玉稿激論集

玉稿をやっています。

アウトロー(fiction)

「ボケ、どこ投げとんじゃ、ワレ!!」
「ピッチャーの原点は外角低めやろがい!!」
「ファーム行って出直して来い!このたわけ!!」
隆義がプロ野球中継を見ながらテレビに毒づくのは今に始まったことではないが、足を洗って以来、さらにその傾向が強まっているように由美は感じて、溜息をこぼす。
 まともな就職先が見つからず、当面は日雇い労働で得た賃金で由美と息子の亮太を養っていかなければならないのは、ひとえに隆義の小指の第一関節より先がないからだろう。ご承知のとおり、世間はヤクザを街から追い出そうとする一方で、その世界から足を洗った者に対してはめっぽう冷たい。長じた大人が完全に改心することなどほぼ不可能なのだから、隆義が元ヤクザという理由で偏見に晒さられるのはある程度仕方のないことなのかもしれない。だったら、自分の経歴を知られていない土地へ引っ越して一からやり直す手もあるように思えるが、ヤクザだったことを隠すのは隆義にとっても容易くはなかった。ご多分に漏れず、全身に墨が入っているからである。
「何でよりによって鯉なの?こういうのって普通、龍とか虎を彫るんじゃないの?」
初めて隆義の背中の刺青を見たとき、由美は思わず尋ねた。
「名前も口にしたくない敵チームの象徴を己の背中に彫るボケがどこの世界におるんや」
鯉には背中からはみ出んばかりの力強さが感じられた。
 この鯉のように、自分も極道の世界の頂点まで昇り詰めるのだと決意していた時期もあるにはあったものの、事がそう上手くは運んでくれなかったからこその隆義の現状なのだが、由美からすれば今の方がまだマシだ。鉄砲玉として危険な仕事ばかりさせられ、いつ死ぬかもわからない夫の帰りを息子と二人きりで待つ日々にはなかなか堪えるものがあったからだ。自分が極道の妻がつとまるようなタマじゃないことには、早々に気づいていた。夫の稼ぎはヤクザ時代に比べて確かに減ったが、それでもいい。確かに今はしんどいけれど、ちゃんと真面目に暮らしていたらいつの日か認められて、隆義だって正規の職に就けるはずなのだから。
 とはいえやはり貧乏には辛いものがある。ささやかな幸せを感じるのは金持ちの特権であり、貧乏人にはそんな余裕はない。毎日腹を満たすので、亮太を育てるので手一杯だ。隆義の稼ぎが少ないのを彼の前で嘆いたことは一度もないが、この前つい
「最近は野菜も値上がりしてるしね」
とこぼすと、今まで見たことのない程の剣幕で激昂された。由美にはそんなつもりはなかったのだが、隆義からすると己の不甲斐なさを詰られているように感じたのだろう。

「ねえ、ちょっと買い物行ってきてくれない?その間に夕飯の準備しておくからさ」
日曜日の夕方、絨毯に寝そべってゴルフ中継を眺めている隆義に由美は言う。実家がふるさと納税でもらった高級な牛肉が今朝届いた。今晩はすき焼きだ。
「はいよ」
隆義はのっそりと起き上がり、財布とヘルメットだけ持ってそそくさと出発する。近所のスーパーはスクーターを飛ばせば5分とかからないところにある。
 本当に久しぶりの贅沢だ。木箱に収められた薄切りの肉を見ながら、由美の表情は自然と綻ぶ。サシもいい感じで入っている。これをすき焼きにして、溶き卵で食べたらどんなにか美味しいだろう。割り下がたっぷり沁み込んだ春菊やらエノキも美味しいに違いない。締めはお鍋にご飯を入れておじやにしようかな。由美は夫の帰りが待ち遠しい。
 不穏な雰囲気を感じたのは、隆義から渡された買い物袋から野菜を取り出したときだった。全ての野菜に割引のシールが貼ってある。
「あなた、これ、安いやつしか残っていなかったの?」
「いや、普通の値段のやつもあったで。でもどうせ今日食べるんじゃけ、安いやつでも変わらんと思って」
「あのね、今日はお母さんがせっかくいいお肉送ってくれたんだからさ、そこはけちけちしなくてもよかったんじゃないの。お肉だけ高級で、野菜は割引の安いやつだなんて、ちょっとアレじゃない」
「ああ、そう」
ゴルフ中継を眺める隆義は殆ど上の空だ。由美は野菜を切り続ける。どれも色が悪い。先程までの華やいだ気分に翳がさすのを感じる。
 決定打となったのはエノキだった。50円引きのシールが貼られたそれは、ビニール袋の中が結露しており、黄ばんだ水滴が内側にこびり付いている。開封する前から予想はついていたが、匂いを嗅いで確信した。明らかに腐っている。
 気づいたら涙がこぼれていた。何が悲しいのかは正確にはわからない。でも、どうしようもなく悲しかったのだ。自分たちのみすぼらしい生活の全てがこの特売品のエノキに象徴されているような気がしてならなかった。隆義としては少しでも安いものを買おうとしてくれたのだろうが、その結果がこれだ。買い直さないといけないから、余計高くつく。そのヘマな巡り合わせを思うと、自然と怒りはこんなものを買ってきた隆義に向いた。だから、
「おい、何で泣いとるんや?」
と、訝しげに聞いてきた彼に対して、由美は思わずカッとなる。
「エノキが腐ってんのよ!あなた何でこんな安いやつ買ってきたのよ!」
「じゃけえ、どうせ今日食うんだったら変わらんと思ったってさっき言っただろうが」
「エノキなんて普通に買っても一袋90円ぐらいでしょ!それが50円引きって半額以下になってるのよ。いくら何でも安過ぎるでしょう!」
「お前がいつも口うるさく節約節約言っとるから、こっちは特売のやつ買ったのに、何でここまで言われんといけんのんや!」
「安いたって限度ってものがあるじゃないの!大体これでまた買い直さないといけないから、余計高くつくじゃないの!こんなことしてたら私たち一生貧乏のままだよ!とりあえず早く新しいの買ってきなさいよ!」
「うるせえ、馬鹿野郎!」
ドタドタと隆義は部屋を出てゆく。感情の高ぶった由美の嗚咽がアパートの狭い一室に響き渡る。何が起こったのかわからない亮太はポカンとしている。

 いつまで経っても帰ってこない隆義がヤクザの抗争に巻き込まれて死んだのはそれから三か月後だった。
 知らせを聞いた由美は勿論悲しんだが、然程驚きはしなかった。家に帰ってこない以上、隆義がヤクザの世界に戻っていることはある程度予想していたからだ。
 由美は特に自分を責めてもいない。確かに直接のきっかけとなったのは、特売品のエノキをめぐる口喧嘩だったのかもしれないが、隆義が闇の世界に戻るのは時間の問題だったはずだ。本当にカタギとしてやり直すつもりなら、エノキを買い直してくればよかったのに、そうしなかった。そして、恥を忍んで戻ったヤクザの世界でいいように使われて犬死にした。つくづく不器用な男だと思う。でも、優しい男でもあった。
「ピッチャーの原点は外角低めやろがい!!」
生前の彼がコントロールの定まらないカープの投手に対してよく毒づいていたのを由美は最近よく思い出す。ピッチャーの原点が外角低めであるのと同じように、隆義の原点はアウトローの世界だった。彼はそこでしか生きられないし、そこでしか死ねない男だった。由美はそう思って全てを納得しようとしている。