玉稿激論集

玉稿をやっています。

根っこにあるもの(改)

 最近周りと比べて己の人間としての未熟さを感じることが多く、その度にほんの少し落ち込み、それなりに反省して、人間的成長を心に誓うのだが、悲しいかな未熟な人間というものの性で、幾度となく同じ過ちを繰り返してしまい、その度にまた少しだけ落ち込みそれなりに反省して…という同じループを辿っている、などと言っても読者諸氏には何のことやらわからないだろうから、単刀直入に申し上げると、ここのところ私は頻々に客と喧嘩をしているのみならず、自己に無関係な事象にさえ我が事のように立腹し、その都度「ああ、またやってしまった」と自己嫌悪に陥っているところであり、かような傾向をバイオリズムなるものに帰責したり、季節性の感冒としてやり過ごしたいのは山々なのだが、類似事案がこうも積み重なると己の根っこに問題の核心があるような気がしてならず、憂鬱ながらもそれと向き合わんとするがために今般筆を執った次第なのである。
 私に「曲がったことが大嫌い」だとか「正義感が強い」だとか「真面目」だとかいうたいへんに有難い評価を下してくれる他人もいるにはいるし、私自身もそれを完全に否定するものではないのだが、根っこにあるのがそんないいもんではないことは自分が一番よくわかっている。私は根性がひねくれており、柔軟さもまるでない。自分が折れたり謝ったりしたら丸く収まることであっても、一度「入って」しまうと抑えが効かなくなるのだ。別に激昂するわけではない。私だってそこそこいい大人だ。ただ、天気、気温、虫の居所、カスタマークオリティ等の様々な条件ーそれはいとも簡単に揃ってしまうーが揃うと、「入って」しまうのだ。するとどうなるか。第一に、物事を勝ち負けで判断するようになる。ここで相手の言いなりになったり謝ったりしたら、負けであり、そしてそれはどうしても避けねばならないとさしたる論理的な根拠もなく思い込んでしまう。勝負事には滅法弱い質にできているのに、なんとも愚かな話だ。第二に、物事を好き嫌いで判断するようになる。それがプライベートである限りは、好き嫌いで物事を判断したとしてもさして責められるべきことではないのだろうが、厄介なのは私が「入って」しまうのは専ら仕事の現場においてなのである。しかも好き嫌いで判断することがおそらく許されないであろう職種だ。相手の言に被せる。詰問する。近しい人にしたら関係が悪くなるからやらないことを仕事以外で関わりをもたない赤の他人には平気でやってのける。
 先日、人生で初めてクレームを入れられた。上司に事情を尋ねられたので、あったことをそのまま話す。勿論こちらにも言い分があるし、上司は最大限それを理解してくれたが、これはなかなか応える体験だった。まず、優しい上司の手を煩わせてしまったこと。これは謝っても謝りきれない。そして自分の醜悪な根が「クレーム」という目に見える形で顕在化したこと。自分の言動が正当に、ストレートに他人を不快にしていたこと。それは私に暗い未来を予感させるに十分だった。いずれ私は「入って」しまうあまり、致命的なトラブルを起こすだろう。そうなるといくら優しい上司であっても私のことを擁護できないはずだ。職場からの帰路、明かりの少ない夜道を歩いていると陰鬱な考えばかりが浮かんでしまうものだから、私は足を早める。しかし、煌々と明かりを灯している24時間営業のスーパーに入っても脳中の霧は一向に晴れなかった。もやもやしているのは、反省のみならずクレームを入れた相手に対する怒りがあるからだ。あんな訳のわからぬことをのたまった挙句、クレームを入れるとは何様のつもりなのか。恥を知るべきだ。生まれが悪かったとしても、親が悪かったとしても、教育が悪かったとしても、環境が悪かったとしても、ーそして万に一つ私が悪かったとしてもーやっていいことと悪いことがあるというものだ。自分の思い通りにならなかったらチクりを入れるなど、およそ真人間のすることではない。卑怯だし卑劣極まりない。何度でも言う、恥を知るべきだ。
 己の根と向き合うと息巻いて書き始めたものの、結局その醜悪さを曝け出しただけの駄文になってしまった。本当の私はこんな人間ではないとは最早信じられない。私はこういう人間なのだ。難しいし、強烈な痛みを伴うことだけど、暗い未来を回避するためには自己を変革せねばならないのだろう。もっともっと善い人間になります、来年こそ。

 

(後記)

 怒りが冷めやらぬまま「こんなことがあったんですよ…」と話していると、「そんなこと気になるかなあ」と返す人が自分も含めて非常に多い。気になっとるけぇ話しとるんだろうが。そんなこともわからんのんか、ボケ。てめえが大らかな人間だということはよくわかったから、おとといきやがれ、と、さらに捲し立てようものなら、距離を置かれること請け合いなので、口を噤む。他者との断絶を感じる瞬間だ。冗談でも何でもいいから、「よし、殴りに行こう」と言ってほしい。

 大抵の場合、怒りの感情は不合理なもので、元を辿れば自分が何故こんなことに腹を立てているのかわからないことがしばしばだ。だからこそ他者に寄り添ってほしいのだ。わかる、わかるよと。嘘でも上辺でもいいから。