玉稿激論集

玉稿をやっています。

借り物競走の果てに

みすぼらしい身なりをしている。通勤時に履くジーンズはすっかりくたびれているうえ、上っ張りのワイシャツもアイロンがけなどはしないから、洗濯するたびに着実によれていく。靴だって2019年の1月にアウトレットで購入した時点で既に型落ちだったプーマのレーシングシューズを2年半にわたってほぼ毎日履き続けており、ゴム底が大分擦り減ってきた。17歳の誕生日以来何処に行くにも身につけている腕時計は、10年選手の割には状態が良好に保たれているが、買ったときのままなのは本体だけで、電池を何度も交換しているのは勿論のこと、ベルトも確か3、4回は買い替えている。社会人になるタイミングで買ったメガネはネジが緩みきっているし、大学入学時より使用している財布に至っては、ほぼ瀕死状態だ。

愛着が湧いているから使い続けているものもあれば、単に買い替えるのが面倒だからという理由で漫然と使い続けているものもある。いずれにせよ確かなのは、これらのものは全て私ではない誰かが作ったものだということだ。身につけているものを一つずつ外していくと、生まれたときの姿に戻る。では己の身体は自分のオリジナル製品なのかというと、甚だ疑問だ。日に日に経年劣化しているそれだって元を辿れば両親から生成されたものであるし、ここのところは主に誰かの作ったスーパーの惣菜によって維持されているシロモノだ。

 

相変わらず西村賢太を読み耽っている。昨日ブックオフに立ち寄ったら、すでに読了している小説の左隣に未読の随筆があった。私はエッセイ集などは基本的には読まないが、もう西村賢太の小説のうち、未読のものがほとんど残されていないとなると、彼の文章に触れるためにはすでに読んだものを再読するか、こういった未読の随筆に手を伸ばすしかなく、割にあっさりと購入した。帰宅して早速開いてみると、小説とはまた異なった味わい深い文章がいくつも収められていて、何ともいい感じ。あっという間に読み終えてしまった。

かように好きな作家に偏執的にのめり込むのは、西村賢太の生き方でもある。「でもある」などというと、まるで私がオリジナルで西村の方が二番煎じのようにも聞こえるが、勿論その逆だ。しかも、彼ののめり込み方は私のような中途半端なものではない。絶版となった古書を手に入れるために東奔西走するわ、一般に流通している版のみならず、出版当時に検閲により削除された箇所がそのまま残されている版(いわゆる「無削除版」)を法外な高値で買い取るわ、単行本化されなかった雑誌の連載記事、果ては友人に宛てた書簡までも入手しないと気が済まないという狂い様だ。それに比べると、私の西村賢太熱など、彼の生き方の下位互換ですらないだろう。良くて猿真似程度のものだ。

そうは言っても、ここまで一人の作家に入れ上げるのは初めてだというのもまた事実であって、今日も件の随筆を読了したそばから早速インターネットの密林に赴き、次に購入する西村の著作を検討したり、昨日ブックオフにて同時に購入した彼が敬愛して止まない横溝正史の著作をパラパラめくったりしていた。

と、そこではたと気づく。いや、この表現は些か不正確だ。「目を背けていたものの、ずっと心中にあった思いが疼き出す」といった方がまだしも的を得ているだろう。こんなことをしている場合ではない。自分も何か書かなければ。

我ながら作家でもないのに見上げた心意気だ。僕は、俺は、私は、いつからこんな風に余計な肩肘を張るようになったのだろうか。わからない。ただ、思ってしまったものはどうしようもない。

読書に精を出していると、どうしても己が書くことが疎かになってしまう。これには私の読むスピードが滅法遅く、本を読むのに時間をとられてしまうことのほかにも理由があるように思われる。

一つには、私が読書を高尚な行為と捉えていることが関係している。口では「スマホでネットニュースを読むのも、本を読むのも文字情報を追うという点では変わりはない」などと嘯いていながら、心のどこかではスマホをイジるよりは読書をすることの方がはるかに意義深いと思っているからこそ、読了したら積ん読状態になっている未読の作品に手を伸ばすことに何らの後ろめたさも感じない。

もう一つは、ーこちらの方がより本質的なのだがープロの書いたものを読むと物怖じしてしまうからだ。素晴らしい作品と出会い、感動することは、勿論人生における大きな喜びの一つであるが、同時にそれは自分との力量の差をまざまざと見せつけられる体験でもある。こういう場合に、創作意欲なるものを駆り立てられ奮起する者もいるのかもしれないが、私は断じてそんなことはなく、へなへなと気萎えする意気地無しなのである。

 

大学生が書く論文なりレポートなりであれば、これら2つの困難を克服するための方策をうだうだと講ずるのであろうが、この雑文はそのいずれでもないので、そんな野暮なことはしない。

一周回って、いや、三、四周回って、忌み嫌っていたはずの「どれだけ立派な論を口先で構築しても、実践に移さなければ何の意味もない」なる考えに立ち戻った感がある。どれだけ辛くてしんどくても、理屈など関係なく、やるっきゃないものはやるっきゃない。

 

Just do it.

 

借り物で塗り固められた己からオリジナリティが生まれるとしたら、それはこの苦難の中からでしかあり得ないのだから。