本は合理性を超える」と制止されたのを今でも思い出す。

 

それはさておき。

 

大谷翔平が凄すぎる。我々は毎日歴史を目撃している。メディアもネットも彼の活躍をたいそう騒ぎ立てているが、全然まだまだ騒ぎ足りない。現役のどんな打者も投手も彼の前では霞んでしまう。いや、歴代のすべての名選手を含めても彼がベストのプレイヤーだ。バッターとしては誰よりもホームランを打ち、ピッチャーとしてはありえないスピードの豪速球でバッターを手玉に取る。もう、ほんとに、バケモンなのだ。

輝かしい成績を残してきた往年の名プレイヤーや解説者連中も彼を正確には論評できない。だってこんな選手これまでいなかったのだから。と、そんな話をしていたらまたホームランを打った。まだ前半戦なのにもう33本目だ。あの松井秀喜の記録を易々と超えてからなお、留まることを知らない。一体この男はどこまでいくのか、全く末恐ろしい、いや、すでにして恐ろしい。

昼休みにネットニュースをチェックすると、大谷の活躍が目に飛び込んでくる。元気が出る。そんな僕のような人間がこの国に一体どれほどいることだろう。彼が持つ偉大なる力だ。

 

もともと西村賢太のことと、大谷翔平のことを分けて書こうと思っていたのだが、取り止めもなく一思いにまとめてしまった。いや、全然全くまとまってはいないか。まあ、いい。

早い時間に床につくと、大抵夜中に目が覚める。ブログを書きあぐねているときには、寝ぼけた頭にぼんやりとではあるが、素晴らしいアイデアがしばしば浮かんでくる。今一気に書いたら半端じゃない傑作になるなと思う。でも眠いから明日起きて書こう。翌朝には全てを忘れ、頭には靄がかかっている。またいつもの日常だ。

それでもー。

寝ぼけているときの僕が傑作をイメージできていたのは紛れもない事実なのだ。それをどうにか、どうにか現実へ手繰り寄せたい。