玉稿激論集

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震える大地

 ここのところ地震が多い。当たり前のように連日震度4以上の揺れを各地で観測している。幸い僕は揺れに見舞われていないけれど、日々怯えている。明日は我が身だ。
 数年のうちにこの国を確実に襲うとされている大震災が直撃する地域に住んでいることもあって、YouTubeで被害想定を解説した動画を何本か見た。11年前の震災の10倍以上の死者数を想定したり、付随して起こるかもしれない火山の噴火をわかりやすく説明してくれているものもあれば、恐怖を煽るだけのものもある。一人ひとりがちゃんとした備えをすることで、想定死者数は大幅に減らせると力説する学者もいた。
 詳細なメカニズムについてはよくわからないが、要するに海側の大地が陸側の大地に沈み込む過程で溜まったひずみを一気にガーン!!と戻すときに大きな地震が起こるらしい、多分。それは数百年単位でこの国を襲ってきたし、次回までのタイムリミットは刻一刻と迫ってきている。40年以内に90パーセント。賢い人たちが算出した数字。これはもう僕が生きている間にほぼ確実に起こるということだ。
 海底で大地が陸側に沈み込んでいく様子を想像してみる。長い年月をかけてゆっくりと沈み込んでいくなかで、「ゴ、ゴ、ゴ…」と低い音を立てながら蓄積されていくひずみに思いを馳せるのだ。大地はエネルギーを溜め込み、放出のときを今か今かと待ち構えている。ひずみが限界に達したとき、全てがーいや、正確を期すと僕の周りの大半がー脆く崩れ去る。眠れぬ夜などは特に、ネガティヴな想像が捗るから困りものだ。
 現実問題としては、「今ここで地震が起きたらどうしよう」というシミュレーションを様々な場所で行なっている。外出しているときなら、落下物を避けられるところに避難したうえで高台に、即ち近傍のビルの最上階へ上がって津波に備える。自宅なら机の下に潜っていればなんとかなるだろう。いや、津波はここまで来るのだろうか。だとしたら、マンションの最上階に行かねばならない。海に近いところにある会社なら?客も大勢いることだし、大パニックになるだろう。まず客を避難させる?いや、そんな余裕が果たしてあるのか?とりあえず我が身を守らねば。机のパソコンでメールをチェックしながらそんなことを考えている。
 しかし、つくづくひどい話だと思う。神も仏もあったものではない。生まれてからこの方、世間様に誇れるような業績は特段残していないけれど、それなりに頑張って生きてきた。誰に褒められるわけでもないのに己に試練を課し、人知れず努力を積み重ねてきた。それが一瞬にして無になる事態が到来しようとしているのだ。波に飲まれる自分を、倒れてくる電柱の下敷きになる自分を想像する。襲ってくるのはあまりにも巨大な力で、その前では僕など本当に無力だ。考えるとはいえ、葦は結局どこまでいっても葦なのだ。迫りくる災害に耐えうる力など持っていない。
 個人の精神の中では、毎日のように地殻変動が起こっている。つまらぬことに歓喜したかと思えば、次の瞬間には瑣末なことに死にたくなるくらいの恥辱や自己嫌悪を感じもするし、些細なことに腹を立てたかと思えば、安っぽいドラマに痛く心を打たれもする。同時に、精神側のプレートは絶えず身体側のプレートに沈み込んでおり、いつ発散されるかもわからぬエネルギーが「ひずみ」となって蓄積されている。だから、せめて踏みしめる大地くらいは揺るがないでいてほしいのだ。浮つく心を鎮めるように盤石であってほしいのだ。しかしそれすら叶わないようだ。
 事ここに至って、世界は漸く本番を迎えたところである。悠久の歴史の中で僕が存在しているのは、このたったの数十年でしかない。それ以外のときは舞台袖にいて、満を持してやっと登場したのに、何とも呆気なく終幕を迎えるしれないと思うと、大きに飽き足りなく、嘆息してしまう。
 退屈な日常にあって我々は、自分と大切な人や物以外を都合良く粉々に破壊してくれるカタストロフを夢想しがちな一方、何にも代え難い日常の尊さには、ついぞ気づくことがない。買い物籠をレジに置くなり「いつもありがとうございます。レジ袋ご利用ですか?」と尋ねてくれる店員さんや、しょうもない話に鋏を止めてまで笑ってくれる美容師さんに感謝しつつも、それらはいつの間にか当たり前になっている。忘れずに日々心に留めていても天災はいつか必ずやってくるのだとしたら、せめて今のうちに文字通り有難い日常を骨の髄まで享受しておきたい。