玉稿激論集

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エチケット尊重主義の終わりに際して

 去年の一月頃はどうして俺はマスクなんか着けているのだろうと訝しんでいたのに、この頃ではどうしてコロナ禍になるまで人前に顔面を晒していたのか不思議に思うようになった。これは恐ろしいことである。

 おそらく、過去の習慣を忘れ、息苦しい不織布を着けたまま余生を送った方が俺は幸せになれるだろう。でも、俺の中のマスクを忌み嫌うもう一人の俺はそうなることを恐れてもいる。ああ、どんなにか恐れていることだろう!

 と、『山月記』風に書き出してみたはいいものの、あまりおもろい話も思い浮かんでいない。

 緊急事態宣言も解除され、今日から皆ノーマスクになるであろうから、ここいらで少しマスクについて語ってみるのも一興だろう。

 元来僕はマスクが嫌いだった。だって暑苦しいじゃん。大体マスクを着けなければ病気を予防できない奴などあまりにも弱々しく、男の風上にも置けない。

 昨年初頭に会社でマスクを着用せよとのお達しが出たときも、キョロキョロ周りを見渡して皆が着けたのを確認してから渋々かの白い布で顔を覆う次第となったのである。えっマジかよ、お前らガチで全員マスクつけとるじゃん、まあ俺もやけどと心中で呟きながら。

 だから夏場など暑いときは、屋外では殆どマスクを着けていなかったと記憶している。この頃でも暑苦しいのか、マスクを着けず、その紐を手首に通して歩いている人を見かけるが、あれを世界で一番最初に始めたのは実こそ僕なのである。

 昨年秋にとある有名な神社を訪れた際ももちろんノーマスクだった。だって屋外だし。もし文句を言ってくる輩がいようものなら、望むところだ。口喧嘩の台本ならとうの昔に出来上がっている。

 そんな僕がこの頃は屋外でもマスクを着けている。実家からふんだくってきたマスクが切れたら薬局にて買い求めている。これは一面では確かに恥ずべき転向だろう。そもそも転向それ自体が本質的に恥ずべき性質を帯びているからして。

 転向には、勿論理由がある。マスク着用が感染対策というよりもむしろエチケットになってしまったからだ。マスクを外して自席で作業していても、誰かが近づいてきて話しかけてきたら、マスクを着用する。飲食店でも店員さんを呼んで注文するときは、わざわざマスクを着けてからにする。これらのことが出来ていない者は「下品」の烙印を押されかねない。そしてその烙印を背負って生きていくことの辛さはいかばかりか。また備えるべきエチケットを備えていることで得られる自己満足はいかばかりか。

 ただ、僕がマスクを着けるようになった最大の理由は別のところにある。

 素顔を見られることが恥ずかしくなってしまったからだ。己の素顔の醜さに気づいたからだ。

 僕の顔を見たことがある向きは、「今更かよ、気づくのおせーよ!!」と言いたくなるだろうが、どうかご容赦願いたい。よくもまああんな顔を二十余年も人様の前に晒していたものだ。

 しかし実は、この気づきは他人の顔を見たことがトリガーとなっているのだ。何とも失礼な話だが。

 仕事上、本人確認をすることが多く、その度にマスクを外すよう先方に依頼する。殆どの人が快諾してくれる。それはありがたい。でも、マスクを取ったその人の素顔を見た途端、ゾワっとする。見てはいけないものを見てしまった気がして、すぐに「ありがとうございます、もうマスクを着けていただいて結構です」と言い渡す。

 今般の流行性感冒により、他人の鼻と口を見ることが非日常化してしまった。タブー化したといってもいい。

 「タブーとは何ぞや」ということを人類史的な視点から紐解いていく素養も時間もないので、ざっくり申し上げさせてもらうと、僕を含めた多くの人はマスクを着けていた方が「まだマシ」な顔をしているのだ。要するに、見苦しい部位を隠すためにマスクをする。これもまたエチケットだ。

 緊急事態宣言の解除とともに、そんなエチケット尊重主義に彩られた日々が終わる。

 今外に出たら、皆あの頃と同じように素顔をぶら下げて歩いているのだろう。ああ、嫌だ、嫌だ。

 とりあえず僕は今日もマスクをして出勤しよう。

 それでは行ってきます。