玉稿激論集

玉稿をやっています。

いずれ必ずや反故にされる誓約

 ご多分にもれず、会社のネットワーク・システムーなどというと、いかさもハイテクなイメージを持たれる向きもあるかもしれないが、僕の職場のそれはパスワードを打ち込んでエンターキーを勢いよく弾いてもなかなか起動しない。つまり「重たい」のだ。もう、曙ばりに。いや、神童に対して周囲の大人が寄せる期待ばりに。いや、メンヘラが恋人に向ける思いばりにーにログインして、メールチェックをするところからその日の仕事が始まるクチなのだが、これまたご多分にもれず、届いているメールの中で重要なものを見つけるのは至難の業で、大抵は「共有いたします」の一言が付されただけの転送メールだったり、謎に自分がCcに入れられている報告メールだったり、送っている側も意味もわからぬまま「参考までに」とのたまった上で容量だけを無駄に圧迫する巨大な添付ファイルがくっついている、ダレトク!?メールだったりの中に、時たま己のみを宛先にした仕事依頼メールやら提出物催促メールが、それこそ広大な砂漠に投げ捨てられた0.1キャラットのダイヤモンドのようにー無論輝きは放っていないもののー紛れ込んでいるのだから、たまったものではない。容量を一定以上オーバしてしまうと、メールの送受信ができなくなるから、定期的に不要なメールは削除する必要があるとはいえ、「こないだメールで送りましたよ」と先方に怪訝な表情をさせた経験も皆無ではないので、これは一定の慎重さを要する作業なのだが、瞬時に不要と判断できるメールも勿論多々ある。マウスを右クリックして、「削除」にカーソルを合わせて左クリック。「本当に消すよ。いいね?」とのポップアップが申し訳程度なのは、そいつのデフォルトが「はい」に設定されていることからも見てとれる。エンターキーを弾いて一丁上がりだ。
 訃報通知もそんなメールの一つとして位置付けられる。
 一体に、その業務形態上、全国展開せざるを得ない我が社ー本当はこんな言葉使いたくないけれどまあ、便宜的にねーはそれなりに多くの社員を抱えており、その御尊父・御母堂らが草葉の陰に隠れる度に、ソーム課から全職員へメールが送られてくるのだ。該メールの末尾には、「なお、御香料、御香典等は辞退するとのことです」的な文面が百パー(本当に100パーセント)の割合で添えられている。少なくとも週に一回は必ずと言っていいほど送られてくるから慣れっこになっている上に、同じ会社の御親族とはいえ、そもそもその人のことも知らないとなれば、いくら感受性が豊かな人であっても、これといった感情は湧いてこないだろう。
 だが、先日届いた訃報通知は少しばかり事情が違った。
 まず、逝去したのがさる社員の両親のどちらかではなく、奥さんであるという点からして、違っていた。さらに、その奥さんもうちの会社ー使いたくない語だけどまあ、便宜的にねーの社員だったとのこと。現役の社員となると、まだ若いうちにお亡くなりになったことが推察され、胸が痛んだ。末尾にはいつものように、香典・香料を辞退する旨が申し添えられている。僕はそのメールを削除しない。大体、通常の訃報通知だって、何も受信したそばから削除しているわけではなく、一定程度の間を置いてからそうしている。僕は血も涙もしっかりと髄まで通った人間なのだ。
【感謝】から始まる件名のメールが届いたのは翌日だった。自身ロクに感謝されるような仕事もせず、仮にしたとしても謝意を律儀にメールで寄越してくる殊勝な連中も周りには皆無と言っていい僕にそのメールを送ってきたのは、奥さんを亡くした該社員と同じ部署に所属している同僚と思われる人だった。宛先欄に目を通すと、「全国社員」となっている。
 氏から依頼されて、どうしても今日のうちに皆様に伝えておいてくれと言われて、メールをした次第である。氏が入社して以来一緒に仕事をしてきた社員を詳しくは知らないから、こうして全社員に向けてメールを送ることとなった無礼を許してほしい。
 かような前置きのあと、数行分のスペースを空けて、該社員からの伝言が記されていた。
「妻が亡くなってから、自分でも予想していなかったほどの多くの社員の方々から慰めの言葉や『お別れに行きたいけど行けない。申し訳ない』といった連絡があり、驚きとともに感謝の気持ちでいっぱいです。自分たちが愛されていたことに気づかされました。お互いの地元を遠く離れた地で働いていた私たち夫婦には友人・知人といったものがほとんどいませんでした。そんななかで、当社社員の皆様が私たちにとっての友人であり、仲間であり、家族であったのだと思います。本当にありがとうございました」
 僕は目をこすった。午後のちょうど眠たくなる時間帯だったからではない。
 以上は嘘偽りのない本当の話である。繰り返すが、これは本当にあった話である。
 つまり、何が言いたいのかというと、僕はこの世界で起きる悲しい出来事にいい加減うんざりしているということだ。いい加減辟易しているといってもいい。全く神も仏もあったものではない。もしそんな全知全能の連中がいるのなら、こんな悲しい出来事なんて起きるはずがないではないか。
「いや、それは拙速に過ぎる考えだよ。神というのは、ありうべき可能世界の集合から最もマシなものを選んで我々に提供してくれているわけであって」
と諭されたところで、到底納得できない。なんて言うと、いかさも僕が会ったこともないのに、奥さんを亡くした件の社員の方を思いやっているように見えるかもしれないが、それは半分しか当たっていない。悲しかったのは僕だ。己の痛みや悲しみに対して滅法敏感にできてる僕が悲しかったのだ。
 湿度の高い言い方をさせてもらうと、この世は悲しみに満ち溢れている。この際だから、さらにウェットな物言いをさせてもらうと、誰かの愛する誰かの死にこの世は満ち満ちている。
 それにもかかわらずだ。それにもかかわらずである。
 巷間ではやたらと人が死ぬコンテンツー映画にせよ、小説にせよ、音楽にせよーがもてはやされている。或いは僕が選択的にその種のものを摂取しているだけなのかもしれない。
 にしてもだ。
 一カット前では、一フレーズ前では、一行前ではピンピンしていた人間がいとも簡単にコロリと死ぬ。病気、交通事故、自然災害、火災、殺人、それに自裁と原因は様々だが、書き手の勝手な都合によって殺される人が後を絶たない。しかもそれに飽き足らず、古今東西の物書きは往々にして、その死に何らかの意味を持たせようとしたり、なんとなればちょいとファッショナブルな雰囲気を付け加えたりしているから始末に負えない。何度も言うように、悲しい出来事なんて巷に溢れている。それを殊更改めて書き立てるなんて、なんて安易でなんて凡庸なのだろう。
 だから、以下を誓約する。
 死ーついでに中絶と失踪もーを描く輩を僕は信用しない。無論自分もそれについて書かない。
 死を描かないと、生の素晴らしさを際立たせられないのだとしたら、そんなのあまりにも空しい。