玉稿激論集

玉稿をやっています。

銃が教えてくれたこと

ついに24シリーズを全部見終わった。1シーズン24話(シーズン9と10は12話)が10シーズンとスピンオフの映画が1本あったから、全部で217話。いやー、面白かった。控え目に言って、全シーズンの全話に満足している。これからどうやって暇を潰そうか。

 

連邦捜査官(federal agent)のジャック・バウアーが一日中休まず働いて、アメリカをテロリストから守る話。それが24だ。とにかく展開が早く、何がどうなっているのか一瞬わからなくなることもあるが、それだけテンポがいいからこそ、飽き性の自分でも退屈せず見ることができたのだと思う。

 

2001年9月11日の同時多発テロは、世界を大きく変えてしまった。恐怖に慄く人々は、現実から目を逸らして、ファンタジーに救いを求めたし、テロリストの蛮行に怒る人々は、現実を直視して、戦いに備えた。ハリーポッターの映画の一作目が公開されたのは、2001年の12月で、24のシーズン1が放送されたのは、同年11月というのは、象徴的だ。映像作品の分野においても、空想と現実が真っ二つに分かれたのだ。

 

みたいな話を漫画家の山田玲司がしていたから、文章に厚みをもたせるために書いておいた。僕の意見ではない。大体、極東に住む僕にとっては、24もほとんどファンタジーだ。24で起こるようなことは、本邦ではまず起こらない。そのことが僕を安心させてくれる。

 

以前は暗い夜道を歩いているときに、背後からガタイのいい男が近づいてくると、若干の恐怖を感じていた。いきなり殴りかかられたりしたらどうしようかと。でも、最近は「24じゃあるまいし」と自分の中の不安を一笑に付せるようになった。要人でもない僕を拉致するほど世間も暇ではない。それにこの国は平和だ。多分今のところは。 

 

この国と彼の国の違いとして、彼の国が銃社会であることは、いくら強調しても強調しすぎではないだろう。小耳に挟んだことだが、日本の警官は、退職するまで一度も現場で発砲しない者が大多数を占めるらしい。一方、アメリカでは事情は異なる。銃を乱射した犯人が駆けつけた警官により射殺されたなんてニュースは、日本で暮らしている我々にだってしばしば伝わる。そう、彼の国の警官は発砲するのだ。さもなければ自分が撃たれるのだから。

 

「銃を抜いたからには命を懸けろよ」「そいつは脅しの道具じゃねェ」というのは、ワンピースの第1巻でシャンクスが放つセリフだが、24の世界の住人は、シャンクスほど肝が据わっているわけもなく、誰かを脅すときに銃を構えることがままある。でも、彼らだって何の覚悟もなしに相手に銃を向けることはない(「命を懸けているのか」と言われれば微妙なところだけど)。何せ指に力を込めるだけで人を殺せる代物を手にしているのだから。

 

銃は本当に強い。ゆえに、それを向ける者と向けられる者の間には、明確な力関係が生まれる。どんなに屈強な男でも、銃を構えた子どもの前では無力だ。

 

もし銃を向けられたら、どうしたらいいだろうか。死にたくないのなら、一にも二にも相手の指示に黙って従わねばならない。手の平を見せて抵抗する意志がないことを示して跪き、手を頭の上で組む。自分も銃を持っているのなら、ゆっくりとそれを床に置き、相手がいる方向へ蹴る。まあ、これぐらいは誰でもできるだろう。より大事なのは、相手の顔から目を逸らさないことだ。決して取り乱すことなく、自分を殺そうとしている者の顔を(できれば目を)じっと見据える。彼が本当に君を殺す気なら、耐えきれず君に後ろを向くよう命じるだろうが、この命令には従ってはならない。「撃つなら私の目を見て撃て」。今度はこっちが命令する番だ。この命令を忠実に実行できる者は少ない。目は口ほどに、いや口以上に物を言うからだ、「撃つな、殺すな」と。

 

24を見ていて意外だったのは、死にたくないのは無辜の市民もテロリストも同じだということだ。死を恐れていないように見えるテロリストも銃を向けられると、その目で生への渇望を訴える。それは別に、彼らなりの「大義」を達せずに死ぬことがやりきれないからだけではない。何よりもただ単純に死にたくないからだ。引き金に指をかけた者の意志に生死が左右されるときになってはじめて、月並みな表現しかできないところの「命のありがたみ」がわかる。なんとも皮肉なことだが。

 

しかし、どれだけ命乞いをしても、引き金を引く者はいる。特に注意すべきは素人だ。銃を使い慣れていない一般人が怒りに我を失い、情報を握っているテロリストの一味を撃ち殺し、ジャックの仕事が増えるのは24の鉄板の流れだ。風物詩といってもいい。24において銃があることで解決した厄介事と、銃があることで生じた厄介事のどちらが多いのかについては、識者の見解を待つほかないが、一視聴者の僕が何度も「銃さえなければ」という感想を抱いたのは事実だ。銃があるとマジで思ったようにいかない。人間の行動には不確定要素があまりにも多いのに対し、弾丸はほぼ確実に貫かれる者の命を絶つ。そして、このアンバランスがジャックを、事件を、歴史を、突き動かす。

 

たった数ミリの鉄の塊に撃ち抜かれるだけで、その活動を永久に停止してしまうような「乗り物」。それが我々の身体だ。あまりにも脆い。銃が発明された世界線で生きているにもかかわらず、平和ボケしている僕はこの至極当然なことを忘れていた。

 

なんかやっぱり夜道には気をつけた方がいい気がしてきたな。

帰れぬ者たちー『服従』の主人公と宮迫とー

期間限定で配属されていた部署から元の部署に戻ってきたとき、とある先輩に「久しぶりの現場はどう?」と尋ねられた。

 

「いやー、やっぱり自分のいるべき場所はここだったんだなって思います」

 

そう答えた。適当に。いや、テキトーに。

 

「ここがまさに自分の居場所だ」と言えるような場所をもっている人が一体どれくらいいるだろうか。我々の多くはどこに行っても、ジグソーパズルのピースのようにぴったりとその場所にはまることができないのではなかろうか。上昇志向が強いわけでもないのに、常に「ここではないどこか」を探している。家で一人で過ごしていると、次第にやることがなくなり、物足りなさや正体不明の焦燥感に駆られる一方で、仲の良い友人と楽しく遊んでいるときには、ふとした瞬間に、猛烈な「帰りたさ」を感じたりする。でも、家に帰ったところで次第にやることがなくなり…と同じことの繰り返しだ。

 

一体我々はどこに帰ればいいのだろうか。どこに行けばいいのだろうか。両親の住む実家に?僕の場合は違う。だからこそ、育った町から遠く離れた大学に進学したし、就職のタイミングで親元に戻ることもなかった。もちろん久しぶりに帰省すると落ち着くし、楽しい時間を過ごせる。でも、パズルのピースははまらない。

 

行き場を失い彷徨っている者たちの物語は、そんな中途半端に根無草状態である我々に深く突き刺さる。YouTuberになった宮迫博之の人生はその好例だ。

 

世間を騒がせた闇営業騒動をきっかけに、テレビから姿を消した宮迫は、YouTubeを新たな活動の場とした。チャンネルを開設した当初から、彼の目標ははっきりしている。テレビの世界に、というかアメトーーク に、復帰することだ。彼はアメトーーク を「実家」と表現し、「やっぱり実家には帰りたいよね」とこぼす。でも、今のところ、宮迫がアメトーーク に復帰する気配はないし、これからもないと思う。勝手な想像だけど。

 

YouTubeでも宮迫は楽しくやっているように見えるが、やはりどこかに影がある。無理もないだろう。彼はカジサックのように一大決心をしてYouTuberになったわけではない。テレビから干されたという止むに止まれぬ事情があったから、「仕方なく」、本来なるはずではなかった(言うなれば見下していた)YouTuberになったのだ。

 

宮迫がYouTubeを全力でやっているというのは、紛れもない事実だろう。チャンネル登録者数だって120万人を超えている。でも、どれだけYouTube上の支持者が増えても、そこは彼の「ホーム」とはならない。そもそもの始めたきっかけからして、YouTubeは宮迫にとってテレビに戻るための踏み台を備えた仮の住まいでしかないからだ。

 

では、宮迫がアメトーーク に復帰できたらそれで何もかも元通りになるのかといえば、そう単純ではない。

 

万が一、再びアメトーーク のステージに立ったとしても、宮迫は以前のような輝きを放つことはできないだろう。件の闇営業騒動をゲストの芸人が面白おかしくイジる。それに対して宮迫が気の利いた返しをする。その様子を違法転載されたYouTubeで見ながら、僕は笑うだろう。でも同時に僕は思う。「何かが違う」と。宮迫も思っているはずだ。「何かが違う」と。一度自分を見捨てた「実家」は、もう以前の温かな「実家」とは違う。そこはどこか決定的な点で大きく変わってしまっている。宮迫自身にしたってそうだ。身から出た錆のせいで、彼は大きな負い目を背負って生きていくことになった。そんな彼が以前のように上から目線でゲストの芸人たちをイジることなどできないだろうし、もし仮にできたとしても、その様を僕たちは以前のように虚心に笑うことはできない。

 

騒動以降の宮迫は、どこにいても「ここではないどこか」を探し求めているように見える。言うなれば、放浪者、ボヘミアンだ。そしてその姿にこそ、現代を生きる我々の多くは強い共感を覚える。

 

ウエルベックの近著『服従』の主人公「ぼく」(名前は確かフランソワだった)も、彷徨う我々を写し出す鏡だ。中年の大学教授である彼は若くて美しい恋人といても、どこか満たされない。彼女が去ってからの状況はさらに悲惨だ。彼は文字通り孤独になる。スーパーで惣菜を買ってきてレンジで温め、酒と一緒に食べる。もちろん一人で。彼には話し相手となる知人はいるけれど、友人はいない。旅行にも一人で行く。

 

作品では、激動のフランス大統領選挙が描かれ、登場人物たちにより難解な政治論議がなされるが、フランソワが特定の政党を支持している様子はない。投票に行っている描写もなかった。多分行ってないのだろう。まあ、当然といえば当然のことだ。孤独を抱えた者にとって、右派がどうとか、左派がどうとか、はたまた中道がどうとかなど些末な事柄であるからだ。彼にとっての急務は、その孤独を癒してくれる誰かや何かを見つけ出すことである。でも、フランソワはそれを見つけられない。金で買った女は刹那的な快楽しかもたらしてくれないし、旅先の教会での信仰生活からも満足を得られない。

 

さらに悪いことに、作中で彼は両親まで失う。中年男が疎遠になった両親と死別するということ自体は、この世界において頻繁に起こることだ。しかし、どれだけありふれた出来事だとしても、一人の人間にとってそれが重大な事件であることに変わりはないと思う。

 

幸い僕の両親はまだ元気にしているけど(多分)、彼らがほぼ確実に僕より先に亡くなることをふとした瞬間に思うと、落ち着かない気持ちになる。でもだからといって、何ができる。将来感じるであろう悲しみから目を逸らして、日々の生活を続けるしかないのだ、結局のところ。

 

孤独な無神論者フランソワが、イスラームへの改宗を決めるのは、無理からぬことだ。改宗して復職したら、3人の妻をめとることができると言われたのだから。仕事を辞めた彼は復職を勧めてくる学長に、「イスラームの女性は顔をベールで覆っている。それは女性を選ぶ際に問題となる」という主旨の不安をオブラートに包んだうえで明かす。その人間味に我々は深く感じ入る。

 

改宗して3人の若くて美しい妻をめとった先に、フランソワは心の安息地を見つけられるのだろうか。わからない。わからないが、敗色濃厚な気がする。

会社という宇宙、人間という宇宙

コピー機から出てきた給与明細を持って自席に戻ると、なぜかノートパソコンの画面が閉じられていた。

 

「〇〇さん、パソコンに明細がでかでかと写っていたから、画面を閉じておきましたよ」と先輩職員が言う。俺は感謝を述べたあと、「まあ、誰に見られても問題ないですよ。どうせ低額所得者だし」と自虐する。「いっそのこと乱視になったら、明細のゼロが1、2個増えて見えるから幸せになれるかもしれないですね」とも言った。先輩はからからと笑う。年功序列が色濃く残る弊社では、先輩は俺の倍以上稼いでいるはずだ。泣く子が俺の給与明細を見たら、黙るどころかさらに泣き喚くだろう。他にも色々例え様はある。バイト頑張った大学生とか。

 

ここ数年、年末年始も実家に帰省することなく、せこせこ働いている。祝日扱いになるその期間に働くと、幾ばくか給料が増えるからだ。「貧乏サラリーマンの稼ぎどきやねん」と言うと、親族も納得してくれる。

 

薄給だけど、生計は維持できているし、辞めたくて仕方ないというわけでもないから、出勤を続けている。今のところそこまできつくないし。

 

会社に入って以来、「働いたわー」と感じたことは一度もない。俺は「働く」とか「労働」という言葉から、いわゆるオフィスワークを思い浮かべることができない。どういうわけか、エクアドルあたりでラテン系の男共が、炎天下の中バナナが大量に入った木箱を肩に乗せてせっせと運んでいる映像がイメージされる。これはおそらく、自分の労働の原体験が関係している。大学のとき、某飲食店で肉体労働をしていたせいか、重たいものを運んだり、額に汗したりしないと、働いた気がしないのだ。

 

毎日時間が来たから行く。それだけの話だ。「出勤」という言葉を使うのもおこがましい。どちらかというと、「登校」の方が近い。

 

「登校」すると、本当に色々な人がいる。いや、ほんとに。こんな国だから、人種こそ同じだけれど、様々なバックグラウンドを持った人がいる。何らかを患っている人も何人かいる。色んな人がいる状況は、人と話すのが好きな僕にとってはありがたい。同僚や先輩と様々なたわいのない話ができる。その中で、その人の意外な一面だったり、自分との共通点がわかったりするのは面白い。

 

でも、そんな風に楽しく話している同僚や先輩が、ときに怪訝な言動をとることがある。僕からしたらあり得ないことを彼らが平然とやってのけるのを見ると、そのあまりにも大きな隔たりに名状し難い気持ちになる。

 

例えば、会社や自分が属している部署を「うち」とか言う人を見ると、ひやっとする。何が「うち」だよと思う。些末なことかもしれないが、自分がロイヤリティーを抱いていない組織を「うち」と形容する人とはどこか決定的な点で分かり合えないように感じる。というか、僕は今まで属してきた組織を「うち」と表したことがあっただろうか。思い出せない。

 

上司にわざわざ自分から話しかけ、世間話をする人も、どうかしている。僕は上司とコミュニケーションをとるとき、どうしても萎縮してしまう。なぜ少なくない数の人々は、自分のことを評価し、叱る可能性もある人とあんなに楽しくおしゃべりできるのだろう。わからない。

 

当然のことだが、社内には、評判のいい人もいれば、評判の悪い人もいる。僕としてはいい人だと思っている人を、仲のいい同期が悪く言うことだってある(その逆ももちろんある)。改めてその人の言動を眺めてみると、同期の気持ちがわかることがある。「そんな言い方せんでもいいじゃん」と思う言い方で、同期らに向かって話していたりする。そのことをもって別に嫌いになったりはしない。ただもやもやする。

 

というか、我々は「あの人ほんまはええ人やで」と安易に口にしがちだ。でもその「ほんま」とは何なのか。嫌いな人がいるとして、その人の「ほんま」の部分を知ったら、その人のことが好きになるという事態を僕はうまく想像することができない。ひとりひとりの人間にはあまりにも多くの側面があり、そのことを思うと、気怠さや疲労感に襲われる。みんな本当にわかりにくい。

 

最近話題がとっ散らかってしまいがちだ。給料の話をしていたかと思うと、いつの間にか働くとは何ぞやみたいな話をし、その後には社内の愚痴めいたことを書いている。全くつながりがないわけではない。でも、はてなブログ特有の(?)段落と段落の間の広い行間に助けられている感は否めない。

 

ここのところ、記事を更新していなかった。何も書くことが思い浮かばなかったからではない。日々色々思うことはあったが、それをうまいこと整理することができなかったのだ。先日走ったら思考がまとまると書いた。でも、今回はどれだけ走っても駄目だった。僕の思考はたゆたいながら、確実に沈んでいる。

 

誰よりも速く

(1)よくわからない導入から本題へ

 

もんがまえの漢字は、うまいことできていると思う。

 

門という字は、神社の鳥居のように見える。内部と外部の境界線。その門から映し出される世界を、もんがまえの漢字は巧みに表現している。

 

陽が昇るときや沈むとき、門の向こうの地平線に太陽が見える。それをそのまま表したのが、「間」だ。門と彼方の地平線のあいだを移ろう夕日(もしくは朝日)がありありと想像できる、絵画のような漢字だ。

 

門の外側に誰かがいるのかどうかはわからないけれど、気配だけが感じられる。かすかに何かの物音が聞こえる。その様子を古の先人は「闇」と書き表した。

 

みたいなテキトーな話をしている者に対して、「じゃあこのもんがまえの漢字はどうなんだよ」と、もんがまえの漢字を羅列して尋ねたくなる向きもあるだろう。しかし、我々がぱっと思いつくもんがまえの漢字というのは存外少なく、「閃はどう説明するん?」ぐらいの質問が関の山になる(まあ、「問」も「関」も「もんがまえ」なのだが)。

 

学者が画期的なアイデアを思いつくのは屋外と相場が決まっている。ニュートンがずっと部屋に閉じこもっていたら、木からリンゴが落ちるのを見て、万有引力の法則を発見することはなかっただろうし、西田幾太郎だって後に「哲学の道」と名付けられたエリアを散策するなかで、巨大な思想体系を構築していったはずだ、多分。

 

外に出たことで頭の中が整理された経験は僕にもある。些末なことで頭がパンクしそうなとき、外を出歩くと不思議と打開策が思い浮かんだりする。そう、人は門の外においてこそ、妙案をひらめくのだ。その様子を古の先人は「閃」と書き表したわけだ。

 

帰宅後に走る生活を続けている。走っていて、歴史に残る物理法則や哲学理論をひらめくことはないけれど、自分の考えがうまい具合にまとまることがある。頭の中のいくつかのほつれが点となり、それらが線で結ばれていく感じ。なんだか嬉しくなる。

 

走ることの効用はそれだけではない。

 

日々を徒然なるままに過ごしていたとしても、生きている以上何も思わないことはない。他人の何気ない一言に意外と傷ついたり、自分のふとした言動が誰かを不快にしたかななどと思い悩むことがたまにある。そういうことを思い始めると何も手につかなくなる、なんてことはないけど、どこかに「引っかかり」は感じている。

 

走っているとどういうわけか、この「引っかかり」にいい意味で諦めがつく。「まあ、いっか」「まあ、仕方ないよな」と思える。家でだらだらしているときには抱けなかった感情だ。他人の何気ない言動にいちいち落ち込んでいたらきりがないことに気づく。自分の言動にしたってそうだ。日常生活において、平均的には他人に気を使っている自覚はあるけれど、別に必要以上にそうしているわけではない。そんな自分の言動を不快に感じたり、怪訝に思う人がいた場合に、もはや僕にできることはほとんど残されていないのではないだろうか。言うなれば、ベストを尽くしたのだから、後は野となれ山となれだ。

 

アンタッチャブルザキヤマは、ロンハーの隠し撮り企画で「悩むことはあるか」と問われて、「ない」と答えたあと、理由をこんな風に語っていた。「何か失敗したときに、あの時こうすればよかったなというのが思い浮かんだのなら、次からはそうすればいいし、解決策が思い浮かばなかったなら、もうこれは自分にはできないことなんだって諦めるしかないじゃん」。天才芸人は何とも平明な結論に至っている。そして僕はなぜか、走ることによって、このことを文字通り身をもって感じられるのだ。

 

(2)尾崎豊とスピードの追求

 

調子に乗ってペースを上げすぎた結果、ふくらはぎが爆発して激痛を味わったあの日以来、のろのろと走るように心がけている。他人に追い抜かれることもしばしばだ。別に何も思わなかった、ここ最近までは。

 

「思わなかった」と過去形を用いたのには、理由がある。走ることが習慣化してくると、どうしても速さを求める気持ちが生じてしまう。自分を追い抜いていくランナーに追いすがりたいと思う。もっとスピードを上げられるという自信も少しはある。ふくらはぎが爆発しないよう細心の注意を払いながら、僕は少しペースを上げてみる。視界を通り過ぎていく風景のスピードがわずかに速まった気がする。

 

「速さ」とか「スピード」について思いを巡らせていると、やはり尾崎豊のことを考えてしまう。

 

尾崎豊ほど、その人生において速さを強く意識した人もなかなかいないだろう。彼はライブのエンディングでFreeze moonを歌い切った後、「もっと速く、もっともっと輝くまで、俺たちは走り続けていかなければ」と客席に向かって叫ぶ。僕はその映像を見るたびに思ったものだ。「なんでそんなに速く走りたかったのだろう、別にそんなに急がなくてもよかったじゃないか」と。でも、全速力で人生を駆け抜け終わらせたことが、尾崎豊の魅力の一つであるように感じてしまう自分もいる。

 

尾崎豊が夭折したこと自体は、本当に残念で嘆かわしいことだが、彼が老いて50代を迎えている姿などは全く想像がつかないのもまた事実だ。「もしこうだったら」という可能世界の存在を許さない、それ自体で完全かつ完璧に完結した生涯。その輝きのなんと眩しいことか。

 

(3)まとめ的な

 

「もっと速く走りたい」と思う。できることなら誰も追いつけないぐらいのスピードで。まあ、これはもちろん生き急ぎたいといった類の話ではない。日々のランニングにおいての話だ。冴えない毎日を送っているけれど、生き急ぐほど人生は悪いものではない。

 

いつの間にか、尾崎豊が亡くなったときの年齢を超えていた。ロックスターの中には、彼と同じくらいの年齢でこの世を去った者が他にも数人いると聞く。ロックスターじゃない僕は明日も明後日も生き続けなければならない。もっと輝くまで。

 

立川断酒

ここのところ、アルコールを摂取する機会を減らしている。「酒なんかいつでもやめられる」と息巻いている自分が、実際にアルコールを抜いたときにどうなるのか知りたかったからだ。あと、世論が高まってきたというのもある。

 

久方ぶりにいつものセブンで酒を買わなかった夜、俺はコンビニの冷蔵庫の前でしばし立ち尽くしていた。いつも買う星マークのデザインのビール。世界一スタイリッシュで優れた意匠。◯番搾りとは大違いだ。その缶の裏側には「◯番搾り麦汁だけで作ったから◯番搾り。おいしいに決まってます」などと御託が並べてある。マジでうるせえ。まあうまいからいいか。

 

酒を買わないと決めているその日の俺の心には、複雑な思いが去来する。いや、複雑ではない。シンプルに「飲みてえ」という思い。別に三井寿が「安西先生、バスケがしたいです…」と泣き崩れたときほど切実ではない。ただ、空っぽなはずの自分の内側から、じんわりとその思いは湧き上がってくる。重症だろうか。俺は鯖の塩焼きと野菜スティックとレジ袋だけを買ってコンビニを出た。

 

これまでほとんど毎日酒を飲んできたのには、もちろん理由がある。酒は飯とよく合うからだ。唐揚げにしろ、焼肉にしろ、寿司にしろ、おいしいものには糖質が含まれている。つまり甘い。だから苦味を含んだビールや日本酒がよく合うのだ。まあ、要するに、甘いスイーツとブラックコーヒーがよく合うのと理屈は同じだ。ちなみに、余談だけど、俺は飯のときはテレビを消す。見るとしても野球中継ぐらいだ。テレビは往々にして飯が不味くなる情報や映像を垂れ流す。俺はなんというか、そういうところに案外敏感なのだ。飯を食っているときに野生動物の映像など見たくないし、塩辛いものを食っているときにケーキが目に入るのもできることなら避けたいのだ。本当に余談だな。

 

家で酒を飲むうえで、自分なりに決めているルールがある。酒を備蓄しないことだ。要するに、スーパーでビールの6本セットを買わないということだ。なぜか。

 

俺の中で、悪事に手を染めたくないという強い思いと、自分がいつかまかり間違って悪事に手を染めてしまうのではないかという恐怖が、同居している。スーパーに手ぶらで買い物に行くのもそのことが関係していると思う。エコバックを持たないのは、面倒だからというのももちろんあるけれど、自分がうっかりとち狂って万引きをしてしまう可能性を限りなくゼロに近づけたいからだ。酒をその日に飲む分しか買わないのも、朝起きて冷蔵庫にビールが冷えていたら、出勤前に飲んでしまう可能性が生じるからだ。別に会社まで車で行くわけじゃないし、ビールを一本飲んだところで、仕事に支障は出ないと思うが、一般社会のルールに照らし合わせると、始業前に酒を飲むのがあまり良いことではないことぐらい、俺にだってわかる。

 

1日酒を断ってみると、その次の日も酒を断ちたくなる。これは、酒を飲まない方が体の調子がいいからなどといった健全な理由のためではない。俺には何でも連続しているものに価値を置く傾向があるのだ。イチローメジャーリーグ で10年連続で200本安打を達成し、新記録を打ち立てたときは歓喜したし、記録が途切れたときは落胆した。天皇家が2000年以上にわたって血統を継承してしているという嘘か本当かわからない話を聞かされると、天皇家が今後も存続してほしいという気持ちがいくばくか湧いた。それと同じことだ。だから、逆にいうと、酒を飲み始めると、知らぬ間に連続飲酒の記録を作ろうとしてしまうのかもしれない。義務感に駆られた飲酒。なんとも愚かしい話だ。

 

ただ、俺には自分が人生を破滅させるまで酒を飲むことはないという確信がある。理由は単純で、そんな度胸がないからだ。坂上忍メッセンジャー黒田と対談したときに、「どれだけ酒を飲んでも、死んだ親父みたいにクズになりきれない。その意味で自分は親父を超えられない」みたいなことを言っていたように、クズになるのもたやすいことではないのだ。クズになりきることと、チキンレースでアクセルを全開にすることはよく似ている。俺たちはたいてい、チキンレースになると、先にブレーキを踏む。そうすることで命拾いする。でも、ごく稀にブレーキをかけず、アクセルを踏み切ることが奏功する場合がある。闇に降り立った天才アカギが、ブレーキをかけなかったことで逆に助かり、キューバ危機のときのケネディ大統領がソ連とのチキンレースで日和らなかったことで、世界が核戦争に突入するのを防いだように。

 

歴史に名を残している文豪の中には、酒で身を滅ぼした人もそこそこいると思う。リミッターを外して自分にブレーキをかけず酒を飲みまくることが、歴史に名を残す文豪になることの必要条件なのか十分条件なのかはわからないし、酒が彼らの創造性の源になっていたのかも不明だ。でも、これだけは言える。彼らと違って才能がない者には、自ら破滅への道を選択する資格などないと。優れた創造性を発揮もせず、人様に迷惑だけかける権利など誰にもないのだ。

 

だから何の才能もない俺には破滅への道を選択する資格はない、みたいな自虐をするのは、もう飽きた。ブログの中まで予防線を張り巡らせる必要はないだろう。これはもちろん、酒で人生を破滅させます宣言では決してない。ただ、俺のことを1番知っている俺が、俺のことを、もしあるとするならば俺の才能を、他の誰よりも信じて応援しなければならないのだ。俺は俺に何度でも言う。頑張れ俺、加油俺と。

雑感など

手付かずのおせち料理の重箱を見るとなんだか安心する。収まるべきところにすべての料理が収まっている。昆布巻きも黒豆も田作も。海老と数の子だけは少しでかい顔をしているけど。

 

自分の思考もこんな風にきれいに整理整頓されていたらいいのになと思う。仕事のことはここ、将来のことはここ、不安なことはここ、楽しみなことはここ、といった具合に。

 

僕の頭の中はまるでバイキングの取り皿だ。そこには申し訳程度の仕切りしかない。唐揚げの領分にパスタが侵入しているし、サラダのドレッシングは皿全体にかかってしまっている。ぐちゃぐちゃな思い。ごちゃごちゃのFast & Furious。

 

いつからか、色んなことに対して「まあ、いいや」とか「どうでもいいよ」と感じることが本当に多くなった。昔を知る人からは「丸くなったね」とか「あんなに頑固だったのに」と言われることもしばしばだ。確かにそうだよなと自分でも思う。

 

年を経るなかで寛容さが身についたというのは、もちろんあるだろう。でも、事態はそれだけに治まらない。なんというか、負けることに慣れてしまったのだ。

 

小さい頃は、そもそもの対戦数が少ないから、負け試合の数も少なく、自分の実力を過信していた。振り返ると、「どうしてあんなに自信に満ちあふれていたのだろう」と不思議になるほどに。ただ、やっぱり負けが込んでくると、どんどん自信は失われていく。プロスポーツの世界とは違う。そこでは、たくさん負けた人こそが一番勝利の味を知っていたりする。日本プロ野球界唯一の400勝投手の金田正一が、敗戦数でも日本記録を持っているように。対して、僕の人生はここのところ黒星続きだ。大学受験の失敗。就職活動の挫折。肝心なところでの勝負勘がまるでない。

 

こうなってくると、自分に期待をすることができない。何をするにも、「まあ、どうせうまくいかんよなあ」と思いながら事に臨む。案の定うまくいかない。昔みたいにその度に地団駄を踏んで悔し涙を流したりはしない。静かに敗北を受け入れるだけだ。

 

まあ、悪いことばかりではない。おそらく昔のままだったら、会社で毎日のように同僚や先輩や上司と衝突していただろうし、友達の数だって今よりもさらに少なかったはずだ。負けに慣れること、すなわち己の身の程を知ることこそが、大人になるということなのかもしれない。それに、心に余裕だってできた。以前だったら腹が立ったり気になったりしていたことも、「別にいいか」と受け流せるようになった。というか、少し冷静になって考えると、ほとんど全てのことが自分と関係のないどうでもいい些末な事だと気づいたのだ、遅ればせながら。

 

だからこそ、ときに自分の内臓に醜い感情が眠っていることに気づくと、ひどく当惑する。怒りや嫉妬や羨望や執着が自分と分かち難く結びついているという事実に動脈が縮み上がり、思わず顔を歪めてしまう。当惑すると同時に、「この感情は間違っている」と強く感じる。でも、感情が間違っているなんてことがありうるのだろうか。

 

天皇が写った写真を燃やす映像を流すなどして炎上した、とある展覧会を擁護する立場の人が、「批判する人たちは作品の解釈を間違えている」みたいなことを論じた記事を先日読んだ。曰く、「作品が作られたバックグラウンドを理解しなければならない」、「背景を知れば今巻き起こっている批判が的外れだということがわかるはずだ」と。なるほど一理あるなと思った。でも、逆に言うと、一理しかない。僕もその展覧会の作品のいくつかをネットで検索して見た。特に怒りを感じることもなかったけど、感動もしなかったし、ましてや現地に足を運ぼうなどとは思いもしなかった。それに、僕自身は別としても、こういった作品に強い不快感を覚える人は一定数いることは、容易に想像がついた。そういう人たちに、「あなたは作品の解釈を間違えているから不快に思うんですよ、あなたは本来なら抱くはずのない不快感を抱いているんですよ」などと言ったところで、彼らの不快感が帳消しにされることはないだろう。頭ではわかっているけど、心に響かない言葉というものが確かにある。理屈の手が届かないところにこそ、感情が成立するのだ。

 

閑話休題

 

どす黒い感情が湧き上がっているとき、人を傷つける言葉や卑劣な行動が次々と思い浮かぶ。そのどす黒さこそが、自分の本性なんじゃないかと思うと、本当に気が滅入る。負の感情も含めて自分自身なのだと「受け入れる」などといえば、聞こえはいいが、この「受け入れ」は、そのまま「開き直り」であり、「諦め」でもある。自分が抱く負の感情に何らかの尊さを見出すことなんかできないし、そもそも見出すべきなのかもわからない。問題は山積みで、解決の糸口は見えていない。

文系学問の意味

自分がやられて嫌なことは他人にもやらないというのは、多くの人に採用されている原則だろう。まあ、都合よく解釈されてね。

 

というわけで、僕は他人に「大学でどんな勉強をしていたんですか」という質問は投げかけないようにしている。同じ質問を自分にされたときにひどく困ってしまうからだ。困る理由は、ろくに勉強してこなかったからだけではない。

 

「いや、まあ、なんというか哲学系のことを…」と答えて、「あ、なんか難しそうですね」となって、会話がそこで終われば御の字だ。「哲学ってどんなことをするんですか」とか「なんというんですかね、あの、何の役に立つんですか」とか「哲学を学ぶ意味ってあるんですか」といった方向に話が展開すると、文字通り閉口する。

 

そもそも意味とは何かとか、役に立つとはどういうことかということを考えるのが哲学の役割なのかなと考えていた時期もあった。金儲けの助けになることを「役に立つ」というのならば、確かに哲学は役に立たないかもしれないが、学ぶことそれ自体が楽しくて、人生を豊かにすることを「役に立つ」と定義するのなら、哲学だって役に立つだろうなどと。

 

なんという甘っちょろい考えだろう。

 

「意味」とか「役に立つ」のような言葉を、我々は日常生活で特に何も考えずに使っている。「そもそも役に立つってどういうことだっけ」などと顧みることは皆無と言っていい。でも、別にそれらの言葉に何の意味も込めていないわけではない。「意味」にも「役に立つ」にも、人口に膾炙した一般的な意味がある。そしてそれに照らし合わしたときに、哲学が役に立たない無意味なものに思われるから、人々はしばしば上述の問いを発するのだろう。まあ、乱暴な言い方をさせてもらうと、そもそも意味とは何ぞや?じゃねえよ。わかってんだろ、意味だよ、意味。で、お前にはその意味がないの。というわけだ。

 

医学や物理学、化学などといった理系の学問は、明らかに我々に貢献してくれているように見え、例えば「医学って何の役に立つのですか」という問いは馬鹿げてさえいる。文系の学問は、理系の学問のように、有用性を一言で言い表せないという点において、明確に劣っている。なんとも悲しい話だけれど。

 

大体、暴論を承知で言わせてもらうと、コロナウイルスが猛威を振るう現在、ワクチンの開発に寄与できない学問など無用の長物だ。←暴論オブ暴論s

もし、効果的なワクチンが開発されたとしたら、今度はそれをどうやって分配すべきかという議論が起きるだろう。そして、その時こそ、人文学の出番だと主張する人もいるかもしれない。でも、そんなことはないと思う。ワクチンをまず誰から優先的に分配していくのかなどということは、俺ら一般ピープルがガン首揃えて話し合って合意を形成していくマターであって、別に人文学が特権的に首を突っ込む領域ではないし、仮に人文学者が自分たちこそがベストな解答を提示できると考えているのであれば、思い上がりも甚しい。

 

今後、コロナウイルスが収束するにせよ、しないにせよ、「結局のところコロナウイルスとは何だったのか」的な問いに対して、多くの文系学者が手を替え品を替え論じていくことだろう。不要不急の産物だ。そんなものを読んでも抗体は身につかない。皆ワクチンを必要としているのだ。まあ、僕はそこまででもないけど。

 

文学部卒の端くれとして、このまま終わるのは空しすぎるので、少しは文系の学問に対するフォローをしておきたい。少しだけね。

 

難しい古典などは軒並み挫折してきたけれど、哲学者の著作はこれまで世間の平均よりかは読んできた方だと思う。

 

読んでいると、「そんな考えがあったのか」と脳天を貫かれるような衝撃を受けることが稀にある。自分の考えが根本から変わる。世界の見え方が180度転回する。そして生き方が変わる。生き方が変わることで、進むべき人生の道が変わる。そういった著作こそが、自分に新たな羅針盤を与えてくれたと思う瞬間さえある。

 

一人の人の人生に少なからぬ影響を与える。なんともちっぽけな効用だ。

 

ワクチンの開発にはまったくもって結びつかないし。