玉稿激論集

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脳中の雑音

 映画『ベイビー・ドライバー』の主人公が耳鳴りをかき消すためにイヤホンをつけたまま生活しているのを奇異の目で眺めていた。そんなことをしたところで、音楽が耳鳴りにとって代わるだけではなかろうかと。

 音楽を聴くのは人並みに好きな方だと思う。けれど、イヤホンから爆音を流しながら通勤・通学をした経験は皆無だし、学生の頃はお気に入りの曲を聴きながら勉強する知人に怪訝な眼差しを向けていた。自分にはそんな器用な芸当はこなせないからだ。だが、何かをしながら音楽を聴かない理由はそれだけではない。

 思うに、吝嗇な自分は好きな曲を「聞き流す」ことにある種の勿体無さを感じているのだ。YouTubeで好きな曲を聴いているとき、無意識のうちに気に入った箇所が流れ終わっていると、わざわざ巻き戻して聴き直すことがしばしばある。そうかと思えば、曲の途中で長めの間奏が入ったりすると、次の歌詞の部分まで早送りする。落ち着きのない性格だと自分でも思うが、大仰に言うとこれが僕の音楽に対する向き合い方なのだ。 

 ごくたまに同じ曲を日に数十回聴く。それはTHE YELLOW MONKEY の『プライマル。』のこともあれば、YOASOBIの『ハルジオン』のこともあれば、はたまたOfficial髭男dismの『イエスタデイ』のこともある。何に惹きつけられてそんなにリピートしているのかはわからない。あるいは何かから逃避しているのかもしれない。現に当記事を書きあぐねている今、僕は猛烈に音楽が聴きたくなっているし、執筆中たださえ短い集中力が途切れた際にはしばしばYouTubeで音楽をかける。プレミアム会員はバックグラウンド再生の恩恵を享受できるのだ。でもすぐ切る。音楽を聴いて画期的な文章の展開が思い浮かんだことなど一度もない。文章を書くうえで音楽は何の解決にも慰めにもならない。

 同じ曲をヘビーローテーションしていると、その曲がゲシュタルト崩壊を起こしているような感覚に捉われることがある。何度も繰り返し聴いているはずなのに、サビさえも口ずさめなくなるのだ。歌詞は思い出せるのだが、どんなメロディだったかわからない。歯痒いからもう一度聴き、目当ての箇所のメロディが流れ終わると、やっと少し落ち着きを取り戻せる。どうにか思い出したメロディを忘れたくないから、もう一度聴く…。特に予定のない休日がこうした無為の反復のうちに埋もれてゆく。

 弊害はそれだけに留まらない。いや、むしろこっちの方が深刻だ。同じ曲ばかり聴いていると、その曲が頭にこびりついて離れなくなってしまうのだ。こうなると些か厄介である。大事なときに限って、集中せねばならないときに限って、脳中に雑音が鳴り響く。頭をコツコツ叩いても無駄だし、いつかのヘビーローテーションを悔やんでも後の祭りだ。

 だから受験生のときなどは、意識的に音楽を聴かないようにしていた。試験本番にたださえ訳のわからぬ評論文を読みながら、脳中に流行りのポップミュージックが流れていたりしたら大変だ。

 当時はそんな怯えを抱えており、歌番組なども殆ど観ていなかったと記憶しているが、音楽を避けようとすればするほど、日常に音楽が溢れていることを自覚する結果となった。テレビは別に歌番組でなくても、bgm で流行りの音楽をかけるものだし、周囲の人は勿論僕にお構いなしに鼻歌を口ずさむ。受験地に向かう新幹線の中でも駅に近づくたびに『いい日旅立ち』のイントロが流れていた。

 迎えた試験当日、僕の脳中にはどんな音楽がかかっていただろうか。それとも会場同様頭の中も静寂に包まれていただろうか。今となってはもう思い出せない。

 そういえば、剣道の試合中にも頭の中で音楽が鳴り響いていたことがある。「オリャーー」と無駄にでかい声で叫んでいたのは、気合を入れるためというよりむしろ、脳中の雑音を掻き消すためだった。そんな集中力の欠如した状態でよく真剣勝負に臨んでいたものだ。

 ここのところ、繰り返し同じ曲を聴いてもそれが雑音として頭に残ることが殆どなくなったように思う。これは一面では確かに喜ばしいことだろう。心中の、いや脳中の平穏はそれ自体歓迎すべき事態だから。しかし一方では複雑な思いが胸に去来している。

 大事なとき、集中せねばならぬときに鳴り響いていた雑音が聞こえなくなったということは、即ち僕の人生においてそういった場面が殆どなくなったことも意味しているように思えるからだ。

 あれは殺し合いの螺旋においてこそ聞こえるものなのだろう。脳中の雑音が懐かしく思い出される今日この頃である。