玉稿激論集

玉稿をやっています。

在庫整理的投稿

 以下、酒の入っているときに書いた雑文である。興に乗って書いているうちに眠気に襲われ、続きは明日にでも書こうとそのまま床に付いたのだが、朝起きると見返す気も起きない。しょうもないことを徒に書き連ねた苦い記憶が鮮明に残っていたからだ。本来こんな面白くもなく支離滅裂な文章はお蔵入りさせるのが筋なのだろうが、折角書いたものを己のフォルダの中にだけ残しとくがものもないので、また、ちょうど今はバイオリズム的に堂々と生き恥を晒す生き方にある種の「粋」を感じている時期なので、ここに次回からは素面で書くとの自戒の念を込めつつ投稿する。

 

 運転免許が紙と化して久しい。男としてあるまじき醜態だ。男たるもの、ハンドルを握り、ダルそうな顔をしながら、どこまでも遠くへ行くことができるべきなのだ。絶対に、必ず、そうなのだ。

 ペパドラ(無駄に略してみた)になった第一の因は、仕事で運転する必要がなかったからだ。もしバリバリの営業マンで、毎日取引先を回る必要があったのなら、現今のような情けない状況に陥らずに済んだのであろうが、幸か不幸か出勤したら退勤するまでずっと会社にいるような職に就いてしまったがために、ドライビングスキルを磨く必要性に駆られずに今日まで生きてきてしまった。無論同僚や上司にはマイカーを所有し、世間一般並みの運転技術を有する者が相当数いることを勘案すると、こんなのは言い訳にすらなっていないだろう。主たるところは僕の怠惰と臆病によるものなのだ。

 己が西日本トップレベルの面倒くさがりであることは先日も当ブログで述べたところだから、ここでは僕がいかに臆病であるかにスポットライトを当ててみたい。

 他人ことはわからないからテキトーな言明にならざるを得ないが、僕の心配性、臆病、神経質の程度は世界でも通用するレベルだと思っている(大体、本来必要のない「他人のこと〜得ないが」との予防線を張っていること自体、僕の臆病さを物語っていよう)。ネガティヴ界の大谷翔平。いや、こちとら三刀流だから、ネガティヴ界のロロノア・ゾロといったところか。まあでも本当に、自分でも嫌になるくらい、常に何かに怯えて生きている感がある。一度不安になりだすと、もうどうしようもない。朝、マンションを出てから鍵を閉めたか確認するために引き返すなど日常茶飯だし、ようよう施錠を確認してエレベーターに乗る段になると、今度は所定の位置に預金通帳や旅券が置いてあったか不安になり再度居室に戻ったなんてこともある。「鍵閉めたっけ」なり「通帳あそこにあるはずよな」なりの不確定な思いを抱きながらその日一日を過ごすなど到底耐えきれないのだ。

 案外早く決まったコロナワクチンの職域接種も懸念材料でしかない。注射が嫌いで(と、打ったら予測変換に注射器の絵文字が表示された。一体Appleは何を考えているのか。)、接種日が決まった途端にメランコリーに突入するのは、前記事で書いた通りなのだが、マイナスの想像力は羽を広げ、さらに遠い未来へ僕を導く。あと十数年もすると、人間ドックを受診せねばならぬ年齢になり、そのときには否応なしに血液検査をさせられるのは勿論のこと、胃カメラも飲まねばならぬ。あんなもの飲みたくない。どうしてもというのなら、全身麻酔をかけてほしい。病気が発覚したときには、もう手遅れであってもいいから、身体にあのような管を入れたくないと思うのが人情だろう。あと十余年。十余年前は高校生だった。それから今まであっという間だったし、時の進むスピードはここに来てさらに早まっている。

 仕事、私生活、健康、金といったポピュラーな関心事も当然僕の不安の射程圏内にあるが、それを開陳するのは流石に露悪的に過ぎるのでやめておく。ただ一つ言えるのは、僕は自分がすると決めた習慣が頓挫するのを極度に恐れているということだ。今日できたことが明日もできるとは限らない。数学的帰納法は人生においては成り立たないのだ。

 

 改めて読み返すと、それほど酷くない気もしてきた。というより、いつもとあまり変わらない。いつもと同じでド下手である。運転免許の話もすぐに雲散霧消しているし。もう少し手と品を変えて、ここでぶちまけた感情の断片を筋道立てて書けるようになりたいが、今日のところはこんな感じで。